第8話 自覚

「鈴村さんは、休みの日は何してるの?」

 昼休み。ママさん看護師から訊かれた紗衣は、少々考えてから正直に「料理をしています」と答えた。

 偉いなあ、と感心される。

「私なんか、独り暮らしのときはスーパーのお惣菜ばっかり買ってたよ」

「唐揚げとか春巻きとか、ト-スタ-で焼き直してお弁当に入れてったな。懐かしい」

 いつの間にか、紗衣は会話から外れている。でも、邪険に扱われているわけではない。すぐに話の輪に戻してもらえる。

「鈴村さん。もしかして、もう今夜のメニューを考えてる?」

 紗衣は、はい、と答えた。

 今日は4月26日。夕食はシチューにするつもりだ。

 変わり者だと思われたくないから、誰にも言わない。今日は雨降りで肌寒いから共感してくれる人もいるかもしれないけれど。

 喋ってしまいたい気持ちは、下味から手がけた唐揚げと一緒に咀嚼して食道に送り込んだ。そのうち胃で消化されるだろう。

 今日の夜は、アンクルパンツが届く予定だ。明日からは、ワンピースの裾を気にしなくて済む。



 夕方の混み合う待合室で保険証と診察券を返却しながら、紗衣は今週も思った。

 金曜日の夕方は、学生のお客様が多い。彼らは、学校が終わったら制服のままクリニックに訪れる。椅子に座れずに立ったまま順番を待つ人もいる。

 紗衣は、座れずに立っていた男子高校生に保険証と診察券を返却した。

 男の人は怖い。中高生に対しても、心の中では恐怖を拭えない。

 おどおどした紗衣にも、男子高校生は「ありがとうございます」と深々と頭を下げてくれる。お客様に報いなくては、と紗衣は思い、お辞儀をした。

 小気味よいシャッター音が、後方から聞こえた。

 聞かなければよかった。シャッター音が耳に入らなければ、体が瞬間的に強張ることもなかったのに。

 音が聞こえたのは、背後ではない。背中より下、強いて言えば、臀部を狙ったような高さから。

 おそらく、スマートフォンのカメラ機能で撮られた。臀部か、脚か、あるいは、考えたくない部位を。

 声が出ない。体が動かない。後方を確認できない。そんな紗衣の背中に、声がぶつかった。

「すみません、少々よろしいですか」

 耳に心地良い低い声。

 看護師の望月涼太の声だと、紗衣は思い出した。

「診察室に来て頂けますか。鈴村さんも」

 男の人は怖いのに。紗衣は緊張が解け、頷くことができた。気は進まないが、彼の後について診察室にお邪魔する。

 呼ばれもしない人を診察室に、それも看護師が強引につれてくるものだから、青木先生は目を見開いた。

 涼太がつれてきたのは、待合室のソファーに座っていた男子高校生だった。男子高校生はスマートフォンを持った手を掴まれ、うなだれる。背の高い、男性の看護師に萎縮している様子は、診察室のドアにこっそり立つ紗衣にもわかった。

「次の患者様をお呼びしようとしたのですが、偶然見てしまいました」

 涼太は男子高校生を一瞥し、青木先生に報告する。

「鈴村さんのスカートを狙うように、スマートフォンを操作していました」

 男子高校生は、ブレザーに包まれた体を、びくりと震わせた。

 青木先生は、真表情で首を傾げる。

「育美さんに相談かな」



 クリニックには、相談室という部屋がある。内装は簡素で、テーブルと椅子のみ。

 保坂育美事務長の隣には紗衣が、テーブルを挟んで向かいには男子高校生が、椅子に腰を下ろす。

 涼太も「目撃者なので」と相談室にいるが、出入口のドアをふさぐように立ったまま待機する。

「本当に、撮ってないんです」

 男子高校生は、ぼそぼそと言葉をこぼした。

 テーブルに置かれたスマートフォンは、持ち主の反省をあざ笑うかのように誤作動を繰り返す。

 カメラ機能が勝手に起動したり、終了したり。シャッター音が鳴っても、写真は保存されなかったり。

 男子高校生の話によれば、昨夜からスマートフォンがこのような状態になってしまい、放課後にスマートフォンを修理に出すつもりでいた。しかし、副鼻腔炎の治療のために予約していた青木クリニックの受診も無視できず、先にクリニックに足を運んだ。スマートフォンの電源を落とそうとしたところ、またカメラ機能が勝手に起動し、画面に紗衣が写り込んでしまった。

