第22話 おかえり

 日曜日の11時。

 薄雲の空の下、自転車は進む。

 前かごには、保冷剤を詰め込んだ保冷バッグを入れて。

 自転車が揺れるたびに、荷物も揺れる。

 大きな不安と幾何かの期待を代弁するかのように。



 明日、お家にお邪魔してもいいですか?

 何度もメールに打ち込み、送信せずに削除した。

 彼はクラス会を楽しんでいるのだから、邪魔をしてはならない。

 看護学校の卒業生だから、女の子だってたくさんいるだろう。

 仲の良い女の子がいたのかな。

 前の彼女さんより昔の彼女さんとか、いたのかな。

 二次会も行ってきたのかな。

 新しい彼女さんとか、できたのかな。

 そんなこと、考えてはいけない。

 私は彼のペットでしかないのだから。

 紗衣は自分に言い聞かせる。

 彼は、紗衣のことを家族だと言ってくれた。しかし、きっとペットは家族という考え方だ。

 紗衣は彼のペットでしかない。



 JR高崎線倉賀野駅近くのマンションで、紗衣は自転車を下りた。

 駐輪場に自転車を駐めさせてもらい、彼に教えてもらった部屋番号を探す。

 3階の“望月”の表札の前で、インタ-ホンを押す。しばらく待ったが、物音は聞こえない。ドアノブを回すと、鍵がかかっているようだった。

 紗衣は、もらった合鍵で解錠した。

 お邪魔します、と口に出し、部屋に入った。

 異様なまでに静かだった。

 リビングのカーテンは閉まっており、直前まで活動した形跡がない。

 紗衣は保冷バッグの中身を、勝手に冷蔵庫に入れた。

 苺のババロア。またつくってしまった。今度は、彼だけのために。職場の冷蔵庫の前に居座っていた彼を目の当たりにして、もっと食べたいのかと思ったから。

 隣の部屋を仕切る引き戸を開けると、家の主はいた。

 ベッドに横になり、すやすやと寝息を立てている。

 なんと無防備な、と紗衣は思った。

 仕事中のように涼しさをたたえているのではなく、紗衣にじゃれるような綻ぶ表情でもなく、無垢な寝顔。それでも、整った甘い相貌は崩れない。

 じろじろ見ては失礼だ、と紗衣は思ったが、目を離すことができない。

 足音を殺して近寄って、わずかに髭の生えたあごを注視して、口元のほくろに触れたくて。

 躊躇ためらいなく近づいて、甘えられたら、きっと気楽なのに。

 それができたら、自分の心拍数が上がる様を感じなくて済むのに。

 彼は、わずかに眉を動かした。

「紗衣?」

 目を何度かしばたたかせ、仰臥位あおむけのまま表情筋を綻ばせた。

「おかえり、紗衣」

 おはよう、でもなければ、こんにちはでもない。

 おかえり。

 紗衣が帰ってきた、という認識だ。

「どうぞ」

 彼はマットレスの奥に体をずらし、スペースをつくる。

「少し休めば」

 シングルサイズのベッドは、ぎりぎり紗衣が入るスペースがある。

 問題はそこではない。

 あえて内容は口外しないが、問題はそこではない。

「俺は普段、コンタクトレンズを入れているんだ。今は裸眼だから、はっきりと見えない」

 え、そうなの? いつもコンタクトレンズだったんだ。

 紗衣が呆気にとられていると、彼は宙に腕を伸ばす。

「紗衣、お顔をはっきり見せて」

 彼の指先が、編み込みしきれなかった紗衣の髪に触れた。その瞬間、心臓が大きく跳ねる。

 髪数本を梳く指先は、頬や顎をなぞる。触覚で顔の輪郭を認識されると、大きな手のひらに包まれた。

 無駄に大きな胸は、鼓動を抑えることができない。

 いくら飼い主とはいえ、男と女だ。ひとつのベッドで間違いが起こらないとは限らない。

 それなのに。

 紗衣はベッドサイドに手をついた。

 真白いシーツに膝を乗せ、マットレスに腰を沈める。

 入ってしまった。彼のベッドに。

「もう少し、近く」

