第30話 連絡先

俺は山上さんに昨日借りた傘を返すのに山上さんの家の前に来ていた。

今日も東京の街は雨に濡れている。ボツボツと雨音が頭上で響く中、俺は立ち尽くした。

勇気が出なかった。

返すといっても、なにも言わずに傘立てに置いていくのは人としてダメだろう。けれども、俺には目の前のインターホンを押す勇気が出なかった。

なんせ、昨日、初めて女子の部屋に入ったばかりだ。どんな理由であれ、女子の家をこちらから尋ねるハードルは高いものだった。

傘を返すという理由があるのだから気にすることはないはずだろう。そのはずなのに、インターホンを押すまではたっぷり数十秒はかかった。

ゆっくりインターホンを押して、返ってきた声は山上さんよりは幾ばくか高い声だ。


「あれ〜、昨日の子じゃん。今日も遊びに来てくれたの〜?」

「あ、いえ……昨日傘をお借りしたので返そうと思って……」

「そっか〜。わざわざ家までありがとね〜。別に直ぐ返さなくても良かったのに。ほら、うちの娘全然外に出ないから」

「そ、そうですか……」

「ん〜、折角来てくれたことだし上がっていく? 香奈も喜ぶと思うよ〜」

「えっ……山上さんは大丈夫なんですか?」


テスト一週間前だけど邪魔にならないか、ということだ。

聞いてから、山上さんが一人で勉強しているのが想像できなくて問題がないことに気付いた。あの集中力では一人で勉強などとてもできないだろう。

質問の意図が分かっているのかが分からない山上さんの母親は冗談交じりに質問返しをしてきた。


「山上ってのは誰かな? ここでは皆が山上だよ〜」

「……娘さんのほうです」

「大丈夫だよ。でも香奈のこと下の名前で呼ばないんだね〜。イマドキは上が良いのかな?」


そこら辺の事情は知りえないけど、上の方が良いってことはないだろう。苗字よりも名前呼びの方がドキッとするのは今も昔も変わらない。

それよりも、やはりというべきか、山上さんの母親は勘違いをしているようだった。

否定をしようか迷ったが、否定したところで山上さんの母親に俺たちがどういう関係なのかを説明できる気がしなかったのでやめた。

世間には俺らの関係を友人関係だと言う人が一定数いるだろう。けれども、俺はその一定数には残念ながら入らない。

俺は基本的には誰にも話しかけていて打ち解けることができた。クラスメートのほとんどとは笑って話せるだろう。だからといってクラスメートのほとんどが友達という訳ではなかった。少なくとも、だけれど。

俺は簡単に相手のことを友達というのが相手に失礼な気がした。相手のことはほとんど何も知らないくせに友達を名乗るのは傲慢に思えた。だから俺は友達が少ない。周りからは山ほどいると思われているらしいが実際は片手で数えれるくらいなのかもしれない。

そういう、俺の中の面倒くさい論理のせいで山上さんのことを友達というのは特に憚られた。

俺は山上さんのことを何も知らないってことを特別、知っていた。

 結局、流れから山上さんの家に上がることになった俺は、昨日できなかった自己紹介を軽く済ませてから上に向かった。

靴も昨日とは違って、ちゃんと脱いで、きれいに揃えておく。

それから目の前にある階段へと向かった。

昨日駆け上がった階段を今日はゆっくりと登り、昨日走った廊下をのんびりと歩く。

山上さんの母親から許可をもらったとはいえど、山上さんの部屋に入るのが緊張するので、ちょっとでも時間稼ぎをしたかったのかもしれない。

そうしながらも山上さんの部屋の前に着く。今気づいたのだが部屋のドアには『香奈の部屋』と書かれた木の看板がかかっていた。幼稚園児がクレパスで描いたみたいで、ふんわりとした看板は山上さんにはよく似合っている気がした。

