第34話 こんな世界

「────それから、かっちゃんはスマホも怖がって使えなくなった」


とおちゃんは静かに口を閉じた。病室に差し込んでいた夕日もすっかり枯れ、視界は闇一色。かーちゃんはずっと寝たままで結局起きることは無かった。

知らなかった。かーちゃんの過去も、とおちゃんの過去も初めて聞いた。僕ならきっと乗り越えられない。やっぱりとおちゃんは凄いんだ。

そんな小学生みたいな感想が湧いてくる。なにも言えなかった。

下手に口を出して良いものじゃない。

僕はなんというか、疎外感みたいなものを感じてしまった。

リツイーターという囲いは僕の中でほとんど消えかかっている。

気づけば僕は座っていた椅子から立っていた。すっかり暗くなった病室の中をゆっくりと歩く。別れの挨拶も言えないまま僕は病室を出た。廊下の蛍光灯が僕の目を刺した。まるで今の僕を責めるようだ。




 まだ人の多いこの時間、電車は満員だった。目の前に楽しそうに笑っているカップルがいる。見ていると胸が痛むので目を逸した。今の僕は幸せが怖かった。感情なんて無かったらいいのに。

かーちゃんは大丈夫だろうか。それだけが気になる。



 神隠しロード。そんな名称を思い出すだけで胸が痛む僕はちょっと重症かもしれない。

なんだか久しぶりに感じる。相変わらず人通りは少ない。街灯が寂しそうに光っている。コンビニからは青白く冷たい光が漏れ出ていた。そんな道を一人で歩く。

見えてきたおんぼろアパートは思ってたよりボロボロだ。こんなにボロかっただろうか。

ギシギシと鳴る階段を登って、僕の部屋のドアを開ける。かぐやは居間にいるようだ。ドアの開く音を聞いて満面の笑みで玄関の方に走ってきた。


「おかえり!!」

「……うん、ただいま」

「疲れてますか? 顔色悪いですよ? 昨日も帰るなりすぐ寝ちゃったし……」

「え……あぁ、大丈夫」


そうだった。かぐやはかーちゃんのことを知らないんだ。

僕はそのまま居間に行くと床に倒れ込んだ。今は疲れた。かーちゃんのことを教える気力なんて湧かない。気力があっても教えるかどうかは分からないけれど。

視界が朦朧としてくる。かぐやの声が遠い。そのまま僕は眠ってしまった。



 翌朝、かぐやは隣で寝ていた。かぐやの寝息が心地よく響く。

 僕は早々にかぐやの朝ごはんを作っておくと、アパートを出て会社に向かった。病院には行かない。今、行ってもなにが出来るか分からない。そんななら会社に出るほうがマシだろう。僕はきっと、まだ、かーちゃんから逃げていた。偽の自分の逃避行だ。

会社に着くなり皆が僕を見た。かーちゃんに関する質問攻めだ。そんなこと聞かれても僕はなにも分からない。答えないのはマズいので適当に流しておいた。

浮かばぬ心のまま自分のデスクに身を預ける。無論、仕事は全然進まない。気づけば時間だけが過ぎている。社内の空気は沈んでいた。

もう一回、前のテーマパークみたいに遊びに行きたい。いつものかーちゃんに帰ってきてほしい。

今になって「全部嘘でした」って言って笑ってかーちゃんに出てきてほしい。それなら僕だって「なんだ嘘か〜」って笑って済ませられるのに。



 昼も過ぎただろうという頃。僕のスマホがポケットの中で震えた。誰かから電話がかかってきたようだ。あんなことがあったからちょっと身構える。

恐る恐るスマホを取り出したが電話の主はとおちゃんだったらしい。社長に確認してから電話に出た。


『今、大丈夫か?』

「え、あぁ……」


随分焦ったような声が聞こえてきた。嫌な予感がした。かーちゃんになにかあったのかもしれない。息が詰まりそうになる。エアコンの音が妙に頭に響いた。


『さっき、かっちゃんに差し入れが届いたんだが……聞くと差出人が不明らしい。念のためなんだが、会社でなんか知ってるやついるか?』

「ちょっと待って」


差出人が不明の差し入れというのが気になったが、まずは急いで会社内で聞いて回った。皆はただ不安そうな顔をして首を横に振る。

結局不明の差出人の情報はここには無かった。


「いなかった」

『そうか……まぁそりゃ、そうだよな。ならいいや。ありがと』

「どうしたんだ?」

『差し入れに、その……脅しの手紙とカミソリの刃が同封されてた。多分あの電話のやつだ』

「…………」

『すまん、こっちも立て込んでるから切るぞ?』

「あ、分かった……」


ガチャッという音とともに電話は切れた。ツーツーという音が気持ち悪い。

なんで知っているんだ。なんで電話の女はかーちゃんのいる病院・病室を知っているんだ。もしかしてずっと見られてたのか。

そう考えると背筋がゾワッとした。社長に一言をいれて僕はすぐに病院に向かった。

この事件は僕の中のなにかを変えた。正確に言えば僕は偽の自分を捨てた。新しい偽の自分をまた被ったかもしれないが、僕は前までの自分を捨てた。

きっかけさえあれば、どんなであれ僕は変わっていたのかもしれない。とおちゃんの話は良かれ悪かれ、僕の中では随分と大きな存在になっていた。


 病院に着いたのは三時を回った頃だった。病院前のロータリーには車が数台止まっていて、玄関前では何人かが立ち話をしている。そんな人たちを横目に僕は病院に入った。

受付で簡単な手続きをしてからかーちゃんのいる病室に急いだ。今は一刻も早くかーちゃんととおちゃんに会いたかった。かーちゃんに無事であってほしい。確証を求めて廊下を小走りする。

病室前につくと迷いもなくドアを開けた。窓から入る日が床に光の線を描いている。

とおちゃんはベッドの横に椅子を置いて座っている。ベッドで眠っているかーちゃんの手を優しく握っていた。ここには外の音も空気も無い。ただ静かな二人だけの世界だった。

しばらくしてからとおちゃんはドアのすぐそばに立っている僕の方を見た。少し驚いたような顔をしてから近くの椅子に座るよう促してくる。僕は積み上げられていた椅子から一つ取ってそこに座る。ドアは閉めておいた。


「来たのか」

「うん、落ち着いた?」

「まあな。あと、一応警察にも言っておいた」

「……寝たんだ」

「え? あぁ、うん。ついさっきくらいから」

「とおちゃんは大丈夫? いるものあるなら持ってくるけど」

「そうだな……」


とおちゃんはかーちゃんと手を繋いでいる方とは違う方の手を顎にあてる。とおちゃんは少し考えるような顔をした。僕はそんなとおちゃんから少し目を逸らして病室を見まわす。昼の病室は初めてだ。いつも──といってもまだ二回だけしか来たこと無いけれど──より少し違和感があった。

白く真っ直ぐに咲くユリが窓際のガラス瓶にけられている。外からの光がガラス瓶と水を通ってグニャグニャと揺らめいていた。

部屋の片隅にはなにも置かれていない棚が一つ。その横には乱雑に椅子が重ねられている。

この部屋の目ぼしいものといったらもうそれくらいだ。簡素を具現化したような寂しい病室だった。そんな病室だからとおちゃんの息遣いもかーちゃんの落ち着いた寝息もすぐ側にあるようだった。


「……俺の家に取りに行きたいものはあるな。今は本でもなんでも暇をつぶすものがねぇとな……怖いんだよ……」

「……そっか。なんて本?」

「いや、自分で取りに行く。取りに行かせるのは申し訳ないしな。あとはあれだ。自分のは自分がよく分かってる」

「じゃあ僕はここでかーちゃんを見てたらいい?」

「おう、すまんな」

「いや、大丈夫」

「あざす」


そう言ってとおちゃんは病室から出ていった。ガチャンとドアの閉まる音が響く。僕はとおちゃんがさっきまで座っていた椅子に乗り換える。布団からとおちゃんが握っていたかーちゃんの手がチラリと出ている。遠慮気味に掛布団を動かしてかーちゃんの手を布団の中に入れた。

かーちゃんは何も知らないような無垢な表情で眠っている。すーすーと音を立てて目を閉じている。なんだかかーちゃんはこのままずっと起きない気がした。

会ってからまだ数カ月しか経っていないのにホントに色んなことがあった。僕が今から死ぬって訳でもないのに思い出が走馬灯のように駆け巡る。あの優しい時間は僕の一番の宝物だ。そんな毎日が終わったなんて僕は思いたくない。

まるで僕がかーちゃんの最期を看取っているみたいだ。もうかーちゃんには二度と会えないんだ、なんて思った。世界がリツイーターを引き離そうとしてきて、僕らはそれに逆らうことなんてできない。そんなに良くできた話でもないのに僕は生意気にそんなことを考える。

