第2章 彼は飼い主なのに

第14話 会いたかった

 柔らかい葉が一斉に芽吹く。

 目に優しい若葉が萌えるのは、初夏の限られた時期だけだ。

 紗衣は自転車のペダルを踏み込み、肺を満たすように若葉風を吸い込んだ。

 今日は、5月2日。世間は明日から、大型連休後半。青木クリニックも、カレンダー通り連休になる。

 駐輪スペースに自転車を止めると、紗衣はいつものようにプランターのパンジーに水をやる。

「鈴村さん、おはよう。いつも、ありがとう」

 スタッフに挨拶をされ、紗衣も「おはようございます」と返す。

 じょうろをしまって、職員玄関に入ろうとすると、望月涼太と出くわした。

 湯を浴びて熱いような、氷を落として冷たいような、奇妙な感覚が紗衣の胸部に生じる。

「お……おはようございます」

 目を合わせられずに挨拶だけすると、彼も「おはようございます」と返してくれた。今日も相変わらず、耳に心地良い声だ。

 熱くも冷たい感覚は、混ざり合って灯火のような微熱となる。

 声帯は、涼ちゃん、と呼びたくてうずいている。しかし、呼ぶことはかなわず、紗衣は彼の大きな背中を見送るにとどまった。

 脳裏をよぎったのは、この前の日曜日の記憶だ。



 ――あなたをペットにしても、いいですか?



 泣きそうになりながら、震えながら、気持ちを打ち明けてくれた彼。

 その申し出を紗衣が受け入れると、彼は弱々しく表情を綻ばせた。

 その日の午前中に紗衣を帰らせてくれたが、それ以降は何も起こらない。

 出勤しても、以前のように素っ気ない。物静かに看護業務をこなしている。

 あのときの熱い感情が嘘であったかのように。



 青木クリニックを受診する人は、様々な症状を抱えている。

 アレルギー内科だが、内科も標榜しているので、感冒の症状の人もいる。蓄膿症など、耳鼻咽喉科で診るような症状もある。

 5月になっても意外と多いのが、花粉症だ。ヒノキ花粉は、なかなかおさまらない。

 スタッフがタイムカードを押せたのは、20時近くになっていた。

「皆、ゆっくり休んでね」

 青木先生が先頭になったみたいに、スタッフは次々と自分の車に乗り、帰路に着く。

 唯一の自転車通勤である紗衣は、ぽつんと残されてしまった。近くの外灯に照らされて、敷地に1台だけ普通自動車が止まっているのが見える。

 自転車も運転免許も持っていない紗衣は、スタッフの車がなかなか覚えられない。しかし、その車は覚えてしまった。

 前髪を揺らす風が、チュニックの襟や袖を通り抜ける。紗衣は、開いてもいない胸元をかき合わせた。

 高望みしてはならない。早く帰ろう。

 紗衣は自分に言い聞かせるが、意思はもろく崩れてしまった。

 車から下りてきた彼が、駆け寄ってきたから。

「おつかれさまです」

 爽やかな初夏の風に、彼の心地良い声が乗せられる。

「もう遅いですから、送ります」

 紗衣は、首を横に振った。大丈夫です、と発した声は、自分でも聞き取れないほどかすれた。

 自転車のハンドルを握ると、そっと手を重ねられる。

「ごめんなさい。送るのは、口実です」

 温かい手は、ファンデーションが剥がれかけた紗衣の頬に移る。

「紗衣、会いたかった」

 彼の指先がわずかに震える。

 紗衣は息を呑む。大嫌いな小さな目を見開いてしまったら、すぐに目が熱くなって乾燥してしまう。

 ぎゅっと目をつむった隙に、抱きしめられた。

「きっちり仕事をする鈴村さんでなはなく、可愛い紗衣に会いたかった」

 耳に心地良い声に、紗衣は包まれる。

 胸部が一気に熱くなり、末梢にまで熱が伝わる。自分に嘘をつくことができない。

「私も、会いたかった……涼ちゃんに」

 紗衣は自転車のハンドルから手を離し、彼のシャツをそっとつまんだ。それだけでは足りなくて、くしゅっと布地を握りしめた。

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