第25話 急変

 9時の受付開始から約30分後、受付の電話が鳴った。

「お電話ありがとうございます。青木クリニックでございます」

 紗衣は電話応対が苦手だ。学生時代にコールセンターのアルバイトをしたお蔭で基礎はできているが、ブランクは大きい。ちなみに、青木クリニックでは最初は名乗らないのが基本。不審な電話もあるからだ。

「おはようございます。“居宅支援事業所くすのき”のアリサカと申します」

 耳に覚えのある声に、紗衣は首を傾げた。ふわふわした男性の声だ。

「受診をお願い致しました星野ヤスエ様なのですが、つい先程から調子が良くなくて、訪問看護ホウカンからの連絡を待っている状態なんです。約束の時間に遅れてしまい、申し訳ありませんと伝えて頂けませんか」

 紗衣はつい、「はい」と答えてしまい、相手の連絡先を控えた。電話を切ってから、失態に気づいた。紗衣の一存で判断できる話ではない。

 すぐに保坂事務長に報告する。保坂事務長は、紗衣の失態だと解釈せず、「待ちましょう」と言ってくれた。

 星野ヤスエが来院したのは、それから31時間ほど後のことだ。

 紗衣は受付のデスクから姿を拝見し、胸が痛んだ。

 小柄な高齢者女性、ヤスエは、片方の鼻にチューブを入れ、両手はミトンに包まれ、ミトンは紐で車椅子に縛りつけられていた。まるで咽喉でうがいをしているような、変な咳をしている。

 ヤスエの車椅子を押していた男性が後期高齢者医療保険者証を提示し、「お紗衣?」と訊ねる。

 紗衣も小さい声で「薫ちゃん?」と驚いてしまった。

「ごめんなさいね、厄介事を持ち込んでしまって」

 そういえば、薫はケアマネ-ジャーで、苗字は有坂ありさかだ。

「とんでもないです。奥の検査室へご案内します」

 受付は先輩スタッフに任せ、紗衣はふたりを検査室へ案内する。

 一度だけ振り返り、薫の表情を伺った。薫はヤスエの車椅子を押しながら、眉根を寄せて渋い顔をしている。薫から見ても、ヤスエは良い状態だといえないようだ。

「失礼します」

 薫だけでなく紗衣も一礼して、検査室に入室した。

 診察室で他の患者様の診察をしていた青木先生も、スタッフルームを通り抜けて検査室に来てくれた。

「あー……こんな状態だったのか」

 青木先生は、薫に「このかたの情報あります?」と訊ね、薫はA4サイズのバインダーとA5サイズのノートを青木先生に渡す。

「今朝、訪問看護の看護師が経管栄養を流したそうです。連絡帳にはバイタルも経過も問題ないと書かれていますが、はっきり申し上げて、ヤスエ様は誤嚥しています。先程、訪問看護に問い合わせましたが、『何も問題はなかった』の一点張りでして。ご家族様にもご報告申し上げましたが、『いいからアレルギー検査をしてくれ』というお返事しかありません」

 杜撰ずさんだね。

 青木先生は、言い切った。

「俺から訪問看護と家族に連絡する。バインダー、借りていい? 望月くんは、このかたのバイタルをもう一度測ってくれるかな。念のため、吸引の道具一式と滅菌水の用意、鈴村さん頼んだ」

 青木先生は、外線の使える診察室に戻ってしまった。

「本当にごめんなさい。大事おおごとになってしまって」

 青木先生の前では、きびきびと報告していた薫も、さすがに動揺を隠せない。

 バイタル測定を指示された涼太は、冷静に体温計や血圧計を用意する。

 問題は、紗衣だ。指示された道具がわからない。

 吸引器だけはわかったが、一式と言われると何を用意するのか検討がつかない。

「紗衣、薫ちゃん」

 体温計、血圧計、指先に挟んで何かのパーセンテージを測る小さな機械を、紗衣は涼太から手渡された。

「道具は用具するから、バイタル測定して」

 了解、と返事をしたのは、薫だ。慣れたように血圧計をヤスエの腕に巻きつける。

 高いわね、と薫は呟き、車椅子に縛りつけられていた紐を片方だけほどきミトンを外す。

「お紗衣、“酸素”を測って。ぼく体温を測るから」

 薫は、体温計をヤスエの脇に入れて軽く抑える。

 紗衣は、指先に挟む機械をヤスエの指につけた。小さな画面には85%と表示され、数値はほとんどかわらない。ヤスエの手の甲は皮と骨しかなく、小さな皮下出血があった。

「バイタルは」

 涼太が訊ねる。

KTケーティー、37.4。BPビーピー、154の90、Pプルス110。SpO2エスピーオーツーは85%」

 そう答えたのは、薫だ。

 涼太は「酸素がとれないのか」と独り言。どこからか聴診器とスポイトみたいな道具を持ってくる。

「チューブに空気を送るから、届いているか確認して」

「了解」

 薫は聴診器を両耳につけ、ステンレス製の円い部分をヤスエの肌着の下から肌に当てる。

「……音がしないわ。空気が届いていないみたい」

「そうか」

 涼太は、顎を引いて深く頷いた。

 戻ってきた青木先生に、涼太はバイタルを報告する。

「それと、マーゲンチューブが胃まで届いていないようです。咽喉でを巻いているかと」

「やっぱり。チューブが胃に届いていないのに、を流しやがったか。肺炎を起こしてもおかしくないぞ」

 青木先生は、舌打ちした。

「訪問看護も家族も、『そっちで好きにやってくれ』と言っていた。だから、好きにやらせてもらおう」

 青木先生は場にそぐわず、にやっと笑う。

「マーゲンチューブを抜去して、喀痰吸引。サットが90%まで上がらなければ、救急搬送する。……ケアマネさんにはもっと迷惑かけるけど」

「構いません」

 薫は、毅然と言い切った。

「ヤスエ様の命が大切ですから」

 紗衣は何もできず、強い力で自分の手のひらを握りしめようとしていたヤスエの手をとり、ただ、さすっていた。

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