第29話 会いたくなかったのに

 薄紫色の花が、闇にこぼれ落ちそうにほころんでいた。

 街灯に照らされた紫陽花あじさいだ。

 21時を過ぎたばかりなのに、住宅に囲まれた“かぶらがわ”の周りは、すでに静かだ。

「琢磨、後ろに乗って」

 涼太は琢磨を後部座席に促し、ドアを閉めてから、紗衣を助手席に手引きしてくれた。

「じゃあ、ノンアル組は帰りますか」

 涼太は冗談めかして運転席に着いた。

 青木先生達、飲酒組は、まだ飲んでいる。

 明日も仕事だ。琢磨もいるので、“ノンアル組”は21時で撤収した。

「ごめんなさい、ふたりそろってお邪魔することになってしまって」

「俺は気にしないよ。誰かを泊めるなんて、学生のとき以来だ」

 紗衣はにわかに驚いた。彼のアパートは駅前にあるから、今も友人を泊めることがあるとばかり思っていた。

 もしかしたら、あの人も、と想像してしまったら、胸骨をかりかり掻かれる思いがしたのに。

「あの人は……?」

「あの人は、うちに泊まったことがないよ。俺はあの人の部屋に上がったことはあるが、あの人は家に上げたくなかった」

 遠回しに訊ね、紗衣は後悔した。

 “あの人”は、彼が以前つき合っていた女性だ。

 彼にナイフを扱えないトラウマを植えつけた、危ない女性。

「ごめんね、嫌なことを訊いてしまって」

「嫌じゃないよ」

「ごめんなさい」

 車は赤信号で止まる。

 彼はにわかに手を伸ばし、紗衣の頭を撫でてくれた。

 紗衣は琢磨の目が気になったが、琢磨は早くも、ぐうぐう寝ている。

「紗衣は、不思議な子だよ」

 寝静まったような闇に、彼の声が優しく溶ける。

「琢磨は弟みたいで可愛いと思うし、果歩ちゃんは見た目に反して個性的な愛らしさはあると思う。でも、胸を締めつけられるほど愛したくなるのは、紗衣だけなんだ」

 俺はそんながらじゃないのに、と語尾に苦笑いの色が浮かぶ。

「逆流性食道炎になったのではないかと思うほど、胸が苦しくなって、熱くて焼けそうだった。それなのに、紗衣をもっと見ていたい。近くにいてほしい。一緒にいたい。心から褒めたい。大切にしたい。愛したい。世話を焼きたい。俺にだけは甘えてほしい。そう思えるのは、紗衣だけなんだ」

 信号が青に変わる。

 彼の感じ方は、紗衣とよく似ていた。ほとんど同じだと言っても良い。

 心を寄せる。恋をする。

 しかし、だ。

「それが、涼ちゃんにとっての“飼いたい”とか“ペットにしたい”ということ?」

 紗衣は、ハンドルを握る彼に確認する。

「ごめんなさい。そうなんだ」

 申し訳なさそうに、彼は肯定した。しかし、すぐに話題を変える。

「紗衣のアパートに向かうよ。泊まりの道具とかあるだろうから」

「ありがとう。ごめんね、お世話になりっぱなしで」

「世話を焼きたいんだよ、紗衣には」

 次の交差点は、右折すれば彼のマンションへ、直進すれば紗衣のアパートへ向かう道につながっている。



 アパートの前で下ろしてもらい、紗衣は泊まりの道具を準備する。

 子どものときも、学生時代も、社会人になってからも、誰かの家に泊まったことはない。

 大学の寮が年末年始などで閉寮していた時期にネットカフェで何泊かしたり、最近では4月にうっかり彼の部屋に転がり込んでしまったが、そういう必要に駆られた外泊以外に外泊したことはなかった。

 泊まりの道具とは、何を用意すればいいんだろう。

 そもそも、大荷物が入るようなバッグを持っていない。

 スーツケースでは大袈裟だから、学生時代に卒業論文の資料を入れて持ち歩いていた帆布のトートバッグとエコバッグに、思いついたものを、入れる。

 着替え、歯ブラシ、化粧品、シャンプーとリンスとボディーソープ、スマートフォンの充電器……パジャマでなくて、ルームウエアの方が良いのかな。

 トートバッグとエコバッグに荷物を詰め込み、ガスの元栓が閉まっていることを確認し、玄関の鍵をかける。

 ハザードランプをつけて路肩に駐車する彼の車に向かおうとしたときだった。

 外灯の下に、人影を見つけたのは。

 誰なのか、一瞬で理解した。

 咽喉を締めつけられるように、まるで心臓を握られるかのように、胸が苦しくなる。

 目を逸らしたい。それなのに、目を離すことができない。

 男性だ。会うのは約7年ぶりだから、45歳になるはず。

「久しぶりだな」

 ハンサムと言われる一因だったバリトンボイスは、細く、とがり、紗衣の耳に突き刺さる。

「しっかりやっているのか」

 紗衣の記憶にある、教壇に立って「オツベルと像」や「走れメロス」を明朗と読み上げていた姿と、今のこの人の印象が、一致しない。同一人物であることは明白だが、以前とまるで違う。

 とても痩せた。痩せたというより、やつれた。

 どうしたの? 何があったの? ちゃんと食べているの?

 優しく訊ねる言葉は、咽頭までこみ上げる。

 しかし、それを押さえ込むのは、昔の記憶だ。

 紗衣の弟を上から押さえつけ、縛りつけてしまえ、と怒鳴る、激しい一面。

 この人は、恨むべき相手。

 紗衣の弟を死に追いやった相手。

 わたるを手の届かない場所に追いやった相手。

「あなたこそ、しっかりやっているんですか」

 紗衣は、バッグの持ち手を握りしめ、唾液を飲み込む。口腔内に酸味を感じたが、関係ない。

「授業を放棄したんですか」

 この人に隙は見せたくない。

 声帯に鞭打つように、紗衣は明確に発音する。

「お父さん」

 外灯の下で、相手は目を細めて軽くあごを上げた。

 花巻で教鞭をとる父が、なぜかここにいる。

 理由は推測できる。琢磨を連れ戻すためだ。

 紗衣は相手にしない。必死でこの親から逃げてきた琢磨は、渡さない。

「急いでいるので、失礼します」

 紗衣はきびすを返して車に向かおうとしたが、強い力で腕を掴まれた。

「琢磨をどこへやった」

 紗衣は首を横に振る。

 絶対に言わない。見当もつかせたくない。

「琢磨がどうしたの」

「愚問だ」

 父は父で、琢磨は紗衣の元にいると思っている。当たっているが、紗衣はしらばっくれる。

 紗衣は、ずきずきと後頭部に痛みを感じた。まるで脳が沸騰するかのようにこみ上げるのは、怒りだ。

「そんなことをして、楽しいの?」

 あのときもこんな風に、紗衣の弟を、航を、押さえつけて、ねじ伏せて、逃げ場を塞いで、決して手の届かない場所に追いやった。

「そうやって、航を追い詰めて!」

 飲み込んだ唾液が酸っぱい。食道を逆流して口元まで来るようだ。

「航を死なせて!」

 紗衣どうしたの、と優しい声が割り込む。紗衣はそれを振り払い、父に投げつけた。

「あんたが航を殺したの!」

 ありったけの声を絞り出して、これまで言えなかった憎悪の気持ちを。



 航。

 心優しい弟。

 紗衣の本当の弟。

 ごめんなさい。

 こんなことしかできない姉で、本当に、ごめんなさい。

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