ドアをコンコンとノックする。「は〜い」という声が返ってきた。返事が返ってきたということは入って問題ないということだろう。優しくドアを開けた。

山上さんはジャージ服を着て、床にうつ伏せに寝転んでいた。

ちょっと意外だった。なんせ彼女の部屋も雰囲気も女子力に満ち溢れていたから、山上さんとジャージというセットがほとんどありえなく感じたのだ。

別に悪いとは言ってない。むしろいいと思う。ジャージは結構好きだ。


「ん〜、なんのよ、う……じ……」


山上さんは俺の方に振り返って絶句した。目を丸く開き、口が塞がっていない。その顔がすべてを物語っている。「なんでここにいんの?」とでも聞きたげな顔だ。もしかして俺が来ること知らなかったのだろうか。


「いや……お母さんに上がっていいよって言われて……」

「お母さんのバカ! こんな姿見られちゃったじゃん! とりあえず出て、着替えるから!!」


俺は山上さんに押し戻された。別に今のままでも良いのだけど……。

ふと山上さんの足元を見ると白毛を地とした栗毛のある猫がいた。マンションじゃ飼えないのでちょっと羨ましい。

猫が僕のところに来る前に、バタンとドアを閉められて鍵までかけられた。なんだか悪いことをした気分になる。

 たっぷり十五分は待っただろう。ドアにかかっている『香奈の部屋』という看板をずっと見ていたらゲシュタルト崩壊を起こした。

やっとのことでドアからガチャリと音がする。

ドアを開けた山上さんは割とラフな格好だった。どこからか来る女子っぽさが不思議で少し顔も赤くなる。思えば、女子の私服を見たのはこれまでも数回しかない。昨日の山上さんだって制服のままだった。

もちろん、山上さんにとってはそんなことはどうでもよくて、問題はさっきのことだった。


「ジャージ姿見られた……」

「いや、別に良いんじゃないか? 俺は結構似合ってたと思うぞ」

「それってジャージ程度の服がわたしの丈にあってるって言いたいの⁉」


若干怒ったような口調で言われる。なだめるつもりが怒らせてしまったようだった。


「違う、違う。山上さんなら何でも似合うよねっていう意味だから……」

「なら、良いけど……」


山上さんはまだ少し不機嫌そうだった。

話を逸らすという意味も込めて、俺は気になっていた猫の話を振る。


「というか、猫飼ってたんだな」

「うん、ミケっていうの」

「三毛猫?」

「違う、違う。スコティッシュフォールドっていう品種」

「なんだそりゃ……。ティシュ大好きでティシュのこと抱きしめてそうだな」

「なんでそうなったの……」

「好こ ティシュ フォールドじゃん」


自分でも良く分からないようなことを言った。なんだか妙に頭に残る品種名だ。

今日もクッションには誰も座らずに部屋の真ん中あたりにほおっぽかれている。ただ昨日と違うのはクッションに猫が座り寂しそうじゃないことだろう。

部屋には少し気まずいような空気が漂っている。まだ山上さんの機嫌は完全に元通りという訳ではないようだった。

この空気を壊せることを願って、俺は軽く頭を下げた。


「……ごめん」

「い〜よ別に。わたしのお母さんが悪いんだし」

「そう言ってくれると助かる」

「た、だ、し! わたしのジャージ姿は忘れること!」

「まぁいいけど……」


そこまで恥ずかしがるほどの見た目でもなかっただろうに、山上さんの執念は深いようだった。忘れるには惜しいから、自分の中にそっとしまっておくことにした。


「あっ、そうだ。傘ありがと」

「うん。そっちもわざわざ、ここまでありがとね」


そう言ってから、山上さんは手を顎にあてて暫く考えているような挙動をした。それから決心したように目を見開く。

よく見ると山上さんはホントにかわいいことに気付かされた。それは見た目だけじゃなくて、挙動だったり、発言だったり、表情の豊かさだったりもする。クラスでともてはやされているリーダー格の女子よりよっぽどかわいいと思った。そんなことを思うと顔が赤くなってしまう。

