第19話 彼にも苦手なものがある

 重い食器と、ナイフとフォークが触れ合う音。

 賑やかなファミレスではなく、静かな喫茶店だから耳に入る、喫茶店の音。控えめに雰囲気を整えるのは、館内BGMの鳥のさえずりと、花の香り。

 “花の交流館”に併設された喫茶店でテーブルに案内され、料理を注文すると、彼は籐の椅子にもたれて居眠りを始めてしまった。

 仕事の休憩中に、彼が椅子に座って目をつむる様子はよく見かける。しかし、寝息を立てて前後不覚に傾眠するのは珍しい。

 自分のことを話してもいいか、と訊ねられた。

 いつ語られるのか気になり、紗衣は落ち着かない。

 紗衣を気遣ったのか、彼は円いテーブルの、紗衣の正面ではなく隣に座った。肘がぶつからないように、左利きの彼が左側に。

 彼は、紗衣の話を聞いてくれた。しかし、嫌な思いをさせてしまったかもしれない。それが気がかりだった。

 注文したハンバーグプレートが運ばれてくると、彼は目を覚ました。

 眠気で虚ろだった目は、ナイフとフォークが入った箱が置かれる音で、見開かれる。

 音に驚いたのではない、と紗衣は思った。

 シャツの胸元を握りしめ、落ち着けと言い聞かせるかのように、深い呼吸を繰り返す。

「涼ちゃん」

 紗衣が声をかけると、彼はゆっくりとまばたきをした。

「ごめんね」

 彼はグラスの冷水を一口飲む。

「俺は、ナイフが使えないんだ」

 グラスの中の氷が、からからと動いた。

「PTSDだと精神科で言われた」

 PTSDという名前は、紗衣も聞いたことがある。うろ覚えだった和名を明確に思い出したくて“しんて”とスマートフォンの検索エンジンに入力すると、“心的外傷後ストレス障害”と予測変換されたこともある。

「以前、高崎市内の白鷺病院に勤務していたんだ。そのとき、昔の彼女にナイフで刺された。腕で顔をかばおうとしたら、そこを、めがけて」

 紗衣は、ふと背筋が冷たくなった。空調のせいではない。冷や汗を感じている。

大事おおごとにしたくない病院のお蔭で、新聞にも週刊誌にも載らなかった。近所では噂になったけどね」

 彼は、淡々と語る。

「彼女からつき合おうと言ったのに、彼女が浮気をしていて、彼女から別れを切り出された。俺が主体的でなかったから、愛想を尽かされたんだ。ペットしか愛せないことは知られなくて良かったと思っている」

「涼ちゃんは彼女さんのことを、どう思っていたの?」

 紗衣は訊ねた。

 彼は首を横に振る。

「好きになれるかもしれないと思った。でも、なれなかった」

 彼はシャツの袖をまくり、左前腕をあらわにする。紗衣の目から見ても、血色の良い綺麗な肌だ。紗衣はとっさに、自分の腕と見比べてしまった。移動手段は自転車がメインなので、日焼け止めを塗っても焼けてしまう。

 ふ、と彼が笑みをこぼす。

「ごめん」

 咳払いをするが、頬は緩んだままだ。

「そういう可愛いところは、あの人にはなかった」

 話を戻すよ、と彼は言う。

「あんたも痛みを感じなさいよ、とあの人は笑っていた。そのときたまたま近くにいたのが、青木先生。開業前で、“白鷺”の非常勤医師だった。先生は割って入って下さって、怪我の処置もしてくれた。お蔭で、傷は残っていない」

 しかし、彼の心には深い傷が残っている。

 彼が青木クリニックに転職した理由は、紗衣にも漠然と想像できた。

「ごめんね、こんな話で。料理、食べようか」

 紗衣は、彼にフォークだけ渡した。

 彼は、「ありがとう」と微笑み、紗衣の頭を撫でようとする。紗衣もそれに応じて撫でてもらった。

「結婚式に呼ばれたときは、参ったな。ナイフは使えないと返信はがきに書いたのに、披露宴のテーブルにはしっかりナイフが用意されていて。会場のスタッフに話したら『マナーとか気にしないで食べて頂いて結構ですよ』と言われてしまった」

 ステ-キを食べ損ねたんだよな、と明るく話してくれるが、紗衣は笑えなかった。

 “meseメーゼ”でコース料理を頂いたとき、彼はローストビーフをハンバーグに変更していた。ナイフとフォークでワンセット、というのがテーブルマナーだが、ハンバーグならフォークだけでも食べられなくはない。

「涼ちゃん、ごめんね。本当に、ごめんなさい」

 胸に灯火がともるような幸せなお出かけだったはずなのに、背筋が冷たく、心臓が締めつけられるようだった。

「私があんなことを話さなければ、あなたに話させなかったのに」

 額のキスもバックハグも驚いたけれど、彼なら嫌ではなかった。それなのに、前職の嫌なことを思い出して、話さずにはいられなくて、そのせいで彼からも過去を話させてしまった。

 紗衣はそう思ったのに。

 彼は否定した。

「それは違う。紗衣には話せるかと思ったから」

 湯気のおさまってしまったハンバーグは、中はほんのり温かった。

 紗衣も、ナイフを使わずにフォークだけで頂いた。

 花の香りと、鳥のさえずりのBGM。肉の甘みと旨みが引き立つハンバーグ。心を寄せる彼との食事。彼に寄り添いたい自分がいる。

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