第27話 琢磨

 受付に戻ると、保坂事務長から「この人なんだけど」と保険証を見せられた。

 保険証に書かれた氏名は、“鈴村琢磨”。

 保険証の裏面には、手書きで住所が書かれている。

 紗衣は保険証を指でなぞった。

 懐かしい、という感傷は雫のように心の水面に落ち、波紋のように広がる。

 保険証に書かれた住所は、紗衣の実家の住所。岩手県花巻市。筆跡は、母親のもの。

 待合室の隅に、中学生くらいの少年がいる。

 この子だ。こんなに大きくなったんだ。

「琢磨」

 紗衣は少年に歩み寄る。

「お姉ちゃん!」

 少年は躊躇ためらう様子もなく、紗衣にとびついた。



 ――ごめんね、琢磨。



 11歳離れた、可愛い弟。

 その無邪気な顔を、紗衣は悲しみで歪ませた。



 ――私は、琢磨の本当のお姉ちゃんじゃないんだよ。



 春が近づく、みぞれが降る日。

 お姉ちゃん行かないで、とジャンパーを引っ張る手を力尽くで離して、大好きな弟に事実を突きつけた。

 それなのに。

 なぜ、お姉ちゃんのところに来てしまったの。

 もう会わない方が良いことは、わかり切っているのに。

「家出、しちゃった」

 ぼてっと低くなった声が、申し訳なさそうにしぼむ。

「行き先が、お姉ちゃんのところしか思いつかなくて、新幹線に乗っちゃって……ごめんなさい」

 声変わりしても、紗衣の記憶にある、甘えん坊の弟だった。

 紗衣は、芯の強い癖毛をそっと撫でた。

「おつかれさま」

 琢磨は背が伸びた。そのうち紗衣を抜いてしまいそうだ。

「ひとりで来られて、偉かったね」

 琢磨の事情を訊こうとしたところ、くいくい、とカバースカートを引っ張られ、ちらっとまくられた。

 腰の辺りを見れば、園児みたいな小さな女の子が、小さな手でカバースカートをつまんでいる。

 駄目でしょ、と、ママに𠮟られた女の子は、涙と赤いほっぺで訴える。

「おねえちゃんのスカート、かわいいんだもん。まみちゃんも、おねえちゃんみたいなスカートがほしい」

「風邪が治ったら、お店に行こうね。まみちゃんの好きなチェック柄の布で、スカートをつくってあげる」

 親子はお会計をして、隣の薬局へ行った。

 午前中の診療時間は過ぎ、診察待ちは誰もいないので、午前の診察を終了することになった。

 星野ヤスエの救急搬送騒ぎで、かなり時間が経っていたのだ。

 スタッフは早めに残務を切り上げ、昼休みに入る。

「琢磨くん、中学生?」

「はい。中学2年生です」

「部活動は?」

「卓球部です」

「お昼ご飯は?」

「駅でお弁当を買いました」

 琢磨はスタッフ喋りながら一緒のテーブルに着き、独特の形をした弁当箱を置いた。高崎駅名物の、だるま弁当だ。

 紗衣はテーブルからはじき出されたところを、涼太に椅子を引っ張られて隣に誘導された。

「それだけで、足りるの?」

 膝の上で開けた弁当箱を覗き込まれ、紗衣は心臓が破裂する心地になった。

 今日のお弁当は、鶏むね肉の野菜ロール、パプリカと玉ねぎのマリネ、古代米を混ぜた米飯のおにぎり。おにぎりの米飯は100g以下にした。

「大丈夫です」

「紗衣の大丈夫は、大丈夫ではない」

 彼は、コンビニのコロッケパンを半分くれた。

「可愛い紗衣が倒れちゃうところなんて、見たくない」

 耳元で囁かれ、紗衣は頷いた。

 可愛い紗衣。

 紗衣が琢磨を“可愛い弟”と表現するのとは、意味が違う。

 今この瞬間は、職場の先輩と後輩。仕事が終われば、紗衣は彼のペットであり“家族”。そんなこと、理解も納得もしている。

 不満なんてないと自分に言い聞かせ、コロッケパンを咀嚼嚥下した。

 琢磨と女性スタッフの会話に耳を傾ける。

「琢磨くん、ひとりで来たの?」

「はい、ひとりです」

「偉いねー。お姉ちゃんのところに泊まるのかな?」

「それは」

「俺のところに、泊まっていけば」

 琢磨が言葉を濁し、すかさず口を挟んだのは、涼太だった。

も一緒に」

 涼しい目元は、紗衣を捉える。

 紗衣は首を横に振って断ったが、琢磨に「お世話になります」と言われてしまい、決定してしまった。

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