第10話 告白

 翌日、4月27日。土曜日。

 前日の雨が嘘だったかのように晴れ、赤城あかぎ山の長い裾野が青空に映える。

 紗衣は赤信号で自転車を止め、深く息を吸った。

 青信号で一気にこぎ出し、職場へ急ぐ。

 今日のお弁当は、明太子巻き卵、かぶのわさび醤油漬け、うどのごま和え、もち麦ご飯。

 思いのほか料理に時間がかかってしまい、遅刻寸前であった。

 昨日自宅に届いたアンクルパンツは忘れずに持った。ようやく、スカートの裾を気にせずに仕事ができる。

「鈴村さん、休まなくて平気なの?」

「平気です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

「迷惑なんかじゃないよ。気にしないで」

 女性スタッフとそんな会話を交わし、朝のミーティングに参加する。

 スタッフの輪の外側に、ミッドナイトブルーのスクラブを着た望月涼太がいた。今日も甘いマスクなのに、凍てついた夜空に浮かぶ月みたいに冷たさをたたえている。

 紗衣の胸の内で、熱さと冷たさが生じ、融和して小さな灯火となる。

 紗衣は灯火の錯覚を振り払うために、彼から目をそらした。

「では、今日も一日、よろしくお願いします」

 ミーティングが終了し、各自の持ち場に着く。

 そのはずなのだが。

「ちょっといいですか」

 耳に心地良い声に呼ばれたのに、紗衣は胸を殴られたように息が詰まった。

 紗衣を呼んだのは、あの望月涼太だ。

 こちらへ、と誘導されたのは、診察室だ。青木先生は、いない。ミーティングにはいたのに。

「青木先生は煙草を吸ってくるそうです」

 青木先生が喫煙者だということが、紗衣には意外だった。そのおかげで、今ふたりきりで話すスペースができている。

「休まなくても平気なんですか」

 平気です。

 紗衣は答えようとした。しかし、喉元で言葉がつっかえてしまう。ミーティングの前に女性スタッフに同じことを訊かれても、すんなり答えられたのに。

 押さえつけて消したはずの灯火は、ほのかに、しかし、しぶとく胸の内に在る。

 とてもとても、目を合わせるなんてできない。

 でも、男の人は怖いのに、この彼の近くにいても身がすくむような怖さはない。それに気づいたら、咽喉が楽になった。

「平気です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 言えた。胸の内の灯火が、大きくなる。

「何か、お礼がしたいのですが」

 言えた。

 彼の返事は、「かしこまりました」だった。

 その後すぐに青木先生が戻ってきてしまい、紗衣も受付にスタンバイする。

 胸の内の灯火は、ともったまま。

 土曜日は、ふわふわ。

 忙しいのに、つらさを感じずに、飛ぶように時間が過ぎる。

 ワンピースよりもアンクルパンツの方が集中できた。

 今日は4月の割に気温が高いから、袖口や襟元から冷たさを感じなかったことも一因だ。

 それもあり、紗衣は朝の会話をすっかり忘れていた。

 夕闇に包まれて、耳に心地良い声を聞くまでは。



「ちょっといいですか」

 自転車に乗ろうとした紗衣を、あの声が呼び止める。

 スタッフ一同18時に退勤し、紗衣も帰宅しようとしたときだった。

 月初よりも日が延びたとはいえ、外灯がなければ暗い駐輪スペース。

 しかし、紗衣は相手がわかった。

 間違っても、間違えない。

 先輩なのだから、望月さん、と呼ばなくてはならない。それなのに、一度は下の名前で呼びたいと欲が出てしまう。その欲は、喉元で飲み込んだ。

 七分袖のカットソーに、風が忍び込む。

「今朝仰っていた“お礼”ですが」

 アスファルト上の砂が鳴き、先程よりも近くに彼の声を認知できた。

「このお店に行きませんか」

 手をかざせば触れられる距離と高さで、液晶の光が生じた。光源はスマートフォンの画面だ。

 名刺を渡されるように見せられたスマートフォンの画面には、飲食店の情報が表示される。

 紗衣は目を疑い、反射的に顔を上げた。

「駄目です!」

 しかし、目を合わせられずに伏せてしまう。

 行動範囲の狭い紗衣でさえ知っている、イタリアンレストランだ。行ったことはないが、フリーペーパーで何度も目にした。

 素敵なお店だというイメージがある。

 でも、無理。

「私でなくて、素敵な人と一緒に行って下さい」

 容姿も能力もある彼は、何の取り柄もない紗衣ではなく、女子力の高い素敵な女性と行くべきだ。そういうつもりで紗衣は言った。

 彼みたいにレベルの高い人と、自分は釣り合わない。

 紗衣は、画面が暗転したスマートフォンを彼に返却した。

 スマートフォンを受け取っても、彼は一歩も動かない。

「あなたは素敵な人です」

 光の頼りない夕闇の中で、彼が手を伸ばしたように、紗衣には見えた。

 それは気のせいではなかった。

 ぬくい指先が、紗衣の頬に触れる。

「あなたと、もっと話がしたい」

 頬に触れる指先がわずかに動き、紗衣の心臓が大きく脈打った。

「駄目ですか?」

 耳に心地良い声が、わずかに震えた。

 紗衣は、無駄に大きな胸のあわいに熱さと冷たさを錯覚した。それは、一瞬だけ。すぐに、灯火のようなほのかな温かさに変じる。

「申し訳ありません」

 紗衣は唾液を飲み込み、意識して再び口を開く。

「心を寄せさせて頂いています」

 自分の心は、隠しておくつもりだった。しかし、もう隠せそうにない。

「望月涼太さんことが、好きです」

 飴をなめているわけではないのに、口の中が甘く感じた。

 目は伏せたままだが、一気に喋ってしまう。



 ご迷惑だとは重々承知しております。

 しかし、ずっと黙っていることができませんでした。

 私は、あなたが思って下さるような素敵な人ではありません。

 男の人が怖くて、円滑なコミュニケーションを取ることができません。

 見ての通り、醜い容姿です。

 仕事もできません。

 迷惑をかけてばかりです。

 自動車の運転免許も持っていません。

 あなたと釣り合うような人間ではありません。

 お誘いは本当に嬉しいです。

 しかし、私はあなたにふさわしくありません。

 気持ちは押し殺して、仕事に集中します。

 本当に申し訳ありません。



 堰を切るように、気持ちが言葉になってあふれ出す。

 それを止めたのは、紗衣の唇をなぞる、彼の指先だ。

 紗衣は危うく、彼の指を舐めてしまうところだった。

「鈴村紗衣さん」

 氏名で呼ばれ、驚く間に、指先であごを上げさせられた。

「あなたは、自分に厳しいですね」

 心地良い声が、まっすぐ自分に向けられる。

「でも今日は、自分を甘やかしませんか?」

 辺りが暗いのが幸いだった。彼と至近距離で見つめ合っているのだろうけど、目を合わせている実感が湧かないから。

 彼はどんな表情をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。

 紗衣の大きな胸は、灯火のような熱を持ったままだった。

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