山上さんは勢いに任せたといった具合に聞いてきた。


「ねぇ、ライン交換しない?」

「えっ……」

「嫌……かな?」


ちょっと悲しそうな顔で聞いてくる。その顔はずるい。

昨日、家に呼ばれた時も同じように聞かれた。少なくとも俺には効果的すぎる聞き方をされれば断ることなんてできなかった。


「い、いいよ……別に」

「なんか嫌そうだね」

「や、そういう訳じゃなくて……単純に女子と直接の交換は初めてというか……」

「なにそれかわいい」

「かわいいのか?」

「うん。それじゃあ、スマホカモーン」

「ほい。でもなんで……」

「今日みたいに来られたら困るし。来るなら来るで連絡手段ほしいな〜って」


そんなことを言いながら山上さんはラインを開く。まだ根に持たれているようだった。

俺は山上さんにスマホを任せた。不慣れな自分では出来るかどうかが不安だ。

暫く経ってからピコンっという音が鳴った。どうやら交換し終わったらしい。満足そうな笑顔でこっちを見てくる。思わず目をそらした。まともに見れるわけがない。


「はい、スマホ」

「ありがと」

「そういやさ、河江君ってクラスではとおちゃんって呼ばれてたよね」

「……あぁ、そうだな」

「じゃあわたしもそう呼んでいいかな? ほら。皆、とおちゃんって読んでるから河江君っていうのに違和感があって……」

「え、あぁいいよ……」

「ありがと、とおちゃん!」


ニコリと笑って山上さんが言ってきた。その仕草にドキッとする。顔が沸騰したみたいに熱い。

おかしな話だ。クラスメートの女子からとおちゃんと呼ばれても特にドキッとしないのに山上さんは特別だった。

俺はとりあえず誤魔化すように話を逸らす。


「こ、このあとどうする?」

「じゃあ折角だし今日も勉強おなしゃす!」

「え、あぁうん」




 勉強会と称したほとんどただの雑談で、時間はあっという間に過ぎていった。

窓際に咲いたユリの花が昼の街灯の光を反射して揺れていた。天井からは徐々に強まっていく雨音が響く。

時々鼻に入ってくる山上さんの香りがなんだか心の芯を暖かくする。

永遠にこの時が続いてほしかった。クラスのいざこざもテストへの不安も今日の晩ごはんのこともどうでもいい。心から安心出来る場所だ。

ずっとここにいたい。今日が終わるとここに来れないのだろうか。そんなちょっとした不安が芽生えた。

今が続けばいいのに。そんなことを考えてしまう。手は止まってしまった。目の前の数学の公式が幻のように感じた。

気付けば日は沈み、窓際のユリも街灯の青に染まっていた。

帰りたくないが仕方ない。

猫はのんびりとあくびをしてごろにゃ〜と鳴いている。その姿がなんだか腹立たしい。猫になりたい。吾輩は猫である。

まぁそんなことは言ってられない。心の中では惜しみながらも切り出さなければならなかった。


「じゃ、じゃあそろそろ……」

「えっ……ああもうそんな時間だっけ?」

「うん、早く帰らないとお母さんに怒られるからな」

「うん、ありがとね」

「おう、こちらこそ」


名残惜しく机の上を片付けてドアの方に向かう。トントンと階段を降りていると山上さんの母親にも迎えられた。玄関前で「とおちゃん、またね」なんて二人に手を振られながらドアをゆっくりと押し開ける。

本当は「また明日も」なんて言いたかったけど無理だった。理由は単純明快で、ただ恥ずかしかったのだ。山上さんの母親もいる手前そんなことは出来なかった。


「じゃあな」


そう言って外に出る。そっとドアを閉めた。ザーっと降る雨の中を傘をさして歩く。街灯が水たまりに揺れている。

ポケットからスマホを取り出してラインを開く。山上さんとのトーク画面が映った。まだ何もなく殺風景な画面だ。文字を打っては消して、打っては消してを繰り返す。やっとのことで書いた文をゆっくりと送信ボタンを押して送った。


『明日、行っても大丈夫?』


ちゃっかりスタンプもつけちゃったりして。送ってからはすぐにスマホをポケットに閉まった。駅に向かう足が早くなった気がする。

ブーッとスマホが響いた。すぐにスマホを取り出す。ホーム画面に山上さんからのメッセージの通知が来ていた。それをタップする。


『うん、大丈夫だよ!』


かわいらしいクマのスタンプ付きだ。思わずニヤニヤとした俺はきっと気持ち悪いだろう。なんなら今、飛び跳ねたい気分だ。

駅に向かう足がさらに早くなる。明日が楽しみで胸踊る。そんな梅雨の日だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます