第29話 勉強会

「河江君ってこっちだったっけ?」


少しぎこちなく、笑いながら山上さんは聞いてきた。今、俺と山上さんは住宅街の中を二人並んで帰っている。

こうしてみるとやっぱり山上さんは小柄だ。身長が僕の肩くらいまでしかない。傍から見れば、山上さんは高校生には見えないだろう。なんて言ったら怒られるだろうか。


「え、まぁ……そうだな」

「そうなんだ。自己紹介の時にわたしと同じ中学の人いなかった気がするんだけど……」


まさか覚えているとは思わなかった。といってもまぁそうか。普通、あの人同じ中学なんだ、くらいは印象に残るものだろう。でもまだいける。少し苦しいけれど。


「いや……さ、最近引っ越してきて……」

「へ〜。そうなんだ〜。こんな時期に大変だね〜」


ジト〜ッとした目を向けられる。怪しがっているらしい。

というか山上さんは思ったよりも結構喋る。てっきり何を言っても「うん」とかで終わると思っていた。むしろ実際はその逆で活発ささえ感じる。人なんてのはなにがなんだか分からない。普段は厳しい先生だって家なら家族と優しく笑っているのかもしれない。


「あ、あの……」


俺は口を開く。変に力が入ってしまった。山上さんは「なに?」とニヤッて笑いながら首をかしげる。その様子を見ると少しは力が抜けた。

表情が豊かだ。クラスでは仮面を被ってるみたいに表情が変わらないから、これも意外だった。


「ごめん……」

「急にどうしたの? なんかあった?」

「いや……俺、山上さんになにもできなくて……」


そしたら山上さんは優しく笑った。


「別に河江君は悪くないでしょ。こうして話しかけてくれてるわけだし。謝ることないよ?」

「え……あ…………」


なにも返せなかった。どう返すべきかが分からなかった。俺が戸惑っていると山上さんが切り出してきた。


「そうだね……。それじゃあ……」

「うん」

「このあと、家に来てよ」

「えっ? なんで……」

「嫌なの?」

「そういう訳じゃないけど……」

「なら決まりね」


家に誘われるなんて予想もしていなかった。あまりに突拍子もないことに驚いて、断ることも忘れていた。

電線の上に止まっている雀がチュンチュンと鳴いている。空は今にも降り出しそうな灰色の雲で詰まっていた。

見慣れぬ住宅街を進んでいく。小学生が道で縄跳びをして遊んでいた。二重跳びを練習しているらしい。


「それにしても河江君って優しいよね」

「そんなこと……」

「いやいや、こんなわたしに話しかけてくれるんだもん、優しいよ。まぁ……ストーカーさんだけどねっ!」


山上さんは最後にイタズラっぽく笑って、付け加えた。どうやらさっきの話は信じてもらえなかったみたいだ。


「違うって、ホントに最近引っ越してきて……」

「はいはい、分かった分かった」


山上さんはあやすように言う。なんだか、お姉さんっぽい。身長は低いのに年上に感じられるのだから不思議だ。

そんなことを思っていると山上さんが突然止まった。それから唐突に家を指差す。


「ここ?」

「そうそう。わたしの休息の地」

「なにその厨二病みたいなの」


思わず頬の力が緩んでしまった。

山上さん、そんなことも言うんだ。

皆の知らない面を知れて少し得した気になった。


「河江君、やっと笑った〜」


山上さんが首をかしげてニマ〜っと笑った。その様子がなんだかとても可愛くて胸をキュッと絞められる。

山上さんの不意打ちは経験のない俺には効果抜群だった。あっという間に顔が赤く染まる。誤魔化すように下を向いた。

紫陽花あじさいが隅の方で咲いている庭に入って、すぐに玄関の前に着いた。

庭のある家には憧れる。俺はずっとマンションだったから庭という存在に夢が詰まっているように見えた。窓から花がたくさん見えるのが羨ましいなんて、年頃の男子には不相応な感情だ。

