第11話 引いて駄目なら押してみろ

八月十一日(土)


現在時刻は朝の六時半。多部広告代理店に行かないといけないので朝早くに目を覚ましたわけだが、僕はガッチリとかぐやに捕獲されていた。

なんだかんだで結構早い時間だ。この時間にかぐやを起こすのは申し訳ない。かぐやだってきっと疲れてるだろう。

僕はかぐやが起きないように、慎重に僕の後ろで繋がれたかぐやの手をほどく。

それは、やっとほどき終わって安堵していた時のことだ。


「建……離れないで……ずっとそばに居て……」


かぐやがポツリとつぶやく。最初は聞き間違いかと思ったが、どうもかぐやが言ったらしかった。寝言でそういうことを言うのは反則ではないだろうか。

かぐやのはかなさも相まって、僕はその場から離れることはできなかった。

目の前には朝日に照らされて輝く絹のような髪に包まれた、守りたくなってしまう可愛い寝顔が見える。かぐやの髪に付けられているアメピンを見ると、少し心の底が温かくなった。

いつもなら緊張して心拍数が急上昇したりだとか、そんなみっともない症状に襲われるところだろう。

けれど今は違った。どういう訳か僕は冷静だ。別にこういう状況に慣れてしまったとかではない。きっとそれを超えた何かが僕を落ち着かせてくれている。


かぐやの息がしっかり感じられる。

かぐやの体温がしっかり感じられる。

かぐやの優しさがしっかり感じられる。

かぐやはしっかりと目の前に居る。


例え他の誰からも見えてなくても、知られてなくても、僕は君がどこに居ても絶対に見つけ出す。

僕は君を絶対に忘れない。世界から君を消し去らせるものか。

会ってから一か月も経っていない僕らだけどきっと、うまくいくから……。 

僕の顔はかぐやのすぐ近くにまできた。本当にあと数センチといったところだ。

突然、かぐやの顔が動いた。その拍子に僕らのおでこ同士がコツンと音を立ててぶつかる。


「イテテ……」


かぐやはそう言うとおでこを手で抑えて起きてしまった。かぐやが起きてしまってから、僕には猛烈な恥ずかしさが押し寄せてきた。

一体、僕は何をしていたのだろう。自分でもよく分からなかった。


「なにしてるんですか? ちょっと恥ずかしいですよ……」


かぐやは起き上がって、膝に掛かっている布団を抑えるようにして手で掴むと顔を赤くして俯く。


「ごめん……。色々あって」

「色々ってなんですか……?」

「色々って言うのは……取り敢えず色々……」

「またごまかしてます。なにしようとしてたんですか?」

「さあ……分からない」


僕は台所に行くと、とぼけながら朝食の準備をする。


「とぼけた……もういいです。それでなに作るのですか?」

「えっと……今日は簡単なお味噌汁と焼き鮭とサラダを作ろうと思って」

「え! 昨日よりも豪華だけど時間かかるんじゃないですか?」


昨日の朝食と言えば、卵焼きと白ご飯のみだったか。あの朝食は質素だった。囚人でももっとマシなの食べてるんじゃないかっていうレベルだ。


「逆に昨日が少なすぎたんだよ。これが普通。ていうか一昨日までの朝はこんな感じのボリュームじゃなかったっけ?」

「言われてみればこんな感じだったかも……。まぁ、今日もよろしくお願いします、師匠!」


そういうことでこの三つの料理の仕方を教えているといつの間にかいつもの四倍近く程の時間が過ぎ去ってしまっていた。

そんなこんなで何とか完成させた料理はいつも通りの安定した味で、それでもかぐやは「おいしい、おいしい」と言ってくれるのだった。


 


 アパートを出たのは十一時前のことだ。外に出た途端にうだるような暑さが降り注いできた。最近の夏は暑すぎる。そんなどうしようもない文句を垂れながら水天宮前駅へと歩いた。

 傾斜のある特徴的な前面部、車体には紫色のライン。そんな半蔵門線に二十分程揺られていると「渋谷~、渋谷~」とアナウンスが聞こえてきた。

乗客の半分以上がホームに流れ込んでゆく。ちょっとした川が一瞬できたかの様に感じてしまうのは僕だけではないはずだ。

さて、ここからは全力で迷いにいかせる渋谷の街と絶対に迷いたくない僕との命を懸けた戦いだ。

普段は役に立つスマホのとある地図アプリも大都会の中では暗号アプリと化してしまう。僕にはまるで何が描いているのか理解することが出来ないのだ。まず方向が分からない。

なんとか駅を抜け出してハチ公のある駅前に出る。スクランブル交差点がここにあることを初めて知った。

たくさんの人が車道際の歩道に立って信号を待っている。

周りにはお金がかかってそうな建物が並び、広告が山ほど目に入った。液晶画面が何個も付けられていて広告音が複雑に入り交じる。

これが渋谷……。田舎から来た人みたいにしばらく立ち尽くす。いけない、いけない。僕は仕事に来たんだ。

それにしても、どうも、僕はかぐやと一緒に居たり直接関係する事になると方向音痴は治るようだ。つまりは方向音痴も気持ちの問題、落ち着いていけば迷わずに着く……と思っていたのだが。

ことはそう上手くはいかないものだ。

渋谷駅から会社に着くまでの一時間半に渋谷のシンボル、我らのハチ公に二十回程会った。

初めて渋谷に降り立った瞬間は街の大きさに関心して謎の高揚感に包まれたが、今となっては巨大すぎる街が僕を締め付けている。


 多部広告代理店を見つけたのは偶然で、たまたま道玄坂を登っていったら会社があった。普通にいけば駅から徒歩五分ほどで行ける所で、その十八倍もの時間を費やした自分は一体全体何だったのだろうか。

