六月 第三週 満月。初夏の雨音。

 六月は梅雨の季節だ。陰鬱な雲と大量の湿気を振りまく雨、気分自体が沈み込んでしまう空気、そんな季節。私のいる大地も20年ほど前まではクーラー要らずで、梅雨も無い快適な地域だと言われていた。だが――。


「雨降ってる……、天気予報見なかったからなぁ」


 残念ながらそれは過去の話。蝦夷梅雨と呼ばれる梅雨みたいな雨は次第にほとんど梅雨そのものになっていったのだった。ブラキストン線の役立たずと叫んでも雨は止まない、そもそもここで私が立ち止まっているのも私の自業自得が原因なのだし。

 事の始まりは朝まで遡る。寝坊しかけていた私は朝食の食パン半分とヨーグルトを何とか食べて、鞄に必要な教科書、資料集、ノートを慌てて放り込んだ。慌てていたために私は傘を持っていくのも折り畳み傘を鞄に入れるのも忘れ走って登校した。その時、私の頭にあったのは今日の午後からの天気ではなく8時半までに遅れずにたどり着くことができるか、そちらの方が重要なことだったのだ。しかも天気予報なんて気にも留めていなかった。そのような経緯があって教室の窓から外を見上げて、陰鬱な気分になっている私がいるのだった。


「どうしよう……」


 誰かと一緒に帰ろうにも望は5時まで部活の練習、桂は塾の関係で私がクラスを訪ねた時にはもう下校していた。望を待つかとも考えたけど、雨は6時がピークになるようで一緒に帰ってもずぶ濡れになる人数が増えるだけだろう。それなら学校の近くでビニール傘を売っているコンビニまで濡れるのを覚悟で走っていくしかない。そうと決めたら早く行かないと。

 教室を出て階段を降りていく。1年生は3階に教室があるからそこから玄関までは少し時間がかかる。階段を降り、玄関の前の広いスペースに出る。休日や長期休暇中は部活動の練習に使っているくらいには広い。雨が降っていることもあっていつものこの時間よりも人が2、3割多い気がする。みんな雨が強くなる前に帰りたいのだろう。私は傘を持たずにごった返す人がいなくなるのを待つ。10分ほど経つとごった返すほど混雑していた玄関前はすっかりいつものだだっ広い空間へと戻っている。よし、人もいなくなったしそろそろ――。


「あら、始和誰かを待っているの?」


 後ろを振り向くと深山先輩が黒い傘を持って立っている。今日は常任委員会もないからそのまま帰るつもりだったのだろう。深山先輩のことだから聞いている形だけど、どうしてここにいるのかはもう理解していそうだ。


「いえ、特に誰かを待っているというわけではないです」

「なら、どうして……」

「いや、その……。朝出かける際に傘を入れてくるのを忘れてしまっていて……」


 少しの間、深山先輩と私の間を沈黙が包む、雨音以外の音は何もしないある種の静寂だ。


「そう、気にしなくてもいいと思うわ。誰でも忘れることはあるし」

「じゃあ、ここにいたのは」

「そうですね、雨が弱まったら走っていこうと思って」

「今は小康状態っていっても、この雨に当たったら風邪ひくわよ……」


 私は深山先輩にこれから雨の中を走って、帰るということを伝えると先輩は少し心配そうな顔をして止めてきた。


「でも誰かの傘に入れてもらったら、その人も……」

「気にしなくていいわ、それにあなたは途中のお店までで大丈夫なのでしょう?」

「そうですけど……」

「はぁ、どっちも引っ込み事案というかこういう時に相手を頼れないんだから」

「えっ?」

「もういつまで隠れてるの?」


 深山先輩はそう言うと階段の方へと振り向いて階段の横の柱の方へ向かっていく。裏に誰かいるのだろうか?


「あぁっ、もう桜。何するのさ」

「それはこっちのセリフよ。一緒に降りて来たんだから、隠れてないで来なさいよ……」


 深山先輩が柱の裏から引きずりだしたのは見覚えのある、あるどころかよく目にする、とてもとても大切な、そして少し変わった先輩だ……。


「先輩……」

「し、始和ぁ」

「陽子せっ、うわっ!!」


 先輩が私に抱き着いてくる。抱き着いてくるといっても先輩の部屋でしたようなスキンシップ過多なやつほどではないけど。そんなに甘えたかったのだろうか、唐突すぎてそんなことばかり頭に浮かんでくる。


「先輩、気にしませんから大丈夫ですよ」

「そう、かな……」

「問題ないですよ、そんなことくらいで」

「始和がそういうのなら」


 先輩を落ち着かせるように宥める。さっきまで慌てていたのは自分だった気がするのに……、他の人が慌てているのを見ると自分が慌てている場合じゃないって思うのかな。まあ先輩と一緒に居るとなんだか落ち着くそんな気がする。


「痛っ!」

「こら、2人ともイチャイチャしない」

「桜っ、痛いよ……」

「もう、いつまでも2人の空気作ってると危ないわよ、ここ人通るんだから」


 先輩が深山先輩に軽く小突かれる。確かに忘れてしまって意識していなかったけどここは人が出入りする玄関の前だ、こんなことをしていれば噂になってもおかしくはない。浮かれていると周りが見えなくなる気をつけなきゃ……。


「せ、先輩ちょっとはなれましょう」

「うん……」


 私にとっても残念だけど、先輩も私も周りを気にする方ではあるし、空気を気にしない勇気と言うものは持っていないから仕方がない。そう言えば、先輩が隠れていたのは恥ずかしかったからだけど、私に何か用でもあったのだろうか。深山先輩の口ぶりだとそう思えるようなことを言っていた。


「陽子先輩、私に何か言いたいことあったんですか?」

「えっと、うんその……。大したことじゃないよ」

「……陽子!」


 深山先輩がジト目で先輩を見つめる。一度目をつぶった先輩はやっと覚悟を決めたのか、右手に持っていた黒い女性が持つには大きな、それも重そうな傘を少し前に出して――。


「始和、この傘に入って一緒に帰ろうっ」


 目を見開いて、こちらを真っすぐに見つめてそう叫んだ。辺りを見回す、良かった人は居ない。ただ驚いた私と深山先輩がいるだけだ。フリーズしていないで返事をしよう、他の人が来るとややこしくなるし。深山先輩も傘に一緒に入るのは気にしなくていいと言っていたのはこういうことだろうし、それなら甘えてもいいのかもしれない。


「陽子先輩、ありがとうございます。私で良ければ」

「ありがとう、始和っ」


 私の返事を聞いて先輩はとても明るい笑顔を輝かせる、深山先輩も何だか満足そうだ。先輩達は2年生の靴箱へ、私は1年生の靴箱の方へ移動する。上靴からスニーカーに履き替える。靴は持ってくれるだろうか、濡れなければいいのだけど。履き替えてコンクリートの床を歩き、スライド式の扉を開いて先輩達を待つ。1、2分ほど待っていると先輩達が扉を開けて出てくる。深山先輩はそんなに急いでいないけど、先輩は少し小走りで私の所までやって来た。


「始和、お待たせっ」

「大丈夫ですよ、陽子先輩。そんなに待ってませんから」


 先輩は傘を広げるとその天蓋の中に私を誘う。手の導きに従ってその下に入ると私は傘と先輩に包まれる。


「よしっ、これで雨は大丈夫だね」

「そうね、私も余月さんが傘を買うまでは一緒についてくわ」

「桜、私がちゃんとエスコートするから、大丈夫だよ」

「あら、さっきまであんなにヘタレだったのに」

「それは……」


 陽子先輩と深山先輩が軽口を言い合う、その光景を見ていて私も何だか嬉しくなる。でも深山先輩は私達とは帰る方向が逆向きだから、そこまでしてもらうのは申し訳ない……。


「深山先輩、さっき陽子先輩が言ってくれた通り、ちゃんとエスコートされていきますから、大丈夫ですよ」

「深山先輩は方向真逆ですから、雨の中そんなに歩かせる訳にはいかないですし」

「余月さん、始和がそう言うのなら大丈夫でしょうね」

「桜、私ってそんなに信頼無いかな……」

「そういうことじゃないわ、余月さんも陽子も2人とも大丈夫って言ったからこそ、そう言ったのよ。信頼がない訳じゃないわ」

「ありがとう」


 厳しいけど、褒めてくれる深山先輩に褒められて嬉しそうな先輩を見て、私も何だか嬉しくなる。


「それに似合っているわよ、相合傘」

「「へっ」」


 深山先輩はある意味当然のそして、私達が考えるのを避けていたことを言って先に進んでいく。私と陽子先輩は赤くした顔を向けて見つめ合いながら、一歩ずつ確かめるように歩き始めながら、深山先輩を追いかける。陽子先輩は私よりも10センチ以上も高くて足も長い、そのことに気が付いた私は歩幅を合わせてくれる先輩に感謝と嬉しさを感じる。私も先輩が歩きやすいように歩く、最初はぎこちなかった歩みも自然と足を進められるようになり、お店に着くころには1人で歩くのと変わらないほどだった。


「先輩、本当にありがとうございます」

「いいの、気にしないで私がしたかったんだから」


 先輩は笑顔でそう言って、お店の外で待っていてくれる。ああ、本当に先輩は……、こういう所がかっこいいな。私は急いで傘を買うと先輩の横へと駆け寄る。雨は次第に強くなるばかりだけど、先輩と一緒に傘を差して帰れるということの喜びで私の心は晴れていた。雨音はまるでクラシックのリズムでしかないように私たちを包む。黒い傘と透明な傘、その組み合わせは元来た道を並んで歩いて戻っていく。その横では咲き始めた紫陽花が鮮やかな萼を静かに誇っていた。

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