第35話 雨の東京

この世界は不条理だ。どれだけ強く願っても現実は冷酷に立ちすくむ。残酷に僕たちを裏切ってくる。

目の前で起こっていることもきっとそんなことだ。

僕は今、アパートにいる。誰もいない玄関前に立ち、ドアの鍵を開けた。部屋の奥から泣き声が聞こえてくる。僕は幽霊のような足取りで居間に向かう。昼間とは思えないほど部屋は薄暗かった。

遮光性のカーテンが日光を閉ざしている。かぐやは部屋の隅で怯えたようにかがみながら泣いていた。

河川敷で出会ったばかりの時を思い出す。僕はただ、かぐやを頼りない腕で包み込むだけだった。部屋には悲しいだけの嗚咽が響く。かぐやの涙が僕の色を洗い流していった。


「かぐや……ごめん。……ごめん」

「………………」


病院の時に感じられたあの力強い怒りも今となっては散ってしまった。後にはやるせなさが残るだけ。きっと僕なんていう人間には何もできない。変わったなんて思ってたけど結局ただの勘違いじゃないか。

僕に特別な力なんて一つもない。人を笑わせることも、元気づけることも、慰めることも、僕にはできない。どこかの神様がチート能力をくれた訳でもない。

平凡、いやそれ以下の人間なんだ。僕は自分に絶望した。リツイーターを取り戻したい。そんなことを願うだけでやらなきゃいけないことなんて分からない。

なぁ、僕はどうしたらいいんだよ。

気づいたら僕も泣いていた。

本当にこの世界は。

そう嘆くばかりだ。


僕はあの頃みたいに世界が嫌いになった。




 かぐやの涙が落ち着いてきた頃、僕はかぐやから手を離す。外はすっかり暗くなっていた。僕たちは電気をつけようともせずに、ただ座り込んでいる。かぐやがふと口を開く。いつもよりかすれた声が僕の耳に刺さった。


「建……私は大丈夫です。あの人は……誰なんですか……?」

「かーちゃんが……」

「え?」

「かーちゃんが入院してる。黙っててごめん……」


僕はこれまでのことをそのまま全部話した。かーちゃんにかかってきた電話のことも、かーちゃんの過去も、今のかーちゃんは入院してるということも。

かぐやは時々頷きながら話を聞いてくれた。月明かりか街の灯りかは分からないけれど、うっすらとカーテンから光が漏れている。一つ一つの街の音が繊細に僕の耳に届いてきた。


「じゃあさっきの人も……」

「多分……」

「……かーちゃんに会いたいです」

「うん……」

「今から、行けますか?」

「ごめん……明日でいいかな?」

「わ、分かりました。じゃあ明日……」


かぐやはそれっきり黙り込む。部屋ははっきりと彩りを失っていた。この悲壮感はなんだ。

初めて夫婦カップルがこの部屋に来たときはかぐやも大分緊張していた。二人は名刺なんて渡しながら自己紹介して。そんな名刺をかぐやは大切そうに写真立てに入れていた。

 寝れなかった。生物本能を忘れたように僕は起き続けている。過去を懐かしんだり、これからのことを考えたりしていたら眠気なんてやってこなかった。

街の音は静まり、そのうちほとんど何も聞こえなくなる。鉛のように重く沈んだ闇が僕たちを襲う。

真夜中。

かぐやの寝息が聞こえてきた。かぐやが寝始めたのもかなり遅かったと思う。気づけば聞こえてきたというだけなので詳しいことは分からないが。

僕はこのまま一生寝れない気がした。闇には随分目が慣れた。部屋の掛け時計の秒針までしっかり見える。

現在は午前四時半。全てが昼とは違う明朝の時間帯。まるで異世界と交わったような。徐々に外は明るくなってきた。カーテンからの光は青から赤っぽく変わっていく。雀たちの鳴き声が遠く聞こえる。

 急に重くなる瞼。歪む世界。眠気は突然やってきた。景色が灰色に包まれていく。僕にはどうにもならなかった。抗うことのできない瞼の動きで僕は眠りに堕ちていく。

ドサッとなにかが倒れ込むような音が聞こえる。きっと僕が床に倒れたのだろう。感覚はない。こうして僕は深い眠りについた。




  ✽




 ここはどこだろう。遠くでかすかに街の灯が煌めいているが、近くには何も無く、真っ暗だった。シトシトと梅雨のような雨が降っている。

どうやらここは橋の上らしい。見たことはないが特徴のある橋だった。橋の真ん中に斜めに突き刺さったような主塔が存在感を放っている。塔の上には何やらモニュメントらしきものがついていた。

