第37話 シーサイドスーサイド

まただ……。まただ、まただ、まただ。 


いや……まだ間に合う。ここで止まるな!

かーちゃんがいなくなるなんて僕は絶対に嫌だ!

僕はスマホを手から離して手すりの方に向かって走った。

コンっとスマホの落ちる音が鳴る。

手にめいっぱいの力を入れて手すりを飛び越えた。それからそのまま海に落ちていく。しばらくの浮遊感の後、足に感触が走った。少し痛い。

雨の音が急に聞こえなくなった。聞こえてくるのはのぼっていく泡の音のみだ。泡は優しく僕を包み込んでいるようだった。

服に冷たい水が染み込んでくる。肌にベッタリとくっつく塩水。

遅れてドボンという音が振動とともに僕の体を駆け抜けた。それが二回続いた頃、僕はやっと水面に顔を出すことができた。

必死にかーちゃんを探すけれど辺りは真っ暗だ。底に飲み込まれそうな夜の水面はいつ見ても不気味だった。川よりもずっと海は怖く感じる。

僕は必死にかーちゃんを叫ぶ。けれど返事は無い。返ってくるのは海の音だけだ。

 とおちゃんが潜っていくのが見えた。それからとおちゃんは何かを力強くつかむ。確かにそこにいる。僕は必死に足を動かしてとおちゃんのもとまで泳いだ。

水の中の体の独特の重さが僕の動きを邪魔する。少し下にいる、とおちゃんを中々つかめない。

後ちょっとなのに。

ほんの数センチで届くのに。

もどかしい。手を振る度に水が僕の手のひらを走る。

なんとか! 届け!

関節が外れそうになるまで手を伸ばす。何度も何度も潜ろうとあがく。

水の中の無音のような音が耳に響いた。近くで泡が弾ける。とおちゃんの服に僕の手がかする。

もうちょっと! 頼む!

グッと体に力を入れる。目を閉じた。顔に力を込め、頬を上げる。たっぷり息を吸う。水に潜る。遠ざかるは雨の音。時が遅くなったような音。

ありもしない地面を蹴る。グンと水が僕をでる。手を伸ばした。指先の確かな感触。体中の力を手に送る。

とおちゃんの服を掴み上げる。遅れてかぐやもとおちゃんを捕まえた。想像以上に重いとおちゃんの体を水面まで引き上げる。

やっとのことで水面に顔が出た。久しぶりに肺には空気が流れ込んできた。

 かーちゃんは僕たちを拒絶した。に手足を振り回している。それでも重みを持ったリュックを外し取ると、かーちゃんからは諦めた様に力が抜けた。

リュックは勢いをもって海底に沈んでいく。リュックは海の闇に吸い込まれて、あっという間に見えなくなった。

 なんとか岸までたどり着く。濡れた服が体に重くのしかかってきた。岸に四人の咳込む音が響く。岸についてひとまず安心したからなのか、一気に疲れが押し寄せる。膝の力が抜けて立つのがやっとの状態だ。

水が全身を伝って地面に流れていく。波はすぐ足元で揺れていた。


「……で…………なんで……」


かーちゃんは体を震わせている。

そんなかーちゃんから出てくる声は細くて今にも折れそうだった。全部が鋭い。声が針になって僕らを刺す。体に毒が流れ込んでくるみたいだ。


「なぁ、かっちゃん……」


とおちゃんは思わず、といった具合でそう言った。どこか悔しそうに聞こえたのは僕だけだろうか。

かーちゃんから返事はない。しばらく波の音と雨音だけが流れる。いや、遠くから街の音が聞こえるだろうか。


「……ごめん、俺は……守れなかった……」

「そんなこと……」


かぐやは戸惑ったような顔でとおちゃんに被せる。けれどかぐやは言葉に詰まった。何かを堪えるような顔をして口を閉じる。とおちゃんは泣いていた。


「かーさん、お願いです。聞いてください」


かぐやが突然、口を開く。それから、まるで独り言かのように続けた。雨はそんなかぐやの話のちょっとした調味料となった。


──私はかーさんのことが少しだけ分かる気がします。全部分かるなんてとても言えないですけど……。

私は死のうとしたことがありました。私の大切な人がドンドンといなくなってしまったんです。まるで、というかそうなんでしょうけど、私のせいだって責められてる気がしたんです。私がいるからだ、って。

だから、大切な人と過ごすのはすごい嬉しくて幸せなはずなのに、胸が痛くて辛いんです。それで、死ぬことにしました。私がいなければその大切な人は助かるんだって思いました。

けれど、中途半端な私は死のうとした直前に死ぬのが怖くなったんです。大切な人と別れるのが怖くなったんです。

そんな時にその人は目の前に現れました。ホントはダメなんです。もう会っちゃダメだったんです。でも嬉しかった。

その人は私に「お前が僕の生きる意味だ」って言ってくれました。

 今なら分かります。私はかーさんが大好きです。まだ不安だった私を安心させてくれたんです。

優しくて、笑わせてくれて、しっかりしてて、それでいてどこか抜けてたりして……なんだか本当のお姉ちゃんみたいで……。

多分、かーさんが思ってるよりもずっと、私はかーさんのことが大好きですよ?