今回の戦いは僕の完敗に終わった。

 さて、多部広告代理店に着いたのは良いものの、コミュ障に近い僕がいきなり突入など出来るはずもなく、会社の前の歩道で会社を見上げているだけだった。

会社の前をウロウロと歩いたりもする。何回かビルに入るエントランスドアを開けようともしたがドアに手が触れては離すを繰り返すばかりだった。

これでは不審者だ。第一印象が不審者はマズい。

このままではらちが明きそうに無いのでとおちゃんに電話を掛けることにした。会社に居るのなら降りてきてもらって僕を連れて行ってほしいと言うつもりだ。

というか、最初から渋谷駅まで迎えに来てほしいと電話すれば良かったんじゃないか。

流れるように電話番号を入力した後に発信ボタンを押す。発信音はすぐにとおちゃんの声に切り変わった。


『もしもし、河江です』

「もしもし、建じぃという者ですが……」

『おぉ、建じぃか。それで今どこに居るんだ? 方向音痴の建じぃの事だ、迷ってでもいるのか?』

「まぁ、半分正しい。正確には迷ってた。それで今会社の前に居るんだけどとおちゃんが僕を連れて行ってくれないかなぁって思ってたり」


少しごまかす。とおちゃんの事だから迎えに来てくれるのには違いないのだが、はっきりと恥ずかしいから入れませんとは言えない。

ストレートに言ったら、なんだか一人でおつかいに行けない子供のおねだりみたいになってしまいそうで恥ずかしい。僕に残っていた少しのプライドの問題だ。


「仕方ねえなぁ。建はそういうとこシャイだな。今から下に行くから待ってろよ! じゃあな!」


そういうととおちゃんは電話を切ったようで、スマホからはピー ピーと規則的な音が流れてきた。

最初の挨拶はどうしようなどと考えていると、とおちゃんが息を切らして降りてきた。電話を切ってからまだ一分も経っていない。走ってくるあたりが如何いかにもとおちゃんらしいと思う。


「はぁはぁはぁはぁ……。建じぃ、ちょっとタンマ」

「大丈夫か? 急がなくても良かったのに」


実を言えばもう少しくらいは待っていたかった。昨日の夜から考えている挨拶がもしかしたら出ていたかもしれないのだ。もちろんその可能性はゼロに近いのだが。


「オッケー、息が整ってきた。よし! じゃあ早速行こうか」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ心の準備が出来てなくて」

「はぁ? そんなこと言ってたらいつまで経っても入れないだろ。良いからさっさと来い!」


とおちゃんは僕の手を掴むと僕を引っ張って会社へと連れて行こうとする。僕が男でなければときめいてもおかしくないような状態だ。

ときめきはしないものの、どこか頼れるような力強さがとおちゃんから感じられたので抵抗することもなく付いていった。

昔からとおちゃんは僕を導いてくれた。

いつかこの借りを返せる日が来るのだろうか?

とおちゃんに連れられるがまま階段を上り、五階に着くと多部広告代理店という看板が目に入った。ガラス製の自動ドアの向こうにはデスクが並んでいる。

それぞれのデスクが個性を持っていた。

例えば一番手前のデスクは可愛いクマさんの人形が並んでいて全体的に暖色的だが、その奥のデスクには東南アジアかどこかの仮面や木彫り彫刻が並んでいて不思議な空気を放っていた。

デスクを見るだけでどんな人なのかが分かって面白い。

クマさんデスクはきっとクマキャラが大好きと公式ホームページに書いていた霧島きりしま羽菜はなことはなっちで、東南アジアデスクはインドネシアの良さを語っていた井山いやま昂輝こうきことマーズだろう。

緊張のあまりホームページを凝視して覚えてしまったことが思わぬところで役に立った。取り敢えず今は会社に馴染むために必死なのだ。

自動ドアを通り社内に入ってからオフィスを見渡したけれど、所々に置かれた観葉植物と柔らかい色のした壁が目に入るばかりで人はいないようだった。


「今は会社にとおちゃんしかいないのか?」

「いや、十六人全員が来てるぞ。今は第一会議室に集まってる」

「会議中か。ん? 全員そこに居るってことはとおちゃんも行かなきゃいけないんじゃないの?」

「会議はしてないぞ。建じぃが来るって言ったらそこに集まることになった」


つまり、そこで自己紹介とか何とかが行われるのだろう。十六人の前で喋るなど僕からしたらかなりの難題だ。

雰囲気は良さそうだしそんなに固くなることも無い、と自分に言い聞かせるのだが中々緊張が解けない。

固さがほぐれることも無いまま、遂に第一会議室のドアの前についてしまった。


「建じぃがドアを開けた方が良いだろう。なぁに心配することは無い。皆建じぃを歓迎してるから」

「そうだと良いんだけど……」


不安を残したままドアノブに手を掛けて、引いたがドアが開かない。何故なのか分からず焦っていると、とおちゃんが押戸だと教えてくれた。

引いて駄目なら押してみろ。

あれ、逆だっけ?

ドアをゆっくりと押し開けると中の賑わっている様子が伝わってきた。この空気に僕は馴染めるのだろうか。

根拠は無いけどいける気がする。とおちゃんがいるし。臆病になってばかりでは駄目だ。


引いて駄目なら押してみろ!


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