ところで、冷静に考えればここはクラスメートのの家だ。

意識のしすぎなのだろうが変に緊張してきた。心臓の音が頭に響く。山上さんがドアを開けて入るように促す。それでも足が石にされたみたいに動けなかった。


「やっぱり……」

「ここまで来て何言ってんの? さぁ入った入った!」


トンと山上さんに背中を押されて勢いのついた俺の体はそのまま家の中に入ってしまった。

気付いた時にはもう遅い。山上さんも家の中に入り、ドアも閉ざされた。固まる俺をよそに山上さんは靴を脱ぐ。


「ただいま〜」

「おかえり〜。大丈夫だった?」

「うん。今日はちょっとお客さん呼んできた」


お客さんという言い方が面白い。

俺は内心焦っていた。この場合、はたから見ても俺の様子はおかしかっただろうから、内心というのが正しいのかは分からない。

とにかく、俺は山上さんの母親にあいさつをしなければならなかった。普通にクラスメートの河江です、と言うのが良いだろうか。

そんな俺をよそに、靴を脱ぎ終わった山上さんは丁寧に棚に靴をしまっていた。

玄関から奥の方に廊下が続いている。その廊下の奥から山上さんの母が来た。山上さんと顔はそっくりでいかにも親子らしい。身長も親子そろってらしく、山上さんの母親の頭は俺の目のあたりまでぐらいだった。若そうだという印象を受ける。


「香奈が友達呼ぶなんて珍しいじゃ〜ん」


お母さんが同年代の友人のような雰囲気で言う。いつもこうなのか、今が特別テンションが高いのか、俺には知るよしもない。

あと、俺たち二人ははたして友達なのかという疑問は置いておくとしよう。


「こんにちは、山上の母です〜。あれ?」


山上の母親は俺を見た瞬間に目を丸くしていた。

そもそも、友達を家に呼ぶのが少ない娘がいきなり男子を連れてきたら誰だってこういう反応になる。

僕だって何故、山上さんが家に呼んでくれたのか不思議なくらいだ。僕たちは親友でもなければ、友達でもなく、ついさっき初めて話しただけのクラスメートなのに。


「あれ〜、男の子じゃん。急に呼ぶと思ったら男の子なんて香奈は大胆だね〜」


冗談っぽく言うその顔はどこか嬉しそうだった。別に山上さんの母親が期待している関係などではないから少し申し訳ない気分になった。

単純に、そういう勘違いは僕たちの年頃ならもちろん意識してしまうもので、変に恥ずかしくもなる。それは山上さんだって同じらしい。


「なっ……そういうんじゃないから!」

「この子色々と面倒見るの大変だと思うけど今後ともよろしくね」

「だから違うって! ほら! 行くよ!」


山上さんは顔を真っ赤にしてそう言うと勢いよく俺の手を引いた。

靴がまだちゃんと靴箱に入れれていない。けれども、そういうことを言えたわけではなくて、靴は玄関に散らばってしまった。

そのことも気になるけれど、もっと大きな問題があった。その問題を思えば靴のことなど些細なことだ。

つまるところ、僕は女子と手を繋いでいた。暖かくて小さい手が僕の手を優しく包んでいる。記憶上、妹を除いて、女子と手を繋いだのはこれが初めてだった。意識すればするほど耳が赤くなる。

山上さんに引っ張られ、体勢を崩しそうになりながら階段を駆け上がる。

山上さんは二階に上がると右手に見えるドアを勢いに任せて引いて、俺を押し入れた。その後、山上さんも部屋の中に飛び込む。バタンと大きな音をたててドアは閉まった。

山上さんに離された僕の手にはまだほんのりと温もりが残っていた。

部屋の中はフワリとした空気だ。落ち着いた様子の部屋の所々に見えるミニ観葉植物や小さいぬいぐるみに女子力を感じた。ベージュを基調としたこの部屋はまるで森の中のように落ち着いた雰囲気だ。


「ごめんね〜。わたしのお母さんいつもあんな感じで……」


少し息を切らせた山上さんは丸いクッションを柔らかい色のした机の横に置いた。クッションは一個しかないのだがその上に山上さんは座らずに机を挟んでその向かいに座る。

どうやらクッションの上に座るよう俺に促してるみたいだった。

それはマズイということでクッションを机の下を通して山上さんに押し出す。

山上さんは俺にクッションを押し返してくる。

こうして二人が譲り合ってクッションを行き来させるという構図が生まれた。 


「これ山上さんのだし、山上さんが座るべきだよ!」

「いや、河江君はお客さんなんだからわたしがもてなさなきゃ」

「俺は直の方が楽だから」

「直の方が楽な人とかいないでしょ!」

「それじゃあ山上さんも楽じゃないじゃん」

「わたしは良いの、もてなす側だから」


もはや喧嘩のようになってしまっている。ここまで来ればどちらも引くことなど出来なくなっていた。適当な言い訳を考える。


「いや、山上さんは女子だし……」

「それ男女差別だよ〜」

「それなら山上さんのだって来客差別だ」

「そんなの無いでしょ!」

「じゃあもう、二人とも座らなかったら良いじゃん!」

「いいよ! 別にいいよ! それなら平等だし!」


そういうわけでクッションは近くの床にほっぽらかしにされることとなった。誰も座ってくれなかったクッションは寂しそうにしている。

というか改めて考えればここは女子の部屋なんだ。

俺は女子の部屋というものには初めて入った。

妹の部屋らしいものには入ったことがあるが、なにせマンションだからちゃんとした部屋じゃない。どちらかといえば妹のスペースといった具合で、それは家全体に雰囲気が飲み込まれていて、部屋らしさは皆無だった。

大袈裟かもしれないが女子の部屋は自分の中ではホントに存在するかも分からないほど夢幻な世界だったのだ。

でも、たしかに俺は女子の部屋という異世界にいる。そう考えると無性に恥ずかしくなってきた。

この優しい雰囲気に飲まれそうだ。ほんのり鼻に入ってくる柔らかい匂いが耳をさらに赤くした。


何を話せば良いかが分からない。


さっきあんなに言い合ってたのにおかしい。


女子の部屋を認識した瞬間に僕には魔法がかかってしまったようだった。気まずい空気が漂う。

いや、気まずく感じてるのは俺だけかもしれないけれど。先に口を開いたのは山上さんだった。


「そういやそろそろ期末だね。どんな感じ?」

「どんな感じっていうか……まぁそれなり」

「へ〜、どうせ良いんでしょ? 聞いたよ、河江君賢いんだって?」

「そんなことないって」

「ホントに? じゃー、前の数学何位だった?」


実をいえば一位だ。

無駄な謙遜はするべきではなかったのかもしれない。具体的に聞かれるとも思ってなかったし、適当に流すつもりだった。

俺はあまりおごるのが好きではない。そうすれば相手のヘイトを買うのは目に見えていたし、たかが成績で驕るのも馬鹿らしかった。

こういう場合は「そんなことない」と言っておけば大抵は話が流れてくれていた。けれど山上さんは違った。遠慮なく切り込んでくる。

嘘を言う気にはなれなかった。聞いてきたのを断るのもおかしいし、山上さんならそんなことくらいで俺を嫌わないのは直感的に知っていた。

山上さんはきっと純粋なのだ。

ただ、慣れてはいないことだから、悪かった教科を後付けして誤魔化す。


「や、い……一位だけど。ほら! 他の古典とか無茶苦茶悪かったから」

「え……。一位? やばぁ……」


目を丸く見開いて心底びっくりした、という顔をする。引かれているようだけど悪い気はしなかった。


「たまたまだから、たまたま」

「嘘だ〜。そんなの絶対、毎回いいとことってるでしょ。どうせ古典も悪いとか言って良いんだって」

「いや古典はホントに駄目だったんだって!」

「そうなんだ。具体的には?」

「六十七点」

「それって何位くらいだっけ?」

「大体九十位くらいじゃない?」


すると山上さんは、はぁ〜と溜め息をした。山上さんは冗談っぽく失望を演じる。


「それでも平均以上じゃん……。わたしなんて一番いい教科が平均以下なのに」

「……ごめん」

「なんか謝られると余計ツラいよ……。そうだ!」

「ん?」

「勉強教えてよ。わたしこのままだとホントに大変なことになっちゃうし」

「あぁ……いいよ」


山上さんは学校に暫く行ってないのだから授業も受けていなかった。考えてみれば山上さんは勉強どころじゃなかったのだろう。

山上さんから提案してきた勉強会はただの頼みごと以上の意味があった。

俺が山上さんに勉強を教えることは、山上さんが登校してこなかった日々を取り戻すことになるかもしれない。

なにも出来なかった自分の罪滅ぼしだった。


 山上さんの数学は壊滅的だった。そんなことを正直に言えば山上さんが怒るのは待ったなしだろうから黙ってはいたが、思わず口に出そうになるほどだ。

新品同等な教科書を一ページ開くたびに山上さんの同じような愚痴がこぼれる。


「はぁ〜、ここホントに分かんないんだよね〜。なに、この地球みたいなの」

「これ? これはファイってやつだな」

「ふぁい?」

「うん」

「なんか、アニメとかでそんな語尾の人いそうだね。わたしの名前はアクエスタふぁい! みたいな」


勉強会を始めて一時間とちょっとは経って、山上さんのことも少しだけ分かってきた。

山上さんの話はすぐに逸れる。独特な感性からでてくる言葉は、どこが面白いかも分からないのになんだか笑えてしまった。


「なんだそれっ……アクエスタって誰だよ」

「わたしも知らない!」


二人、ツボにハマって笑い続ける。落ち着いて来たと思っても、どちらかが吹き出して二人ともまたクスクスと笑う。

そんなループが続く。第三者から見ればさぞかし気持ち悪かっただろう。

やっと笑いが収まった頃には全身が笑い疲れていた。


「それで、∅っていうのは……」

「うん」

「空集合ってのを表すやつだ」

「また大層な言葉が……」

「そんなことないぞ。簡単に言ったらなにもないってことだ」

「ほう……」


俺は教科書のページをめくる。使い込みが浅い教科書は俺に触るのを少しためらわせた。


「何この、Uとそれ反対にしたやつ……」

「これはかつで……こっちがまたは

「うわ……」

「大丈夫、大丈夫、そんなにややこしくないから」

「河江君からすればね!」

「ホントにややこしくないって! ∩は共通するものを取り出すやつで、∪が合計みたいな」

「ほ〜ん……」


微妙な顔をされる。勉強会の前までは山上さんが年上らしいと感じていたけれど今は逆だ。まるで小学生だ。悪い意味なんかじゃない。変化があって一緒にいて楽しいと思った。


「これ見て」

「うん」

「Aに1,5,9が入ってて……Bに2,9が入ってるだろ?」

「うん、確かに」

「このときA∩Bは、共通を取り出すから9で……A∪Bは合計だから1,2,5,9になる」

「なるほど。思ってたより簡単だね」

「だろ? んで、仮にAとBに共通部分が無いとしたらA∩B=∅となるわけ」


山上さんは少し考えてから納得したような顔をした。一つ一つの動作がはっきりとしているから何をどう考えているかが分かりやすい。


「理解したよ。つまり、山上∩クラス=∅ってことだ」

「え……あぁ……」


山上さんはこれまでもいくつか言った冗談と同じような具合で言った。別に恨みだとかそういう感情はなくて、純粋に笑っていた。

俺には分からなかった。俺は山上さんになにがあったのかは知っているつもりだ。俺が知っている範囲内であってもそれは随分と酷いものだった。俺であってもきっと耐えられない。それなのに山上さんは笑って、冗談として済ましている。

けれどそんな訳がなかった。今だってどうしようなく怖くて、痛くて、辛いに決まっていた。

それなのに山上さんは優しく笑う。


「冗談だって! そんな悲しそうな顔されるとわたしまで悲しくなるじゃん。ほら次行こ?」


俺は何もできずに教科書のページをめくるだけだった。



 壁にかかっている時計は午後七時を回った頃を指していた。外は暗くなり、パラパラと雨の音も聞こえてくる。山上さんに勉強を教え始めてからおおよそ二時間程経っただろうか。


「ん〜〜。もう七時か〜」


山上さんはぐ〜っと手を伸ばしてから息を吐いた。気付けば随分と経ったものだ。流石にそろそろ帰らないと親に怒られてしまうだろう。


「時間も時間だし、そろそろ……」

「だね、夜に未成年の男の人と女の人が同じ部屋に二人っきりでいるなんてまずいもんね」

「その含みある言い方はやめろ」

「今日はわざわざありがとね。ストーカーしてたところをお邪魔してしまいまして……」


ストーカーを家に上げた山上さんはイタズラっぽくニヤッと笑う。反論もできない僕は諦めたように笑う。


「こちらこそ、ありがと。女子の部屋は初めてだったしな」

「なにそれ、ちょっとキモいよ?」

「なっ……」

「わたしじゃないと引かれるよ?」

「マジか、気をつけよ」

「気をつける機会はあるのかな?」

「結構痛いこと言うなぁ……」


山上さんの的確な指摘は僕の胸に刺さった。それでも山上さんが水入らずで話してくれている気がしてなんだか嬉しかったりもする。少し複雑な気分だ。


「じゃあ」

「あっ、わたし玄関前まで送るよ」

「あ、どもです」


二人で階段をトコトコと降りていく。

なるべくなら山上さんの母親には会いたくなかった。山上さんの行動のせいで深まった疑念を吹っ掛けられるのは勘弁だ。

散らばったままのはずの俺の靴はきっちりと並べてそろえられていた。

割と使い古して柔らかくなった靴を履いていると、後ろから山上さんよりは少し高い声が聞こえてきた。

山上さんの母親だ。


「あれ、帰るの?」

「はい、もう外も暗いので……」

「そっか。今日はわざわざこの子のためにありがとね。手のかかる子だけど根は優しいから──」

「もう、お母さん! さっきも言ったでしょ、そういうんじゃないって!」


山上さんは困ったような顔をして言う。なんだか親子というよりは姉妹のようだった。

とりあえずは挨拶だけでもしておこうと思ったのだが、山上さんは俺の自己紹介を待つことなく、俺の腕を強引に掴んだ。


「こんな人置いといてさっさと外に出よう、河江君。ほら!」

「えっ……」


山上さんは俺を腕ごと引っ張って外に出る。

山上さんの母親が何か言うのを待たずしてドアは音をたてて閉まった。


「ホントにあの人なんなの……」


口を尖らせて山上さんは愚痴を吐く。その横顔がちょっとかわいく見えた。

誤魔化すように鞄から折りたたみ傘を探す。結構雨が降っていた。

傘が無いと大惨事だっただろう。そんなことを思って傘を取り出し、開こうとした。けれど、折り畳み傘はなにかに引っかかるような感触を残してうまく開かない。どこかが噛み合わなかったのかと何度か試してみるが、結果は同じだった。

どうも、この傘は壊れたらしい。雑にたたんだのがまずかったのだろう。気づいてしまえば冷静にはいられなかった。

この時間、すし詰め状態の電車に全身びしょ濡れ状態で乗り込むほどの度胸は俺にはない。かといって、ここから家はとても歩ける距離じゃなかった。

壊れたことを認めたくなくて何度か開こうとはするけれど結果はなにも変わらない。

一人で勝手に焦る俺を見かねたように、山上さんは声をかけてくれた。実を言えば俺はそれを待っていたのかもしれない。面倒くさい奴だ。


「傘壊れたの?」


山上さんは無残にも骨が折れたようである傘を覗き込む。俺は無言で頷いた。

山上さんは下から見上げるようにして、俺に提案をした。


「じゃあわたしの傘使ってく?」

「お、マジで?」

「うん。その代わり明日ここに返しに来てね」

「え、まぁ良いけど……」

「オッケー、交渉成立〜。はいど〜ぞ」


山上さんは近くの傘立てから一本、傘を取り出して俺に差し出してきた。傘は水色の水玉模様で結構女子っぽくてかわいいやつだ。

借りる側だし贅沢は言えないがこの傘は恥ずかしい。女子高生でも差しているのが想像できないこの傘は、小学生くらいがちょうど似合っているだろうか。

これを街中で差すのには気が引けるが、家に帰れないよりはいくらかマシだった。


「あ、ありがと……」

「不服そうだね。河江君ならかわいいのも似合うと思うけどなぁ」


冗談だか本気だかが分からないことを言ってくる。

地面から跳ねてくる雨粒が冷たいので会話も早々に切り上げて、バッと傘を開いてから雨の中に足を進めた。ボトボトと聞こえてくる、傘に当たる雨音が心地よい。

山上さんに手を振ってから庭を出る。

街灯の光が濡れたアスファルトで反射していた。

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