窓から見える東京の無機質さは悪気も無く僕の心を削っていく。

単調なピアノのメロディのような空気が僕らを包み込む。バッドエンドな恋愛映画のエンドロールみたいな音楽だ。僕の心は変に落ち着いていた。

ふと思う。

かーちゃんが起きたとしたら僕は何をしたらいいのだろう。今の僕にはかーちゃんに掛けられる言葉なんて思いつかない。まっすぐにかーちゃんと向き合う自信なんて無かった。多分僕はまだ逃げているんだ。

とおちゃんならなんて言うだろうか。聞こうと思ったけれど隣にとおちゃんはいない。

僕はただこの時間にかーちゃんが目を覚まさないことを願うばかりだった。

きっと「大丈夫?」も「安心して」とも全然違う、僕の知らない優しすぎるような魔法の言葉が正解だ。

もしかぐやが相手なら僕も、いや、やっぱり分からない。でも、僕だってその場に立ったらどんな人にだってそんな言葉が掛けられるかもしれない。なんて、誰に向かってか分からない言い訳を考える。

かぐやのことが頭に降りるとかぐやに会いたくなった。昨日も今朝も会ったというのに全然会っていない気がした。

かぐやの声が恋しい。かぐやの匂いが懐かしい。かぐやの顔をもう一度見たい。他の誰にも言えないような不安をかぐやに話したい。その時はバカみたいに泣くかもしれない。最近の僕は泣き虫だから。

 窓際に置いてある白い封筒が目に留まった。丁寧にボールペンで『山上様へ』と書かれている。僕はそれを手に取ろうと手を伸ばしてすぐに手を止めた。僕にはそれがなにか分かった。同時に僕がそれを平気で見れるほど強い人間でないことも分かる。

親友への罵詈雑言は間違いなく僕を殺す。だから僕はそれを手に取らなかった。落ち着いていた心は静かに怒りへと変わる。かーちゃんは素直だ。表情が豊かでいつも楽しそうだった。それに優しい。

そんな彼女をアイツは千にも満たない薄っぺらな文字で潰した。

本当にやり場がない、誰かも分からない人間相手への怒りだ。

それでもソイツは今もこの病室を睨みつけているかもしれない。そう思うとゾッとした。

とおちゃんが怖いって言っていたのはこの感覚かもしれない。

かーちゃんをいつ失うか分からない恐怖。今、空気だけを介してかーちゃんといるのがたまらなく怖い。今すぐにかーちゃんは消えてしまうかもしれない。

僕はそっとかーちゃんの小さな小指を遠慮気味に最小限の力でつまむ。ほんの少しの感覚でしかないけれどかーちゃんが熱を持っていることが僕を安心させた。暴走しかけていた怒りも収まっている。


 どれくらい経ったかなんて分からないし分かる必要もない。いつのまにか目の前にとおちゃんがいた。

僕はとおちゃんに「おかえり」とでも声を掛けようとするがとおちゃんがそれを遮った。改めて顔を見ると緊迫したような表情をしていた。僕は嫌な予感を感じとった。かーちゃんの小指から手を離しそっと布団をかぶせる。

とおちゃんは僕を無言で廊下まで呼んだ。それから声を抑えて僕に耳打ちをする。


「俺、部屋に帰ったろ。そこでさ……」


とおちゃんはポケットから紙切れのようなものを取り出して僕に見せる。最初は、それが何なのかが分からなかった。不規則な形の紙が連なっているようだ。バラバラになった紙には元々一枚の何かが描かれてて、はっきりとなにか分かった時、落ち着いていた怒りがまたぶり返す。

描かれて、いや、写っていたのは一人の少女だった。中学生くらいの年齢の子だろうか。その子が誰なのか、僕にはすぐに察しがついた。


「これって……」

「かっちゃんの写真だ。どこでどう手にいれたかは知らんがそれを切り刻んだらしい。裏には脅しの言葉も書いてる」


とおちゃんは早口でそう言うと紙くずをひっくり返した。赤ペンで殴り書きのように書かれた文字は何を書いてるかがほとんど分からなかったが、唯一『殺す』だけははっきりと目に刺さる。


「帰ったら窓ガラスが割られててこれが投げ込まれてた。ホントなんなんだよ……」

「ふざけやがって……」


暴言は虚しく響くだけ。なにも変わりやしない。現実は残酷だ。女はとおちゃんの家を知っていた。それが何よりも怖かった。

突然ポケットでスマホが震えた。誰かから電話だ。ゆっくりとスマホを取り出す。電話はかぐやからだった。今はかぐやの声を聴いて落ち着こう。そう思っていた。


『け、建! さっきから知らない人が……!』


かぐやが涙の混ざった声で叫ぶように言う。後ろで執拗に叩かれるドアの音が聞こえてくる。僕は自分の顔から血の気が引くのがはっきりと分かった。

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