第26話 看護師は職人だ

 ゆかに膝をついてはいけない。

 床は不潔だから、衣類に菌を付着させないようにするためだ。

 そんなの常識だよ、と前職では嘲笑あざわらいされた。

 だから紗衣は、ここでも膝をつかないように気を張って立位を保持する。

 ふらふらしているように見せてはいけない。

 紗衣は、蓋をしてしまいそうな咽喉を無理矢理動かし、声を出した。

「望月さん」

 彼は蛇口の水を止め、吸引器の瓶を水切りのようなところに伏せた。プラスチックグローブを外し、黒い瞳で紗衣と視線を合わせようとする。

 紗衣は、目を合わせられなかった。

「本当に申し訳ありませんでした」

 深く深く、頭を下げる。

「何もできず、申し訳ありません」

 電話応対も、道具の準備も、バイタル測定も、紗衣はきちんとできなかった。

 それに対し彼は、喀痰吸引の道具を揃え、ヤスエの鼻腔チューブを抜去し、口腔から吸引した。それでもヤスエのバイタルは変わらず、うがいをしているような咳も治まらず、救急搬送要請した。

 入院になるかも、と青木先生は言っていた。

 紗衣はそろそろ受付に戻らなくてはならない。その前に、謝りたかった。

「自分が恥ずかしいです。涼ちゃ……望月さんも、薫ちゃんも、患者様を見て状態がわかっていたのに、自分は全くわからなくて、何も知らない自分が恥ずかしいです。もう遅いかもしれませんが、勉強します。だから」

 だから、と言ったが、続ける言葉が見つからなかった。

 だから、見捨てないで。

 だから、もう一度チャンスを下さい。

 だから、先程の内容を教えて下さい。

 どの言葉も、彼には迷惑かもしれない。

 紗衣は頭を上げた。しかし、恐れ多くて目は合わせられない。

 視線のやり場がなく、ふと彼の手を見てしまった。両手とも震えている。

「俺は、紗衣にお礼が言いたい」

 彼は、自分の震える手を握りしめる。

「あの人に手を添えてくれて、ありがとう」

 なぜ彼は、お礼を言ってくれるのか。

 紗衣にはわからない。

「男2、3人で大声を出して何かやってたから、あの人は不安だったかもしれない。紗衣が手をさすってくれたのは、不安を和らげる“手当て”だった。俺達は、処置と救急搬送要請でそこまで気がまわらなかった。紗衣がいてくれて、良かった」

 彼は、手を握ったり開いたりする。

「手がこんな状態じゃなければ、紗衣を抱きしめて撫でたいくらいだよ」

 紗衣は、目を伏せて良かった、と思った。頬が熱を帯びる様を見られたくないから。

 しかし、彼が心配だ。PTSDでナイフが使えないと聞いたことがあるから。ナイフは使わなかったが、他にもトラウマがあるのかもしれないから。

「手、大丈夫?」

「大丈夫。久々に喀痰吸引を施行したから、緊張してしまって」

 駄目だよな、と彼は自虐する。

 紗衣は、彼の顔をうかがった。

 彼は苦笑していた。

「初めての看護実習のとき、指導担当のナースに言われたんだ。看護師は職人だ、と。知識や技術は見て盗んで覚えろ、自分から学ぶ姿勢がないと上達しないから」

 そうだったんだ、という相槌を、紗衣は飲み込んだ。それと同時に、看護師が身を置いている状況を甘く見ていたことに気づき、何も知らない自分が恥ずかしくなった。

 がつがつ働かないと取り残される不安は、穂高病院の看護師にもあったのかもしれない。在職中に気づくことができなかった。

 紗衣は両手を伸ばし、彼の両手を包み込むように軽く握った。

「紗衣、駄目だよ。冷や汗がすごいし、まだ震えているし」

 本人が言うように、手のひらは汗ばんで冷たい。震えは止まらない。

「手当て。涼ちゃんにも」

 治りますように。

 紗衣はがらにもなく、子どもじみたことを思ってみた。



 星野ヤスエは誤嚥しており、肺炎の疑いがある。

 ヤスエを見たとき、彼も青木先生も、そう思った。

 バイタル測定すると、微熱傾向、血圧高値、心拍数高め、血液中の酸素濃度は無難ラインの90%を下回る。

 咽喉につっかえている水分を吸引できれば、酸素濃度が戻るかもしれない。呼吸が落ち着けば、血圧と心拍数も落ち着く可能性がある。

 薫の話では、朝に経管栄養を摂取したばかりだという。

 もしかしたら、経鼻チューブが食道に通らず咽喉で止まっているのではないだろうか。

 で経鼻チューブに空気を送り、チューブが内部まで通っていれば、聴診器で空気が通る音が聞こえる。しかし、実際には聞こえなかった。チューブが咽喉で止まっている可能性が大きい。

 青木先生の指示を受け、経鼻チューブを抜き、吸引を施行した。栄養剤らしき液体が吸引できた。

 しかし、ヤスエのバイタルは変わらない。状態も変わらない。このまま呑気にアレルギー内科を受診させることはできない。

 だから、救急搬送要請をした。



「あの人は、皮膚が弱いみたいだね。創傷を保護するテープを貼っていたよ。自分の爪で傷をつくったり、経鼻チューブも抜いてしまうのかもしれない。身体拘束していたのも、そういう理由だろう」

 紗衣は彼の話を聞きながら、メモを取る。本格的に医療も介護も勉強したわけではないから、難しい。

「鈴村さん、ちょっといいかな」

 青木先生に呼ばれ、紗衣は顔から火を噴きそうなほど驚いた。

「確認してほしいことがあるんだ」

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