第21話 苺日和

 萌えるような若葉で初々しくよそおった山は、しっとりと濃さを増してゆく。

 5月25日、土曜日。快晴。

 夏のように強い日差しの中、爽やかな風をきって、紗衣は自転車を進ませた。

 自転車の前かごには、保冷剤を詰め込んだ保冷バッグを入れて。

 無駄に大きな胸は、大きな不安と幾何いくばくかの期待を膨らませて。

 腕時計が示す時間は、8時15分。

 いつもの時間に職場に着いたのだが、すでに出勤していた職員がいる。

 玄関のプランターに、じょうろで水をあげている男性がひとり。

 紗衣は自転車から降り、口を開いた。しかし、言葉は咽喉につかえて出てこない。

 涼ちゃん。

 彼を愛称で呼びたいのに、呼ぶことができない。

 ふとした瞬間に、彼の冷たくも美しい様を目の当たりにしたら、無駄に大きな胸に、熱くも冷たい不思議な感覚が生じてしまう。

 彼は、じょうろを持ち上げて、紗衣に微笑みかけた。

「おはようございます」

 表情筋を綻ばせるその笑みは、夜空に浮かぶ月のように、静かで、美しい。

 彼はメディカルウエアに着替えておらず、レーヨンのようなさらりとした生地の水色のシャツに、インディゴのジーンズという出で立ちだ。

「自転車、置いてきたらどうですか」

 そう言われ、紗衣は急いで自転車を駐輪スペースに置いて、玄関に戻る。

「申し訳ありません。お忙しいのに、やって頂いて」

 ぽん、と軽く言葉が出て、紗衣自身が驚いた。でも、敬語だ。職場だと、どうしても上手く話せない。

 彼は軽く首を傾げる。

「俺は忙しくありませんが」

「でも、訪問入浴のお仕事は」

「それは、休日だけです。毎回あるわけではありませんし」

 大型連休の後に、紗衣は知った。

 彼は青木クリニックの正規職員だが、訪問入浴のアルバイトもやっていることを。

 院長の青木雅哉先生も事務長の保坂育美も、副業を認めていた。

「明日はありますか?」

 訪問入浴のアルバイトはありますか、と紗衣は彼に訊ね、気づいた。これでは、まるで遊びに誘っているみたいだ。

 彼は首を横に振る。

「明日はありません」

 爽やかな風が、二人の髪を撫でる。

「ところで、それは」

 彼は紗衣の手元を指差した。保冷バッグだ。

「苺のババロアをつくってきたのですが」

「皆さん喜ぶと思いますよ」

 その答えを聞き、紗衣は無駄に大きな胸を撫で下ろした。

 昨夜、果歩が急に訪ねてきて、「食べきれないから、食べて!」と涙目でパックの苺を渡された。ふるさと納税の返礼品で送られてきたのだが、二か所の自治体から同時期に苺が送られてしまい、食べきれずに困ったという。かなりの完熟状態だったため、ふと思い立ってババロアにした。量はそれなりにあるから、いっそのこと差し入れにしてしまおう、と。

「昼休みが楽しみですね」

 彼は目を細めた。

 彼も喜んでくれた、と紗衣は勝手に解釈した。



 昼休み。紗衣は冷蔵庫から苺ババロアのカップを出す。

「鈴村さんの手づくり?」

 訊ねられ、紗衣は肯定した。

「若いのに偉いねー。頂きます」

 苺ババロアは好評。

 彼も定位置の椅子に座って、黙々とスプーンを動かす。紗衣はちらりと彼を見やり、安堵した。一番食べてほしかった人に、食べてもらえた。

 紗衣は空のカップを回収し、給湯室で洗う。

「望月くん、おかわりはないよ」

 青木先生の声が聞こえた。

 紗衣は給湯室を出ると、冷蔵庫の前でしゃがみ込み、真表情で固まる彼を見つけた。

 観覧車に乗れずにショックを受けたときと同じ反応だった。



 5月も末となると、日没は遅くなり、18時でもけっこう明るい。

「すみません、お先に失礼します」

 彼はさっさとタイムカードを押した。

「看護学校のクラス会、今日なんだっけ?」

 ママさんに訊ねられ、彼は「そうです」と答えた。

「連休中にできなくて、今頃なんです。もう6時に始まっていて」

「いいよ、いいよ。気にしないで、行っておいで」

「はい。行ってきます」

 その会話を聞きながら、紗衣は事務所の片づけをした。

 引き出しの鍵をかけ、タイムカードを押し、ロッカールームに向かっていたところ、私服姿の彼と廊下で鉢合わせる。

「行ってくるね」

 甘いマスクを綻ばせ、紗衣の頬を両手で撫でる彼は、もう看護師の“望月さん”ではない。紗衣の飼い主の“涼ちゃん”の顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます