第9話 毎月26日はシチューの日

 夜になり、小雨になった。レインコートを着るような雨量ではない。

 雨に濡れたアスファルトは自動車が通り過ぎるたびにライトに照らされて一瞬だけ光る。

 紗衣は自転車を押しながら、白線の内側をとぼとぼ歩く。

 クロップドパンツの裾や、ブラウスの襟や、カ-ディガンの袖口から、冷たい空気が忍び込む。

 それなのに、灯火がつくように胸が温かい。

 普段は自転車で15分ほどの道を、自転車を押しながら3倍もかけ、紗衣はアパートに帰った。

 自転車を駐輪場に止め、また灯火を錯覚する。

 望月涼太に心を寄せていると自覚した途端、熱さと冷たさをたたえた錯覚は、温かな微熱に変化した。

 でもそれは、好ましい感覚ではない。一緒に働くスタッフにそのような恋衣など、あってはならない。

 そもそも、自分は彼と釣り合うような人間ではない。

 甘いマスクで、長身で、スタイルが良く、国家資格も所有する頭の良い涼太。対して、容姿も性格も仕事ぶりもぱっとしない紗衣。

 きっと涼太には、もっと相応しい女性がたくさんいる。自分自身に言い聞かせても、灯火の錯覚は消えない。

 灯火は温かくて、こそばゆいが、胸が締めつけられるように苦しくもある。

 こんなことで悩むような自己中心的な人間になった自分が、紗衣は恥ずかしくなった。

 駐輪場から動けずに、うじうじと悩んでいると、「大丈夫ですか」と声をかけられた。

「ずっとここにいるみたいですけど、具合でも悪いですか?」

 外灯の頼りない明かりでも、若い女性だとわかった。

 身長167cmの紗衣より10cmは小柄で、日本人の平均身長だとうかがえる。

「車の中でしばらくスマホをいじっていたんですけど、その間も自転車のところにいるみたいでしたから、具合でも悪いのかな、って」

「平気です。すみませんでした」

 相手にきびすを返すと、また呼び止められる。

「挨拶が遅くなってしまって、すみません。先週このアパートに引っ越してきました、きし果歩かほといいます。どうか、よろしくお願いします」

 果歩という彼女は、育ちの良さそうなお辞儀をしたが、顔を上げると「手土産持ってない!」と漫画のように頭を抱える。その拍子に、彼女の腹の虫が自己主張をした。

 紗衣はスマートフォンで時間を確認する。

 19時15分。もうこんな時間か。

 夕飯どうしよう、とひとちる果歩に、紗衣は言ってしまった。

「夕ご飯、うちで食べていって下さいな」

 心構えもなく、口がすべったわけでもなく、紗衣本人も気づかないうちに、そんな言葉が声帯で構築されて排出された。

 雨はまだ、やまない。



 普段から部屋を綺麗にしておいて、良かった。

 誰かを部屋に上げるなんて、紗衣は初めてだった。

「本当は新年度までに引っ越ししたかったんですけど、なかなか良い部屋が見つからなくて、こんな中途半端な時期になっちゃったんです」

 果歩はショルダーバッグを下ろし、座布団にちょこんと座った。

 紗衣は急いで、果歩に緑茶を出した。

「しばらく、ゆっくりして下さい。……何もお構いできませんが」

 紗衣も自分のバッグを定位置に片づけ、早速夕食の支度にかかる。

 メインのクリ-ムシチューは、鶏肉、人参、玉ねぎを炒め、薄力粉を絡め、牛乳とコンソメで煮る。

 シチューを煮る間に、花の形に型抜きした人参と、一口大に切ったキャベツを茹でる。熱が充分に通ったら、ざるにあげて冷まし、皿に盛る。ゆで卵の飾り切りも添える。

 お弁当用の唐揚げが残っていたので、もう一品。小口切りにして冷凍保存していたねぎを使って、油淋鶏ユーリンチー風のミニ丼をつくった。

 そこまでつくっておいて、紗衣は我に返った。果歩の嗜好を確認していない。

「岸さん、嫌いなものとか」

 言いかけて、気づいた。

 果歩は宅急便の荷物を受け取っている最中だった。

 紗衣は料理に集中し過ぎて、周りの音をシャットアウトしていたのだ。

「すみません、岸さん」

「果歩でいいよ。歳が近そうだし」

 聞けば、果歩は今年で27歳になるそうだ。紗衣より2学年上である。

「お荷物、勝手に受け取って、ごめん」

「こちらこそ、チャイムを聞いていなくて、申し訳ありませんでした」

 届いた荷物は、待ち焦がれたメディカルウエアのアンクルパンツだ。明日はワンピースの裾を気にしないで済む。

 心窩部に痛みを錯覚した。

 スカートの中を撮られたと思い込んだ恐怖。スタッフに迷惑をかけてしまった申し訳なさ。望月涼太への淡い気持ち。

 沸騰したクリームシチューの火を止め、回想も無理矢理止めた。

 小さいローテーブルにふたり分のお膳を並べ、夕食にする。

「お料理上手だね! 彼氏さん喜ぶよ!」

 果歩はシチューから箸をつけるが、はたと手を止めてしまう。

「彼氏さんいるんだっけ?」

 いないんです、と紗衣は首を軽く横に振った。

「こんなに女子力高いのに?」

 信じられないとばかりに目を見開く果歩の方が女性としてのレベルが高い、と紗衣は思った。

 果歩は目鼻立ちの整った、印象の良い女性だ。こういう人が受付にいたら、雰囲気が良くなるだろう。

 黒髪ボブは目立つわけではないけれど、明るく人懐こい彼女は人を引きつける魅力がある。

 初対面の人に壁をつくってしまう紗衣でさえ、いつの間にか果歩に心を許して部屋に上げてしまった。

 あの彼に似合うのは、こういう女性だ。

「果歩ちゃんは、誰かとつき合っているの?」

「いないよ。気になる人ならいるけど」

 果歩は、くすぐったそうに頬をゆるめて目を伏せる。果歩がやるから可愛く見える。紗衣がこんな表情をしても、きっと不快に思われる。

は? 好きな人がいるの?」

 どっかの誰かさんみたいな呼び方だ、と突っ込む間もなく、直球の質問が来た。

 紗衣の脳裏に蘇ったのは、あの望月涼太だ。しかも、ふたりきりの相談室で抱きしめられたあの瞬間の。

 無理矢理押さえつけた灯火が三度みたびともり、一瞬で末梢まで熱が届く。

「いるの!?」

 あからさまな反応を示した紗衣は、隠すことができなかった。

「いるけど、諦めるつもり」

「諦めちゃ駄目だよ!」

 果歩がテーブルを叩いた。

「人を好きになることは、悪いことじゃないよ」

「でも、迷惑をかけてしまったから、私なんか良く思われていないよ」

「そうに言われたの?」

 言われない。紗衣は口に出さなかったが、果歩は察したようだった。

「じゃあ、お礼かお詫びついでにデートでもしてみたら?」

 無理。お礼かお詫びでなくて、デートが。彼はあんなに格好良いから、彼女がいるかもしれないのに。

 でも、お詫び申し上げることは、頑張ってできそうだ。

「シチューおいしい! これ、ルウじゃないよね? 甘過ぎないし、こってりしないから、夏でも食べられそう! お紗衣ちゃんはすごいよ。独身のままじゃ、もったいない!」

 果歩は、シチューも油淋鶏風ミニ丼もサラダも完食した。

 誰かに料理を食べてもらったことは、久しぶりだった。それこそ、実家に 暮らしだった高校時代以来かもしれない。

 些細なことなのに、紗衣は嬉しかった。

 もしもあの彼に料理をつくってあげられたら、などとよこしまな妄想が湧き、紗衣はすぐに頭から追い出した。

 明日は土曜日。職場も世間も週末だ。

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