第33話 とある夏の日

部屋の中は薄暗かった。遮光性のカーテンが窓からの光を閉ざしている。部屋には誰もいないように見えた。

微かに抑えるように泣く声だけが聞こえてくる。すべてを壊してしまいそうなほど悲しい泣き声だ。

声は部屋の壁際に敷かれた布団の中から聞こえてきた。

俺はその横にそっと立つ。山上さんは俺に気づいていないようだった。


「山上さん……」


返ってくるのは泣き声だけ。

優しく笑う山上さんが見たい。

俺の好きな笑顔を見たい。

山上さんを泣かせたくなんてなかった。

俺は独り言のように話し続ける。言葉は考えずとも自然に湧いてきた。


「俺さ、これまでの日々が凄い楽しくて……。毎日、今日は行けるかな? ってワクワクしたりとか思っちゃって……。こんなことになってごめん。俺がもっと早く気づいてたら……。俺、また山上さんの笑顔が見たい。だから力になれることがあったら言って?」


部屋にか弱い泣き声が響く。時間の流れが遅かった。静まり返った部屋で聞こえるのは泣き声と時計の時間を刻む音だけだ。

記憶が固まったみたいだった。

時計が溶けていく。時空が歪む。そんな感じ。しばらくして山上さんは不安定なままの声で俺に言ってきた。


「とおちゃんは悪くないよ。悪いのはわたしだから……」

「そんなこと……」

「そんなことあるんだよ。ここにいるのバレたら、とおちゃんも悪く言われるよ? 早く帰ったほうがいいって……」


布団の中からこもった声が聞こえてきた。涙ぐんだその声は聞くだけでも辛い。

ここから離れることなんてできるわけが無かった。

俺は布団の横にちょこんと座る。いつも通りクッションの上には座らずに。今日は部屋に猫がいないから一層寂しい。


「別に俺はどう言われようと構わないよ」

「わたしが嫌」

「それなら俺だって一緒だ。山上さんが傷ついてるままなんて嫌だ」

「…………」


山上さんは黙り込む。俺も無理に喋ったりはしない。山上さんの涙が収まるではそっと待つことにした。ふと、部屋のすみの方になにかが転がってるのが見える。

目を凝らして見てみると転がってるのはスマホだと分かった。

画面は無惨にもひびが入り、スマホの側面もパッキリ割れて中の基盤が見えている。近くの壁はボコリとへこんでいた。

なにがあったか想像はつく。俺が連絡を送っても返事がなかったのはこういうことだったらしい。

山上さんの泣き声もだんだんと収まってきた。泣いた後の過呼吸の音が部屋を支配する。定期を忘れて取りに行ったときに教室で一人泣いていた山上さんを思い出した。

あの時は救えなかったけど、なにもできなかったけど……。今、ここにいる。

俺は布団越しに山上さんの背中を優しくゆすった。徐々に落ち着いていく山上さんの声。

すっかり落ち着いてふとんのさする音のほうが大きくなるまでこうしていた。ゆったりと流れる時間。その中で俺はたしかに山上さんのそばにいる。


「とおちゃん……今日は帰って……」

「嫌だ」

「でも……」


山上さんは言葉に詰まったようで少し黙り込む。それからゆっくりとまた喋りだした。布団に潜り込んだ山上さんはまだ出てくる気配は無い。


「わたし、とおちゃんとの時間が好きだよ。クラスでのことなんてどうでもよくなって、ただただ楽しいあの時間は多分一生の思い出だと思う。でも、とおちゃんはここにいたらダメだよ……。とおちゃんはわたしと違って学校だってあるんだよ?」

「俺は皆からなんと言われようとも構わない。俺は山上さんと一緒にいたい……」

「だ、大丈夫だよ……。わたしのことなんてすぐに忘れるよ」

「忘れなんてしない。俺はクラスで一人泣いてた山上さんも、色んな笑い方をする山上さんも、全部忘れない」

「…………」


部屋は再び静寂に落ちた。壊れた携帯が視線の先に転がっている。それから部屋の中に視線を転がした。

寂しそうに置かれたクッション。窓際に置かれたユリの花。キレイに整頓された本棚。その隣には水玉柄のゴミ箱。近くには丸められた紙が落ちている。

俺はすっと立ち上がってその紙くずの方に行った。ゴミ箱にちゃんと入れておこう。そう思っただけだった。

紙くずを拾うと中になにか書いているのが見えた。気になって紙を開けていく。

最初は暗くてなにを書いているかよく分からなかった。段々と文字が目に馴染んでくる。

そのうちに、俺は気づいてしまった。

研がれたナイフのような鋭い言葉。

殴るように書かれた文字。

その紙を持つ手は震え始める。

朝、クラスグループに書かれた言葉を見たとき以上に胸が苦しい。とても言い表せないような感情だ。悲壮、怒り、後悔、悲哀……あげきれない程の感情が胸の中で混ぜられている。目の前にひびが入った感覚。

音をたてて崩れていく感覚。まるで自分が死んでしまったようだ。

ここじゃないどこか深海みたいな場所を俺は歩いている。

マッコウクジラの不気味な鳴き声が全身に響く。

なにも無い、まるで月面のような深海。


「ま、待って……」


山上さんの声が聞こえてくる。焦ったようにこっちに来る。山上さんの目の下は腫れ、髪の毛はボサボサだった。

山上さんは慌てて俺の手元から紙を奪い取る。それから紙をまたぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。ガサッという音と共に紙くずはゴミ箱の中に入る。

山上さんは怒ったような表情をして俺を見てきた。それから低いトーンで聞いてくる。


「見た?」

「…………」


なにも言えなかった。紙に書いていたことばかりが頭を埋め尽くす。自分は守る守ると言って結局何もできてないじゃないか。クラスグループのメッセージからもあの紙の言葉からも山上さんを守れなかった。なんにも気付かなかった。

山上さんを守らないならこんな所にいないはずだ。こんなところ所で息なんてしないはずだ。山上さんは俺の大事な友達。いや……それ以上のなにか。言葉で表せない特別な関係。

大人になってもずっと二人で笑っていたい。そんな彼女に向けられた言葉。それが頭を回るたびになにかが湧き上がる。

気付けば泣いていた。一滴二滴三滴四滴……涙は壊れた様に流れ続ける。バカみたいに泣いた。これまでの山上さんとの全てをぶつけた。

梅雨の真っただ中から始まった物語。

それらすべてが涙に溶け込んでいく。涙は頬をつたって俺の服を染める。目の前に立っている山上さんも気付けば泣いていた。ひたすらに手を目元にもっていく。二人でただただ泣いた。光も届かないなにもない深海に涙が沈んでいく。

涙は世界の時間を止めた。きっと今なら何も分からない。

今この瞬間は俺たちだけの時間だ。他の誰も知らない俺たちだけが生きている世界。そんな世界の真ん中で俺たちはただ泣いている。


「なんでとおちゃんが泣くのかな……」

「大事なヤツがあんな風に言われたんだぞ……。そりゃ泣くだろ……」

「……ごめん」

「バカ。こういうのは謝らなくていいんだよ」

「そっか……ありがと……」


山上さんがそっと俺にもたれかかってくる。俺はそれをただ抱きしめた。

温かい。

山上さんの息が服にかかる。山上さんの涙が俺の服に染み込んでいく。

自然と抱き寄せる力が強くなっていく。山上さんも俺を抱き寄せる。まるで恋人のように泣きあった。

そっと顔をよせる。耳元すぐに聞こえる山上さんの息の音。髪からはほのかに優しい匂いがする。涙はいつの間にか流れていなかった。それでも抱き合う。

その内に俺がトンと笑みをこぼした。山上さんもそれにつられて優しく笑い始める。泣いたり笑ったり忙しい俺たちだ。頬に山上さんの髪の毛があたる。今はすべてが優しかった。


「俺、明日からもずっとここに来るよ」

「わたしみたいにいじめられるよ?」

「そんなの山上さんと一緒ならどうだっていい」

「わたしがどっか行っちゃったらとおちゃんは大変だね」

「俺が行かせない」

「そっか……」


俺たちはずっと抱き合っていた。互いの呼吸を感じ合う。時計の刻む音がただただ響いた。何分経ったか分からない。山上さんの手が優しく解けていった。俺も手を綻ばす。

山上さんは俺の顔を見るといつものように満面の笑みを浮かべた。ずっと見たかった柔らかい笑顔。嗚呼、ダメだ。また泣きそうになる。俺はなんとかぐっと涙をこらえる。




「ねぇ、キスしない?」

「……は?」

「ダメ?」

「い、いきなりすぎるって……。そういうのはもっと段階を踏んでだな……」

「はいはい……」


山上さんは俺の服のえりを少し引っ張ると頬に優しくキスをした。ふわりと浮いた気分になる。今なら宇宙まで飛んでいけそうな、そんな気分だ。俺は視線を何もない壁の方に逸らした。顔が赤くなっていくのが分かる。