 嘘のような話だが、誤作動を繰り返すスマートフォンを目の当たりにしたら、嘘だと言い切れない。

 保坂事務長が、ちらっと紗衣を見た。あなた次第だけどどうする、と訊ねる目だった。

 紗衣は、だいぶ躊躇ためらってから、深々と頭を下げた。

「わたくしの勘違いで騒ぎにしてしまい、大変申し訳ありませんでした」

 悪いのは自分だと、紗衣は考える。盗撮されたと勘違いして、勝手に怖がって、お客様を犯人扱いした、自分が悪い、と。

 違う、という呟きが、紗衣の鼓膜に心地良く響く。しかし、紗衣は聞こえないふりをした。

 騒ぎの原因となったスマートフォンは、バッテリー不足となり、眠るように電源が落ちた。



「鈴村さん。落ち着くまでそこにいて、時間になったら退勤あがってね。今日は特にゆっくり休みなさい」

 保坂事務長は男子高校生をつれて相談室を出る。

 紗衣もそれに続いて退室しようとした。しかし、それはかなわない。

 保坂事務長と男子高校生に出入口を譲った涼太が、再度ドアをふさぐように立ってしまったから。

 どいて下さい、などと生意気なことを、紗衣はとても口に出せない。

 窓に叩きつける雨粒が騒がしい。

 気まずい。でも、本当に仕事を怠けてここに居続けるわけにもいかない。

「……仕事に戻ります」

「駄目です」

 目を合わせることもできず、下を向いて必死に絞り出した言葉は、瞬時に却下された。それでも紗衣は、手をぐっと握って食い下がる。

「……そろそろ、戻った方がよろしいかと」

「駄目です」

 耳に心地良い声は、容赦なく紗衣を打ちつける。

 紗衣が次の文言を考える間に、彼が言葉をこぼした。

 なぜ、と紗衣には聞こえた。

「なぜ、怒らないのですか」

 紗衣は反射的に顔を上げた。でも、彼の鼻梁がやっと視界に入る高さしか上げられない。

「紛らわしいことをしたあの子は、謝罪しなかった。事務長は、被害に遭ったスタッフを擁護せず判断も丸投げした。俺は」

 彼は一旦、言葉を切り、口を結び、唾を呑み、再び口を開く。

「俺は、あの子が犯罪行為をしたと勘違いして、その場を騒がせた」

 紗衣は、脳をフル回転させて、返事を考える。しかし、彼の方が速い。

「俺は謝りません。あれは、あの子が盗撮して、あなたが怖がっているように見えました。それを見逃すわけにはいきませんでした。でも、あなたは怒っていいんです。紛らわしいをするな、と怒っていいんです。上司しっかりしろよ、と呆れていいんです。勘違いもいい加減にしろ、と突っぱねていいんです。自分は悪くない、と開き直っていいんです」

 彼は一気に喋り、細く長い溜息をついた。

 紗衣の頭は、返事を考えるのを放棄して、ただ驚いた。

 物静かな彼でも、こんなに喋ることがあるのか、と。

 もしかして、本気で心配してくれているのか、と。

「でも」

 あ、声が出た。紗衣は他人事のように自分に驚いた。

「悪いのは私だけです。私が勘違いして過剰に怖がったから、男の子にも事務長にも、あなたにも迷惑をかけてしまいました。本当に申し訳ありません」

 こぶしは固く握りしめたまま。殴りたいのは自分自身。

 紗衣は頭を下げようとしたが、かなわない。

 シュ-ズに包まれた爪先が、ぶつかる。息を呑んだ瞬間に、ミッドナイトブルーのスクラブが鼻先にある。一歩下がろうとしたが、動けない。

 抱きしめられている。

 そう認識するのに時間はかからなかった。

「少しだけ、こうにしてもいいですか」

 吐息が耳朶をくすぐる。

 耳に心地良い声を、鼓膜が間近で拾う。

「事務長に報告するか警察に突き出すかは、あなたの自由です。でも今は、あなたを放っておけません」

 腕の力は強くない。しかし、紗衣は身動きが取れない。

 怖いはずなのに。

「望月さん」

 私は平気です、と続けようとしたのに、名を呼ぶにとどまってしまった。

 はい、と彼が返事をした。

 吐息がかすかに耳朶を撫でた。

 無駄に大きな胸の、その内部で、炎のような熱さと氷のような冷たさがせめぎ合う。

 ……違う。胸が高鳴っている。

 口の中で彼の名を転がした途端、味蕾が甘さを錯覚する。

 ……違う。名を呼んでみたかった。

 怖いはずなのに、こうしていたい。

 きゅっと胸が締めつけられるのに、嬉しくもある。

 紗衣はようやく自覚した。

 男の人は怖いのに、彼に心を寄せている。

 固く握りしめたこぶしは、いつの間にかほどけ、スクラブの裾に触れていた。

 雨はまだ、降りやまない。

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