第5話 ランチタイム

 土曜日は忙殺されるよ、と保坂事務長に脅され、玄関を開ける。

 9時ちょうどなのに、玄関前には診察券を手にした人の列ができていた。

 青木クリニックは基本的に予約制だが、予約せずに来る人も多い。

 平日も9時前に玄関前で待っている人はいるが、そんな比ではない。保坂事務長の言葉は、真実だ。

 このクリニックでは、お客様の保険証や診察券を返却するときに、事務スタッフが待合室のお客様のところに行き、手渡しする。スタッフが自主的に始めたことではなく、開院当初から通院している人からの意見で取り入れた、と紗衣は聞いた。とある事務スタッフはその行為をわずらわしいと思って辞めてしまった、とも。

 紗衣はそれを手間だとは思わない。しかし、お客様の顔と名前が一致しないので、皆に申し訳と思っている。

「ちょっと、ねえちゃん」

 玄関を出た高齢の男性が、また受付に戻ってきた。紗衣を呼んでいるのが明らかだった。

「じょうろ、置きっぱなしだい」

 もうひとりの事務スタッフから「片づけてきて」て小声で鋭く命じられ、紗衣は外に出た。

 タイムカードを押す前にプランターのパンジーに水をやり、じょうろを放置していたのだ。

「すみません。申し訳ありませんでした」

 紗衣は、じょうろを見つけてくれた高齢の男性に謝罪する。

 無駄に大きな胸からあふれそうな恐怖を無理矢理押さえ込んで、同じくらいの身長の男性に深く頭を下げる。

 男性は「そんなにあやまらっといいよ」と、強面こわもてゆるませた。

「水くれてやってんだね。若いのにしっかりしてるよ。うちの娘なんか、全然しやしねえ」

 訛りたっぷりに、のびのびと喋り、「じゃあ」とハザードランプをつけた軽トラックに乗って去っていった。

 紗衣は軽トラックが見えなくなるまで頭を下げた。

 男性は怖い。仕事中は“お客様”というフィルターをかけているから、若干恐怖は薄れるが、やはり怖い。

 柔らかな春の日差しが、ふわふわした空気を暖める。

 それでも、メディカルウエアの襟元やノ-カラ-ジャケットの袖口を通る風は冷たかった。



 多忙を極めた午前中の診察だが、13時には待合室に残る人がいなかった。

 青木先生は「巻いた巻いた」と疲れたように休憩スペースでだらける。診察時間が長引かないように“巻き”で診察していたようだ。

 紗衣は、午後の受付時間まで玄関の自動ドアを施錠する。ちょうどそのとき、1台のワゴン車が駐車場に入ってきたのが見えた。

 もしかして。紗衣の予想は、空腹感と共に的中する。

 紗衣だけではない。何人かが、インタ-ホンの鳴った職員玄関に移動した。

「こんにちは! “かぶらがわ”です!」

 職員玄関に来たのは、青木先生に似た容姿の男性と、空腹感を駆り立てる米飯の香りだ。

「お前、声枯れてるぞ。咽に蛙でも飼ってんのか」

「いつも通りだよ!」

「お店、暇なの?」

「忙しいけど抜けてきたんだよ。うちの“だめお”の面倒を見て下さる方々に挨拶するために」

 青木先生と軽口を叩き合うその男性は、「兄の雅哉まさやが大変お世話になっております。弟の春也はるやです」とハスキーボイスで挨拶した。

 出前の支払いは、青木先生がやってくれた。おごりだという話は本当だった。

 “かぶらがわ”と書かれた出前の箱ごと休憩スペースに運び、ランチタイムとなる。

 鶏の照り焼きにポテトサラダのセットか、鮭の西京焼きと冷奴のセット、の2種類。

 みそ汁は鍋ごと渡された。大人数の注文だったためか、はたまた弟から兄への気の許しか。

 いつもは“だめおコーヒー”を淹れる青木先生は、今日はみそ汁をお椀に入れる役目を買って出た。

「鈴村さん、先に選んで」

 青木先生に言われ、紗衣は鶏の照り焼きを選んだ。でも、大盛りのポテトサラダは気が進まない。どんぶりに盛られた米飯は300gはありそうだ。炊きたての米飯の香りは視床下部をダイレクトに刺激して空腹を思い出させるが、全て食べられる気がしない。

 スタッフ揃ってテーブルを囲む。

 紗衣は箸を持つと、右隣の人と肘がぶつかった。

 紗衣が謝るより早く、相手から「すみません」と謝られる。

 耳に心地よい男性の声に、紗衣は自分の鼓膜を疑った。

 右隣にいたのは、望月涼太だ。普段はテーブルに着かずに離れて椅子に座っているが、今日はテーブルを使わないと食べづらいのだろう。

 紗衣は右隣のお膳を盗み見た。鮭の西京焼きと冷奴だ。

 彼は、左手で持った箸を置く。

「ご飯の量、多いですよね」

 あろうことか、彼は紗衣の耳元でささやく。

「もらいましょうか?」

 願ってもない申し出だが、申し訳ない。

 紗衣が躊躇っていると、手のついていないどんぶりが差し出された。これに入れてくれ、というのだ。

 紗衣もまだ箸をつけていない。自分の米飯の半分を、彼のどんぶりに移させてもらった。

 こんなに盛っても大丈夫ですか、と訊ねる前に、「冷奴どうぞ」と冷奴の小鉢を置かれてしまう。

 冷奴をもらえるのは嬉しい。でも、ポテトサラダと冷奴の両方は食べられない。

 ならば鶏の照り焼きを選ばなければよいのだが、紗衣のこだわりが許さない。

 鶏の照り焼きは、紗衣にとって特別な料理のひとつだ。

 ある小説の主人公が物語の序盤で、鶏の照り焼き風弁当を食べる場面がある。紗衣にはその場面が、なぜか印象に残った。

 女性でありながら槍術に長けた主人公は、様々な敵に立ち向かう。決しておごらず、子どもにも権力者に対してもひとりの人間として接する主人公は、今も紗衣の憧れだ。

 鶏の照り焼きは、主人公の心の強さを紗衣に分けてくれる気がするのだ。

 ただ、鶏の照り焼きはご飯が進む味だ。

 紗衣はもともと、大食いだった。身長(cm)から体重(kg)を引いた数字を110以上に保つために、炭水化物の摂取は1日に250g未満と決めている。ポテトサラダも食べてしまうと、目標の摂取量をオ-バ-してしまう。

 他のスタッフは「ごちそうさまでした」と食器を片づけ始め、紗衣は焦りを感じた。

 もう食べられない。でも、残したら態度が悪いと思われてしまう。

 小鉢のポテトサラダを見つめていたら、「もらってもいいですか」と隣から訊ねられた。

 心臓が跳ね上がる気がした。吐息がかかったわけでもないのに耳朶が熱を帯びる。声を受けた鼓膜が、その声を心地よいと脳に届ける。

 熱々のみそ汁が食道を通るような、ハイボール用の大きな氷を胸元に落としてしまったような、熱くも冷たい感覚が、また胸に広がる。

 紗衣は、唾液を飲み込んで息を吸った。

 どうぞ、と発した声は小さく、掠れてしまう。

 男性は怖い。でも、この彼は、他の男性とは違う意味で怖い。

 紗衣は無意識のうちに、彼を目で追っている。それなのに、彼が近くにいると、胸が熱くも冷たい錯覚を起こし、連鎖するように心臓が高鳴る。無意識のうちに彼の名前を心の中で反芻し、そのたびに味蕾が甘さを錯覚する。目を合わせられると、反射的にそらしてしまう。

 紗衣はそんな自分が恥ずかしい。

 ポテトサラダの小鉢はテーブルに置き、それ以外の食器を片づけた。

 彼がポテトサラダに手をつけたのかも、いつ食べ終えたのかも、紗衣は見ないようにした。確認してしまったら、午後の業務に差し障りがでそうだから。



 土曜日午後の受付時間は、17時まで。平日より30分早い。

 平日よりも混雑したが、残業にならずに済んだ。

 紗衣も他のスタッフに倣ってタイムカードを押し、ロッカールームに向かう。

 ロッカーを開けると、スマートフォンのランプの点滅に気づいた。

 着替えの前に、受信を確認する。

 メールが1件。相手は、有坂薫。群馬でできた唯一の友人。



『今夜、空いてる? 夕飯食べに行かない?』



 紗衣は『行きます』と返事を送信し、心の中で、うなだれた。

 今日は、炭水化物制限できそうにない。

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