第36話 葛西臨海公園

「おい、とおちゃんか?」

『え? あ、あぁ……そうだけど』

「今、どこにいる?』

『どこって……病院近くのコンビニに……』

「じゃあ、今すぐ病院に戻ってかーちゃんがいるか見てくれ!」

『は? 急にどうした? ていうか建じぃはどこにいんだよ」

「人形町駅にいる」

『…………』

「それでかーちゃんがいなかったら葛西臨海公園に来い」

『なんで、また……』

「とにかくかーちゃんが危ないんだ!」

『……分かったよ』

「じゃあ頼んだぞ」


そう言ってからスマホの赤い通話終了ボタンを押す。無駄にはやる気持ちを抑える。トンネルの奥から電車の音が聞こえてきた。

勢いよくホームに入る電車。頭に自殺という二文字がよぎる。なんとかそれを振り払って、開くドアの中に足を踏み入れた。まもなくドアは閉まり、電車は徐々にスピードを上げた。車窓はどす黒く染まる。

電車の中でかぐやは不安そうな顔をしてドアにもたれている。駅に入るまでは色んな疑問をぶつけてきていたかぐやも今となってはただ静かなだけだった。

僕はこの静けさが怖くなった。電車の走る音だけが不気味に体の中で響く。たまらずに口を開いた。かぐやは少し困ったような顔を僕の方に上げる。


「かぐや、いきなりごめん……」

「ううん。大丈夫ですよ?」

「……夢を見たんだ」

「夢……?」

「そう。かーちゃんが自殺する夢を見た」


かぐやの顔が一気に険しくなる。かぐやはこの夢がなにを意味するか分かるはずだ。僕がみた夢はまるで夢じゃないみたいだった。夢にしてはリアルすぎる。

雨が自分の肌を伝っていく感触もかーちゃんの飛び込む直前の表情もまるで鮮明に覚えている。僕が罪悪感に喰われて、どす黒い光に分解されるあの反吐が出るような感覚だって今もまだ残っていた。


「今ならまだ間に合う」

「……夢の中は何時だったんですか?」

「正確な時間は分からないけど……暗くなり始めてる時間帯だった。今みたいな雨が降ってて……」

「それじゃあ、ギリギリ……」

「多分……ッ──」

「建!?」


急に頭がズキズキと痛み始める。かち割れそうな痛みだ。視界がボーっとする。

あれ?

ダメだ……。体から力が抜けて……。抗えない力で目が閉じていく。

ダメだ……ここで倒れるだとか訳も分からないじゃないか。あまりにいきなりすぎる。

それでも体は動こうとしない。理由なんて分からない。夢の時の崩れる感覚に似ていた。僕の体が崩れて消えていく。

この世界にタイミングなんて関係ない。世界は遠慮もせずに手加減なしで僕たちを潰してくる。

でも、今だけはどうか……やめてほしかった。

脳が止まっていく。かぐやが起こそうと必死にこっちを見てくる。焦ってる顔もかわいい。

うっすらと入ってくる光も消えた。僕は真っ黒な世界に取り残される。


死んだ……か?


それが最初の感想だ。



 真っ黒な世界。地獄でも天国でもない。ここがどこなのか僕は知らない。

浮いているのか、立っているのか、座っているのか、僕は分からない。もちろん僕の体があるのかどうかも分からなかった。死んでいるか生きているかの区別もつかない。

遠くから微かな拍動が聞こえてくる。それでも未だに生きてるっていう実感が湧かない。意識だけが残されたような感覚がした。そもそも自分は僕なのか?

高杉建が今も電車で焦って葛西に向かっていればそれでいい。僕が僕でなくても良い。

もし僕が僕だとしたならば倒れてる僕なんかほっておいてかぐやは公園に行ってほしい……なんて、言えたらいいのに。何者かも分からない僕にはなにもできなかった。

 ふと指先が何かに触れた。初めて僕は自分の身体を認識した。指先から暖かいなにかが僕の体に流れ込んでくる。体の中がその温かさで満たされていく。どんどん溶けていく。なんだか懐かしい。

正体の分からない記憶が僕の前を一瞬通り過ぎた気がした。

もう僕には分からない。きっと忘れたのだ。涙が流れた気がした。何も知らないのに知っている気がした。

はっきりと浮かんでくる体の輪郭。電車の揺れる音が近づいてくる。瞼越しに感じる光。かぐやの声が僕の頭を駆け巡る。


パッと目を開けるとそこにはかぐやがいた。


焦ったような顔つきで僕を見ている。その奥には心配そうな顔をして覗き込む人が何人かいた。

ここはまだ電車の中だ。

かぐやはほっと息をつくと力の出ない僕を抱き寄せた。車両の中のほとんどの人が珍しいものを見るかのように目を向けてくる。

僕は……倒れたのか?

