第26話 かーちゃん

九月二十九日(土)


 テーマパークに行ってから早くも三週間が過ぎた。特に変わり映えのない日々は続き、あの店員のことなんてすっかり忘れていた。

まだ暑い夏は終わらないものの、一時期を思えば暑さもマシになってきていて、台風発生のニュースも街頭で頻繁に見かけるようになっただろうか。


 それは日も沈んで、窓から社内に街の灯りが入ってくる頃だった。

突然に社内に電話の呼び出し音が響いた。鳴っているのは誰かの携帯電話ではなくて会社の固定電話だ。

まず社長が電話に出た。それから社長はかーちゃんを呼ぶ。どうやらかーちゃん宛の電話だったらしい。会社に電話をかけてきておいて特定の個人を呼ぶだなんていうのは珍しい。

少し違和感を感じた。それは社長も同じらしく少し怪訝な表情をしていた。


「はい。山上香菜です」


静かな社内にかーちゃんの声が響く。僕は仕事に手をつけることができずに、かーちゃんのほうばかりを気にしていた。

かーちゃんの顔はすぐに曇った。

それから驚いたような怖がっているような表情に変わるのに、そう時間はかからなかった。

僕は自分の中の嫌な予感がここで爆発する気がして、とても、じっとなんてしてられずに立ち上がろうとする。

とおちゃんもかーちゃんの様子を見ていたらしく僕より少し早くに立ち上がる。それから僕ととおちゃんの二人、かーちゃんの方へ急いだ。

デスクや飛び出た椅子の隙間を泳ぎ、かーちゃんのもとへ半ば走る。

かーちゃんが目の前となった頃、かーちゃんは震えていた。

目はうつろになり過去のトラウマがフラッシュバックしたかのように足元から震えて、顔はすっかり生気を失っている。

目が顔から浮いているように見えた。

受話器が震えるかーちゃんの手からスルリと落ちる。

受話器はケーブルでブラ〜ンと気味悪くぶら下がった。

かーちゃんは腰から力が抜けたようにヘナヘナと床に落ちる。

恐怖に怯えるかーちゃんは廃人のようだ。

微かに受話器から聞こえてくる声が耳に入ってきた。


『……え…………あし………』


声が途切れ途切れに聞こえてなにを言っているかが分からない。それでも耳をすませば、最後の言葉だけがはっきりと耳に入りこんできた。


『……じゃあまた今度』


耳を撫でるような女の人の声だった。たしかに変なところはないのだけれど、どことなく不気味な声だ。異様に冷たい声は脳に刺さる。

それからツーツーと電話は切れた。僕は再びかーちゃんに目を向ける。


かーちゃんは過呼吸を起こしていた。


とおちゃんが落ち着かせようと背中を揺すっている。それでも過呼吸は収まることなくむしろ悪化していく。ちゃんと呼吸ができないからなのか、かーちゃんの体は痙攣を起こし始めた。

たまらず誰かが救急車を呼ぶ。




僕はただ……何もできなかった。




目の前で起こることすべてがこの世界じゃないみたいで、目の前の世界に僕がいないみたいで。

突然に崩れ去る日常はただの夢のようだった。

いや、突然なんかじゃない。ちゃんと予兆はあったじゃないか。かーちゃんがあの店員を見てから何度も寂しそうに、不安そうにしていたのを僕は知っている。その度に知らないフリをしたのも僕だ。


もし、声をかけていれば……。


もし行動に移していたら……。


分かっている。過去を求めても無駄だ。だとか言ってもどうにもならない。

かーちゃんをこうしたのは僕自身だ。

これが僕の答えなのか。

最初から分かっていた。ほっとくと良くないのは。


それでも、なにもしなかったのは僕自身だろう?








 気づけば救急隊員が来て、僕はとおちゃんに引っ張られ、とおちゃんと二人で同伴した。上で鳴り響くサイレンの音はまるで他人事みたいに鳴っている。目の前には酸素マスクがつけられて少し落ち着いたかーちゃんが寝ていた。

それも幻に感じた。現実から遠いものだと思った。そう思いたかったのかもしれない。


結局僕は何一つ変わっていない。


僕の嫌いな、あの青年と僕はなにもかもが同じなんだ。

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