 求められるまま、紗衣は彼に近づく。体が触れ合いそうだ。ふたりともきちんと服を着ているが、紗衣は鼓動を抑えることができない。

「今日も可愛いね」

 ペットボトル1本分の至近距離で、彼の瞳は紗衣を認識する。

「帰ってきてくれて、ありがとう」

 頭を撫でられるが、俯く余裕がない。

 紗衣は目を伏せた。

「急に訪ねたりなんかして、ごめんなさい」

「気にしないで。俺は嬉しい」

「でも、寝ていたのでは」

「あ……もう、昼なのか」

 彼は枕元のスマートフォンで時間を確認するが、すぐに紗衣に向き直る。

「でも、紗衣とこうしていたい」

 駅に近いのに、喧騒は聞こえない。

 ふたりきりの静かな空間だ。

「涼ちゃん」

 紗衣が呼ぶと、彼は微笑んだ。

「昨日は、何時に寝たの?」

「ほとんど朝だったか。二次会が3時に終わって、代行を拾って、帰宅してシャワーを浴びたら、夜が白々と明けていた」

 紗衣には、とてもそんなことはできない。日付が変わる前に眠くなってしまうから。仕事でなければ、夜中まで頑張る体力なんか、ない。

「あのね、涼ちゃん」

 紗衣は口を開き、すぐにつぐむ。

 年甲斐もなく甘えた口調になってしまい、恥ずかしい。

 彼はただ微笑み、先を促してくれた。

「ババロアのおかわりをつくってきたよ。冷蔵庫に入れさせてもらいました」

「つくってくれたの? まじか、ありがとう」

 彼はおもむろに、紗衣を抱き寄せる。立位の状態でないから、すんなりとはいかなかった。じれじれと体を寄せられ、紗衣は末梢まで血液が沸騰する錯覚に陥る。肺動脈には静脈血が流れているんだっけ。

「しばらく、こうにさせてほしい」

 耳に心地良い優しい声は、にわかに甘えの色を帯びる。

「夢をみていた。実家で飼っていた、犬の夢を」

 いぬ、と紗衣が繰り返すと、彼も、犬、と口腔内で言葉を転がした。

「俺が生まれる前から実家にいた、大きな雑種。ペイタと呼んでいた」

 彼の脳裏には、きっと飼い犬の姿が浮かんでいるのだろう。

「座敷犬でなくて外飼いだったけど、いつも俺がペイタの散歩をしていた」

 彼は細い指で、紗衣の首に触れる。

「俺が中学生のとき、ペイタは遠くに旅立ってしまった。寿命だから仕方ないと頭ではわかっていたけれど、ショックは大きかったな」

 首に触れた指先は、そろりと喉元へ移り、すぐに離れた。

「壊れていたんだ、あのときの俺は。納屋に残っていたペイタの首輪をつけ、運悪く首輪が締まってしまい」

 呼吸困難で意識喪失。救急搬送された。

 彼は淡々と語る。

「祖父母両親からは、ひどく叱責された。当時は、ペットが家族という考え方はマイナーだったから、学校でも陰口の対象になった。望月涼太はペットしか好きになれない変態だ、と。その陰口を知った祖父母も両親も思い当たる節があって、信じ込んでしまった。俺も、自覚があった」

 紗衣は彼のTシャツの裾を、くしゃっと握りしめる。

 感情というものが他人にも流れ込んでくるものだとしたら、今まさに、彼の感情が紗衣の中に流れ込んでいる。そんな錯覚を、紗衣は起こしていた。

「高校は、実家から離れた寮のある学校を選んだ。でも、そこでもあの話が広まって、退学はしなかったけど所属していたサッカー部を退部した。本当は獣医になりたかったけど、ペットしか愛せない俺には無理な話だった。だから、次に志望していた看護師を目指すことにした」

 実家を出て、できるだけ遠く。

 知名度ランキングで最下位だった群馬県の看護学校を選んだ。3年間学んで、正看護師の資格を取得して、今なんとか生きている。

「それでも、ペットにして愛したい衝動は抑えられない。紗衣と一緒にいたい。家でのんびり過ごしたり、たまには出かけたり、良い子だね、可愛いね、と心の底から褒めたい」

 まくし立てる彼の声は、震えていた。

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