時間は……。急いで腕時計を見る。力は自然と入った。六時四十七分。そんなに時間は経っていないらしかった。

とりあえずはホッとする。まだ間に合う。倒れたことの不安なんてなかった。今はただ安堵するだけだ。

自分のことなんてどうでも良い。僕は無駄にこれまでを生きてきた奴だ。心配なんて僕には贅沢すぎる。


「あの……建……」

「まだ間に合う……」

「え?」

「この時間ならまだかーちゃんを助けられる」

「……どうしようもないですね、建は。自分の心配しないんですか?」

「そんなのは後でで良いよ」

「……やっぱり建は凄いです」




 京葉線に乗り換えた僕らはすぐに葛西臨海公園に着いた。もう降りる人もまばらな駅。駅前のロータリーは雨に濡れて街頭を反射している。水たまりの中には逆さの別の世界が広がっているようだ。

噴水は寂しく大きくなったり、小さくなったりしていた。この弱い雨の中では噴水の音は遮られることもなくはっきりと聞こえる。

とおちゃんは噴水の前で傘もささずに立っていた。辺りをキョロキョロと見渡し、随分狼狽ろうばいした様子だ。とおちゃんはこっちに気づくと僕の方へ走ってきた。


「建じぃ! どういうことだ? お前の言う通り病室を見たんだがいなかったぞ」

「やっぱりか……とりあえず急ぐぞ!」


もう、随分と暗い。雲は僕らに迫りそうな程、低かった。依然として降る雨はベットリと服に染み込んでくる。目の前に一直線に続く道を走った。

時々すれ違う、駅の方に帰っていく人達は僕らを不思議そうに見てくる。雨で濡れた道に滑りそうになりながら夢中で走った。

思うことはただ一つ。

間に合ってくれ!

今度は動く僕の体。これが最後だろう。無様な僕の最後のチャンスだろう。綺麗事でもなんでもいい。死ぬだなんて言わせない。

これまでの運動不足が僕に重くのしかかる。足が鉛のように重い。さっきの頭の痛みもまだ若干残っている気がする。

それでも僕は足を前に進めた。誰もいない草っぱらを横切る。橋が見えた。主塔が傾いた特徴的な橋。夢と同じだ。辺りに灯りはなく、景色は闇一色に浮かぶ何粒かの光だけ。

橋の入り口の門は閉じられていた。僕の身長以上の高さがある。橋は真っ暗で門の向こうに人がいるのかどうかも分からなかった。


「これ、越えるのか?」

「うん」

「建じぃはどこに行きたいんだ……」


僕は勢いよく門に足をかけると一気に門を登りきる。火事場の馬鹿力というのかは知らないが普段よりも力が出た気がする。

僕はかぐやに手を伸ばして門の上に引き上げると、とおちゃんの方を見た。とおちゃんは僕に少し疑いの目を向けながら、僕の差し出した手を掴まずに軽々と門を登る。

それから橋に入った。とにかく今は橋の真ん中に急ぐ。

夢が間違いならそれほどいいことは無い。でもあんな夢をみて動かないことなどできるわけがなかった。

僕は必死に橋を探した。スマホの懐中電灯で周りを照らす。


なにかが動いた気がした。

もう一度その方向に目をやる。

そこにはたしかに人が立っていた。

後ろ姿だから顔は見えないけれど服だとかかばんだとかが夢とそっくりだ。

気づけば叫んでいた。

勝手に口が動く。


「かーちゃん!」

「なっ──こんな所でなにしてんだ!?」

「…………」


返ってくるは沈黙。僕もかぐやもとおちゃんもじっと返事を待つ。それなのにかーちゃんは突然欄干の方に走り出した。


やめろ!


そう叫んだときには遅かった。遅れて聞こえてくるボチャンという音。目の前には誰もいない。懐中電灯で照らされた無人の舞台は寂しくそこに沈んでいた。

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