私はかーさんと、この四人とずっと一緒にいたいです。それが私のなんです。

だから生きてください。

テーマパークの後、四人でまた遊びに行こうって話してたじゃないですか。

私はそれがすごい楽しみです。バンジーでもなんでもいいです。四人全員でまた笑いたいから──


風が吹き抜ける。雨が風に流されて肌に少し強く当たった。


「だからお願いです。抱え込まないでください。かーさんの周りには頼れる彼氏も優しい友達もいます。私だって少しかもしれないけど力になります。まずは吐き出してみてください」

「…………わたしが……わたしが生きてたら皆に迷惑をかける。だから……」


かぐやは座り込んでいるかーちゃんの体を優しく抱き寄せる。かーちゃんはかぐやに体を預けたようにもたれかかった。

かぐやはそっとかーちゃんの耳元で囁く。


「そんなことないです。誰も迷惑だなんて思いません」

「嘘だよ! 高一の時だってそうだった。とっちーは夏休み明けから学校に行けなくなった。高校の親友から裏切られた。その原因はわたしなの! わたしはずっとあの夏を後悔してる。やっぱりわたしは早く死ぬべきだった。こんなわたしは生きてる価値なんて無いんだよ!」

「俺は後悔なんかしてない! 学校に行かなかったから、ずっとかっちゃんと一緒にいれた! かっちゃんの彼氏にだってなれた!」

「とっちーは優しいからそうやって言うんだよ……。わたしはとっちーの人生を潰したんだ。わたしのせいでとっちーは大学にだって行けなかった。それでもなんとか就けた仕事で上手く暮らせるようになったんだよ? なのに……また、わたしが……」

「違う! かっちゃんは悪くないだろ!」

「悪いよ……。わたしずっと引きずってるじゃん。全然変われなくて、ずっと怖いまんまで……。わたしは大丈夫。死んでも……大丈夫だから……」

「そういう大丈夫は大丈夫じゃないです」

「…………」


いつだか僕がかぐやに言った言葉にかーちゃんは黙り込んだ。

変な話だけど僕はかーちゃんのいない世界を知っている。そこでの絶望も崩壊する感覚も身に染み付いている。

大切な人を失ったときの心情はとても言葉に溶け込ますことはできない。人間なんて非力なものじゃ死んだ人などどうすることもできないんだ。やるせなさだけが僕を溺れさせる。

人なんて簡単に死ぬ。だからこそ僕らは必死で生きる。この世界をあんな世界に僕はしたくない。


「嫌われてもいい。恨まれたっていいから生きてほしい。かーちゃんが生きていたら僕はそれだけでいい。だから──」

「……こんなのになったのも全部わたしのせいだよ。わたしが生きてるから……」

「そんなことない。人一人で変えられることなんてたかが知れてる」


かーちゃんの目には涙が溜まっていた。

かぐやはかーちゃんを抱きしめる力を強める。かぐやは泣いていた。

何故だろう、その泣き声を聞いて僕は涙が溢れてくる。

涙は止まらない。決壊したダムみたいにとめどなく流れてくる。

本当に言いたいことはずっと決まってた。あの毎日が楽しかった。あの日々を過去に閉じ込めたくない。かーちゃんが死ぬだなんて嫌だ。

これは結局僕のわがままだ。どうであれ一緒にいたい。三日、二日前に思っていたことがバカみたいだ。あんなのどうだっていい。きれいな言葉なんていらない。優しい言葉なんてただの塵だ。


「僕は……僕はかーちゃんに生きてほしい。かーちゃんがいないなんてきっと耐えられない。僕はずっとリツイーターと一緒にいたい。だから死ぬだとか……」

「…………」

「俺だってかっちゃんの隣にずっといる。高二の夏にそう誓ったろ?」

「………覚えてない」

「俺は覚えてる」

「……わたしが死なないと」

「一度きりの人生に意地張るなよ」

「…………」

「俺はかっちゃんが本当に大好きだ。ずっと先まで二人で笑って過ごしたい。俺はどんなことがあっても一生、かっちゃんを守る。将来は結婚して、子供がどっちに似ているかで、ちょっと喧嘩したりだとかしたい。だから……俺の前から消えないでほしい」

「ずるいよ……。とっちーはずるい! そんなの聞いたら増々生きたくなるじゃん!」

「なら生きたらいい。またリツイーターで遊びに行こう。四人でバカやって笑いあおう。楽しそうだろ?」


かーちゃんはかぐやの腕の中で震えている。目には今にも溢れそうに溜まる涙。頬に力を入れて精一杯に我慢している。それでも涙は溢れる。

止まらない。涙は止まらない。

涙はどんどんと加速していき、やがてサイレンのように鳴り響く。僕たち以外に誰もいない海岸にかーちゃんの泣き声がこだました。


「……私は生きたい!! 死にたくない!! 皆で笑いたい。あの日々に戻りたい。だから……だから、もう少しここにいさせてください……!」


かーちゃんはただずっと泣いていた。不安だとか恐怖だとかが涙と共に落ちていくように見える。

さっきまで暗かった公園が少し明るくなったように感じた。周りが水彩画みたいに透き通っている。

僕もかぐやもかーちゃんもとおちゃんも皆、泣いていた。

そんな僕らに優しく雨が降る。もう十月だというのに暖かい雨だ。

聞こえてくる波の音が今となっては心地いい。







世界は山上香奈を取り戻した。






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星に住われし君と僕 みんみん @minnminn

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