第4話 土曜日は、ふわふわ

 外の明るさで目を覚ました紗衣は、布団の中で寝返りを打ち、枕元のスマートフォンで時間を確認した。

 5時56分。一瞬で眠気がとんだ。

 もう起きなくちゃ。お弁当つくらなくちゃ。7時台のバスに間に合わない。

 しかし、よくよく思い出せば、今起きる必要も、今日だけは弁当をつくる必要も、バスの時間を気にする必要もない。

 あと1時間寝られることがわかり、再びまぶたを閉じた。

 土曜日の空気は、ふわふわしている。

 学校に通っていた頃は、土曜日は休みだったことが多かった。

 穂高病院で病棟クラ-クとして勤務していた頃は、土曜日は原則午前中のみの勤務だった。

 今日は4月の第1土曜日。

 青木クリニックに転職して、初めての土曜日だ。

 青木クリニックの休診日は、毎週木曜日と日曜日。スタッフの休日もその曜日になる。

 再就職して初めての休日であった木曜日は、家事と休息に全ての時間を費やした。

 明日日曜日は、もう少し余裕をもって過ごしたいところだ。



 紗衣が次に目を覚ましたのは、6時45分だった。

 スマートフォンのアラームに鼓膜を攻撃され、アラームを解除した。

 着替えて髪をまとめ、化粧をしてからベランダに通じるガラス戸を開ける。

 夜のうちに室内干ししていた洗濯物をベランダの物干し竿に移動させ、室内は掃除機をかける。

 やかんの湯を沸かす間に、玄関に新聞を取りに行く。

 朝食は、マーガリンを塗った食パン1枚、ゆで卵1個、ポトフ、ラディッシュの甘酢漬け。ほとんどが、昨夜以前の作り置き。

 朝食の後は、ブラックコーヒーを片手に新聞を読む。

 テレビは見ない。そもそも、テレビを買っていない。災害用のラジオは持っているが、普段は聞かない。

 新聞を読み終えると、タンブラーにコーヒーを淹れる。

 一度外に出した洗濯物を室内に移動させ、ガラス戸とカーテンを閉める。

 いつもより早い、8時ちょうど。こんな怠惰な生活は他人に見せられない。隙を見せたくない。朝から反省しながら、アパートの鍵を閉める。

 紗衣は自転車を漕いで職場へ向かった。

 空は青く澄み渡り、綿菓子のような雲がのんびり泳いでいる。



 職場に着くと、紗衣は物陰にしまっていたじょうろを出して、外の水道から水を拝借した。

 クリニックの建物の玄関には、プランターが置かれている。ちんまりとおかしこまりしているパンジーに水をやるのが、紗衣の日課となりつつある。

 紗衣は植物が好きだ。本当は、アパートのベランダで花か野菜を育てたいところだが、アパートにそんなスペースはない。

 高校と大学ではアルバイトの傍ら、園芸部に席を置いていた。

 就職活動は、花を扱う企業も視野に入れていたが、エントリーしても一次選考で落選した。

 社会人になってからは、植物に触れる機会がなかった。

 しゃがみ込んで、近くでパンジーを眺める。盛りを終えてしおれた花がいくつかあった。

 しおれた花は摘むんだよ、と教えてもらったことがある。

 紗衣は指をのばして、しおれた花を摘み取った。

 植物に手入れをする簡単な作業が楽しい。

 ふわふわ、ふわふわ。日が昇り次第に気温が上昇するように、心が温かくなってゆく。

 不意に頭上がかげり、紗衣は顔を上げた。

 顔の筋肉が動かない。胸元に焼け石と氷を投げ込まれたみたいに、熱くも冷たい不思議な感覚が生じる。ふわふわ気持ちなんて、もうどこにもない。

 そこにいたのは、あの看護師の男性だ。

「おはようございます」

 聞いた者なら誰でも心地良さを感じる声が、甘いマスクが、微笑が、紗衣に向けられる。

 紗衣は喉がつかえたように返事ができなかった。

 せめて立ち上がろうとしたが、「そのままで大丈夫です」とジェスチャーで制されてしまう。

 あろうことか、彼は紗衣の隣にしゃがみ込んだ。

「この前は、愛想が悪いような素振りをしてしまって、申し訳ありませんでした」

 視線の高さは、立っているときよりも近い。距離も、膝ひとつ分しか空いていない。大きな黒い瞳が、まっすぐ紗衣をとらえる。

 男の人は、怖い。

 この人は、違う意味で怖い。甘いマスクに釘付けになりそうで、いい声で“耳が幸せ”になりそうで、瞳に吸い込まれそうで。

 逃げ場のない紗衣は、手を固く握りしめてこの場をやり過ごすしかなかった。

「これ、心ばかりですが」

 目の前に差し出されたのは、缶コーヒーだった。それも、無糖。

「ブラックがお好きだと伺ったのですが」

 大きな黒い瞳が、わずかに揺れる。

 間違っていましたか、と双眸は問うていた。

 紗衣は、口腔内に溜まった唾液を飲み込んだ。風邪を引いた訳ではないのに、咽頭の奥へ甘い唾液が落ちる様が感じられた。

 たっぷり躊躇ためらってから、声帯を震わせる。

「……ありがとう……ございます」

 ようやく絞り出した声は、紗衣自身でも聞き取りづらいほど小さく、かすれた。

 固く握りしめた手の力を抜き、缶コーヒーを受け取ると、指同士がぶつかった。

 すみません。反射的に言葉は浮かんだのに、声帯は反応しなかった。

「そろそろ行きますか」

 彼は颯爽と立ち上がり、紗衣に手を差し伸べる。

 うっかり手を伸ばした紗衣は、引き上げられて腰を浮かせた。

 すぐに手を離してもらえたが、職員玄関を入ってロッカールームで分かれるまで、彼の後を追う形になってしまう。

 ストーカーだと思われないだろうか。

 挙動不審だと思われないだろうか。

 ろくに挨拶もできない事務員だと判断されないだろうか。

 カットソーにデニムジャケットを羽織ってロングスカートスタイルなんて、センスが悪いと思われないだろうか。

 毎日髪をアップにして、“勘違い意識高い系”だと揶揄されないだろうか。

 メディカルウエアに着替えても、胸部の熱さと冷たさは消えず、足取りはふわふわしたままだ。

 不思議な感覚から切り替えられないまま、朝のミーティングに参加する。

 今日もあの彼は、人の輪の外側にいた。紗衣に気づくと、わずかに口元を綻ばせる。

 紗衣は目を合わせられなかった。

 彼の名は望月涼太だ。すぐに覚えて、ド忘れすることもない。

 胸部の熱さと冷たさも、ぶつかった指先と引かれた手の感触も、口腔内の甘い錯覚も、ミーティングの間に消えることはなかった。

 土曜日の空気は、業務開始時間になっても、ふわふわしている。

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