「これ、わたしの初めてだよ?」

「そ、そうなんだ……」

「やっぱり恥ずかしいね。無かったことに……」


山上さんのセリフが頭で何度も反芻はんすうされる。初めて……。

ダメだ、恥ずかしい。でも嬉しい。ここでなんか言わなきゃ。俺は仮にも男なんだから。


「いや……忘れない。一生覚えてる」

「そういうの言われると余計に恥ずかしいじゃん……」


山上さんは困ったように笑う。その様子がたまらなく愛おしい。

俺だってこれを言うのは恥ずかしい。二人、顔を赤く染めながら目線をあわせたりあわせなかったりを繰り返す。俺が言うのもおかしいけどなんだか初々しかった。


「そ、そうだ! 男はべらかしてたとか言われてたけど……全部初めてだから! とおちゃんが!」

「……え? うん、分かってる。あんなに初々しかったんだから」

「あ~、笑うな~!!」


山上さんは頬をむっくりと膨らませて、怒ったような表情をする。


「あ、でも……イージーライブはホントだから……」

「え?」

「友達(?)に誘われて……友達(?)と一緒に……。あっ! 男の人と一緒に撮ったとかじゃないよ! その友達(?)とやっただけだから!」


説明しなくてもそんなことは分かっているのに、必死に弁明する山上さんが愛おしい。


後で聞いた話だけれど、その友達(?)が山上さんを虐めている主犯格らしい。

噂に過ぎないが、山上さんと友達(?)でイージーライブに投稿した動画で山上さんの方が人気があることに嫉妬したのが発端のようだった。きっかけはどうであれ、エスカレートしていったいじめは、周囲に伝染して、誰にも止められないほどになっていった。

そんなことがあってから山上さんはカメラが怖くなってしまったようだった。


慌てる山上さんを落ち着かせて、俺は声をかける。


「あ、あのさ山上さん」

「ん?」

「クラスグループのとか、あの紙とか……力になるからさ。相談があったら……」

「とおちゃんが来てくれるだけで充分だよ。あの人たちのことなんて全部忘れちゃった!」

「無理はしないでいいよ?」

「無理じゃないよ。とおちゃんが来てくれたのホントに嬉しかったんだから」


そう言いながら山上さんはカーテンを開ける。眩しい光が部屋の中に差し込み、急に明るくなった。思わず目がくらむ。薄目を開けながら窓の方を見ると一本のユリが煌めいている。なんだか神々しい。

山上さんは机の近くに座る。俺もそれに倣って机の横に座った。相変わらずクッションの上には誰も座らない。


「わたしさ……死のうと思ってたんだ」

「…………」

「自分の生きてる意味が分からなかった。生きてても周りに迷惑かけてばっかだし……」


山上さんは微笑する。窓からの光が山上さんの髪の毛を照らしてなんだか幻想的だった。


「昨日の夜、脅しの電話がかかってきたの。凄い怖かったし、自分ってやっぱり一人なんだって思った。それにこのままだと家族とかとおちゃんに大迷惑かけちゃうから、もう死のうって」


俺は黙って山上さんの話を聞いた。山上さんの一言一言が頭に残っていく。今は話を聞いていたい。


「でもダメだった。いざ死のうって思ってもなんか怖いんだよ……。わたしのこと覚えてる人がいるのかなって。そう思ったらとおちゃんに会いたくなって死ねなかった」

「…………」

「まだ生きたいって、とおちゃんの隣にいたいって。だから……迷惑ばっかりかけるけどもう少し隣にいさせて?」


山上さんはグッと笑ってから浅くおじぎをしてきた。

君の生きる理由が俺にあるなら俺はいつだって君の隣にいる。ずっと生きてやる。迷惑なんか知ったものじゃない。二人でずっと一緒に世界の隅で息をしよう。


「もちろん。山上さんのためなら俺だって生きてやるよ」

「……ありがと」


山上さんは頼りなく笑った。その後うつむいちゃったから分かんないけど山上さんは泣いていたかもしれない。

きれいな朝だ。俺はこんなにも澄んだ、純粋な朝を知らなかった。俺はただうつむいた山上さんを見つめた。




 その後はただ喋っただけだ。普段よりはぎこちないけどまるでこれまでのように。二人で笑って、話をして、ゲームをして……やっぱりこの時間だ。この時間のために俺は息をしている。

部活には行かなかった。はなから行かずにサボったのは初めてだ。部活なんてまるで忘れていた。今は二人だけでいい。

部活仲間からくるメッセージだろうか。携帯がポケットの中で震える。俺は知らないふりをしてただ笑っていた。

 そうしてると日が暮れるのは早かった。朝は永遠に終わらないと思った一日がもう終わりそうだった。やっぱりこの時間は無敵だ。クラスのやつらなんて敵じゃない。

まるでここは天国みたいにきれいだった。炭酸水のように弾けたような夕方。俺は最後に「間違っても死のうとなんてするなよ?」と念を押してから山上さんの部屋を出た。山上さんは「もちろん。もう大丈夫。生きる意味が見つかったから……」なんて笑いながら俺と一緒に階段を下る。

まるでいつもと変わらないように山上さんと山上さんの母親が俺を送ってくれた。ドアの外にはきれいな夕焼けが広がっている。こんなにこの世界はきれいだっただろうか。

 俺は家からしばらく歩くとポケットからスマホを取り出した。開くはクラスグループだ。送りたかったけど送れなかった数文字を打ち込む。

クラスメートの驚く顔が目に浮かんだ。俺はちょっとだけ頬を緩ませる。

駅に続く少し大きな道が夕日に輝いて光っていた。俺はきっとどんな道だって進んでいける。そんな気がした。


とある夏の日。



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