これは夢なのだろうか。僕はさっきまでは部屋にいたはずだ。

ふと、かぐやと会う前に見た夢を思い出した。あの夢とこの空間はどことなく似ている気がする。

横を見ると少し遠くに人影が見えた。珍しい。この夜に染まった場所には僕以外に人間は誰もいないものだと思っていた。

その影は段々と近づいてくる。最初は暗くて顔が分からない。そもそも顔があるのかさえ怪しい程だった。

影は僕の目の前に来るとそこで立ち止まる。

影の正体はかーちゃんだった。

背中にはなにか重そうなものが入ったリュックを背負っている。

僕はもう嫌な予感しかしなかった。

かーちゃんは僕のことは見えてないかのように腰ほどの高さがある橋の欄干を越える。


「おい!」


僕はかーちゃんに必死に声を出す。手を伸ばしてかーちゃんを止めようともする。けれど体が動かない。まるで自分の体がないみたいだ。

あの河川敷の夢と同じ。でも夢だからといってかーちゃんを諦めるなんてことは出来なかった。目の前でかーちゃんが死のうとしていることには変わりない。それに、僕は未だ、これが夢であるのかを疑っていた。前もそうだが、これは夢にしてはあまりにリアルすぎる。

あるかも分からない体に力をこめる。固められた体を動かそうと全身を震わせる。それでも自分は動けなかった。


「目の前にいるんだ。動けよ!」


目の前で救えずに終わるなんて、そんなのは絶対に……絶対に嫌だった。

もう、なにも失いたくない。今、ここで動かないと僕は一生失った人生のままだ。


なのに……。なのに……。ダメだった。かーちゃんと最期に目が合った気がした。


暗い顔。

泣きそうな顔。

覚悟を決めたような顔。


一粒涙を流す。そして一言。


「じゃあね」


そう言って彼女は橋から飛び降りた。遅れてドボンと音が聞こえる。

まだ間に合う。

かーちゃんはこの世界にちゃんといる!

まだ間に合うから動いてくれ!

でも、僕の体はついに動かなかった。目の前にかーちゃんはいない。

いつの間にか視点が変わっている。かーちゃんが落ちた水面が見える。水面には不気味に波が円状に広がっていた。かーちゃんはもうずっと浮かんでこない。

僕のあるかも分からない膝から力が抜ける。

自分は、かーちゃんを助けられなかった。見殺しにしてしまった。


視界が突然明るくなる。目の前ではとおちゃんとかくやがただ泣いていた。僕たちはどこかの職員のような人から説明を受けている。


「今朝、葛西臨海公園で山上香奈様が遺体で見つかりました。死因は調査中ですがおそらく溺死と思われます」


耳に二人の泣き声が嵐のように響く。

やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!

全部僕のせいだ!

僕が動けたら!

僕が声を出せたら!

もし、もし、もし、もし、もし、もし…………。

沈んでいく世界。

かーちゃんがいない世界。


どこかから僕を嘲笑う声が聞こえる。

どこかから僕をけなす声が聞こえる。

そうだ、僕は人殺しだ。かーちゃんを見殺しにした。

僕は罪悪感に喰われていく。あるかどうかも分からない体が崩れていく。どす黒い光に分解される僕の体はやがて消えていく。視界はどす黒い光に包まれた。



  ✽ 



 突然、世界は変わった。いつも通りの天井が僕を迎える。

 かぐやが僕に気づくと心配そうな顔をして見てきた。今は午後六時半。とんでもない時間寝ていたらしい。外では梅雨のようにシトシトと雨が降っている。

僕は疑うことを忘れていた。根拠の無い確信が僕を造っている。あれは夢じゃない。

まだ外は明るい。まだ間に合う。もう世界にかーちゃんを失わせない。


「建……大丈夫?」

「かぐや、行くぞ!」

「え? あ、ちょっと……」


僕はかぐやの手を引くと傘も差さずに雨の神隠しロードに出た。後ろからかぐやの声が聞こえてくるが僕はそれを無視して駅に走る。

少し頭痛がする。冷えた十月の雨が頭の痛みに刺さった。


今度こそ……。今度こそ!


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます