第10話 優しさ

ふと目に入った時計は、僕にとって重要なことを思い出させた。


「……そういや、バイト先に電話入れないと」


憂鬱でしかないが、隣にいるかぐやの存在が少しはその心を軽くしてくれた。

何を言われるかは分からない。まぁ、怒られるだろう。でも仕方ない。これは僕が悪いんだから。

僕は勇気を出し、もう指が覚えているバイト先の電話番号をスマホに打ち込んだ。 


発信音は直ぐに冷淡な声に切り替わった。


『高杉か? 今何時だ?』

「今は十時三十一分です」

『そうだな。じゃあ高杉の今日のシフトは何時からだ?』

「十時からです」

『そうだ。では何か言うことはあるか?』


僕は店長のこの回りくどさも苦手だ。でも今回はこちらが悪いのだから仕方がない。


「遅刻してしまい申し訳ありません。あともう一つ言いたいことがあります」

『なんだ?』

「今日付けでバイトを辞めさせてもらおうと思ってまして……」

『……分かった。手続きはこっちでやっておく。お疲れ。では……』


電話はそこで切れた。ツー、ツーと無機質な音が心に響く。

特に御礼も引き留めもないままに電話は切れた。別に何かを期待していた訳ではないが、これ程までだとも思っていた訳ではない。

結局彼らはある程度仕事ができる人ならだれでも良いのだろう。そう考えると無性に悔しくなった。


「建……。大丈夫ですか? 嫌なことでも言われましたか?」


別に嫌なことを言われた訳なんかじゃない。むしろ何も無かったのだ。

これならば、まだいくつかの罵声を浴びせられた方が楽だったかもしれない。


「いや……。大丈夫。これくらい慣れてるし……」

「慣れてても嫌なものは嫌ですよ?」


かぐやは手を伸ばして僕の頭を優しく撫でてくる。急に泣きそうになった。さっきまで笑ってたりしたじゃないか。

情緒不安定かよ……。

やっぱり僕は情けない。

かぐやに比べたらこんなの何でもない事なのに。もっとつらい事なんてこれまで山ほどあったじゃないか。

でもこんなに泣きそうになったことなんてこれまで無かった。

きっと僕は優しさに飢えていた。家に帰っても薄暗い誰もいない部屋が待っているだけ。そんなのだと泣くことなんていうのは忘れてしまうのかもしれない。

かぐやの優しさが僕をほつれさせていく。流石に十六歳手前に泣くわけにはいかない。ぐっと涙をこらえた。


「大丈夫、大丈夫。ホントに嫌なこと言われてないし」

「ホントですか? 建、泣きそうな顔してますよ?」

「そ、そんなことは……」

「ほらこっちに来てください」


かぐやは僕を引き寄せるとそのまま僕の背中に手を回した。かぐやに包み込まれた僕はここから出ようなんて気力は湧かずにそのまま言いなりだ。


優しかった。

暖かい。

安心する。


なんだか不思議だ。

昨日死のうとしていた子に僕は慰められている。

僕がバカみたいに叫んで助けた子に今度は助けられている。

やっぱり情けない。でも今はそれでいい。情けなくていい。どうせここには僕とかぐや以外は誰もいない。

今だけは甘えさせてほしい。我慢していた涙も一粒、また一粒と流れ落ちていった。その涙はかぐやの服の上に落ちると服を染め、やがて見えなくなっていく。

その涙は今回の件に関するものだけではなかった。これまでの色々なことの全部が涙に溶け込んでいる。

僕の過去が音をたてて崩れていく。自分を絞めていた紐が綻び始める。

かぐやは黙って僕の背中をさすってくれた。変な気持ち。ちょっと恥ずかしいけどそれ以上に安心できる。

僕はかぐやにバレないように声を抑えてちょっとだけ泣いた。もしかしたらかぐやにはバレていたかもしれない。

なんとか落ち着いて来たころに僕はそっと口を開いた。


「ありがと。もう大丈夫……」

「いえいえ。CMで成功してバイト先見返してください!」

「よし、絶対成功してやるからそれまで待ってて!」

「それじゃあ待ってますね」


かぐやは僕に笑いかけてくる。その笑顔はヤバいって。今、涙腺弱ってるんだから……。グッと涙をこらえる。代わりに僕もなんとか笑顔を作って返した。

今の僕にはこれくらいしかできない。ここにいたらいつまた泣きそうになるかが分からなかった。ちょっと落ち着こう。

そういえば、ネカフェのときに髪を切ろうだとか思っていた。どうせなら今日切ろう。明日、多部広告代理店に行くわけだし、ちゃんとした口実だってある。


「かぐや、僕髪切ってくるよ。一時間位で帰ってくるから待ってて」

「分かったけど……何でいきなり髪切りに行くんですか?」

「え……。それは。えっと。ほら、明日会社行くから……」

「ちょっと焦ってる辺り怪しいけど、どんな髪型か楽しみです」


かぐやは僕を覗き込むように言ってきた。なにか勘づかれてそうだ。完璧に気付かれる前に急いで財布とか軽い荷物を持って玄関に向かう。


「別に髪型は普通だよ。それじゃあそういう訳で」

「うん。いってらっしゃ~い」


かぐやが手を振って見送ってくれ、僕はドアを開けて蒸し暑い空気の方へ足を進めた。

セミがうるさく鳴いていた。夏日がギラリと差し込む空の下を僕は往く。





 この日、散髪屋にちょっとした衝撃が走った。いつもなら「普通な感じで」としか言わない常連が「少し髪が立つ位でいい感じにしてください」と言ってきたのだ。

決して上手い注文ではないがそれでも注文を付けてきたのに変わりはなかった。散髪屋の話題はその常連の変化の理由で持ち切りだったという。





「ただいま~。かぐや、髪型どうかな?」

「中々似合ってるんじゃないですか?」

「そう? それは良かった」


初めてこんな髪の切り方をしてもらったので正直な所、不安だったのだがかぐやが『似合ってる』と言ってくれたことでひとまずは安心することができた。

不安でしょうがなくて散髪屋を出てから髪をいじくり続けていたのを、通行人に変な目で見られたことは今となってはどうでも良い。



 この後、特にどこに行くでもなく、ただかぐやと談笑をして一日が終わった。普通の人からすればこれが日常なのかもしれないが、ずっと一人だった僕からしてみれば非日常で、この上なく楽しかった。

何だかんだでこんな風に笑いあってかぐやとたわいもない会話をしたのは、初めてだ。


途中、「なんで、建は建じぃって呼ばれてるんですか?」とかぐやに聞かれた。


それは小学四年生の夏のことだ。僕がぎっくり腰になった時に腰を曲げて、落ちていた木の棒を杖にして歩いているのを見たとおちゃんが「お爺さんみたい。今日から、建じぃだ」と言ったのがすべての始まりだった。

とおちゃんには建じぃというのがハマったらしく、以後僕は建じぃと呼ばれるようになった。


別に面白くも何ともない話だが、かぐやは笑っていた。やっぱり人のツボは分からないものだ。


 やがて、日は沈み外は闇へと落ちていった。喋ったり、ご飯を食べたり、喋ったり、風呂に入ったり、喋ったりしているといつの間にか十一時も過ぎていたので布団を敷いてそこに寝た。

明日また喋れるはずなのに寂しさがある。この独特の寂しさを感じたのは、高二の夏休みにとおちゃんと一日中遊んでから帰宅する時以来だった。無性に切なくなってしまうのだ。


「建、寂しそうだから、抱き枕にしてあげますね」


とかぐやが僕に手を回してくる。相変わらず慣れない。僕からは寂しさが滲み出ていたのだろうか? だとしたら恥ずかしい。

取り敢えず、僕は誤魔化した。僕の良い癖であり、悪い癖だ。


「寂しそうとか関係なく、絶対抱き枕にしてるよね?」

「うん。でも建だって髪切って、お風呂長く入って準備万端状態だったし……」

「し、知ってたんだ……」

「なんだかんだで建も嬉しそうで良かったです」

「い、いや別に嬉しくないよ。あ、嬉しくないって言うのはその……、変な意味では嬉しくないってことで……」


嬉しくないと言うと語弊があるので急いで言い直したが、我ながら何を言いたいのか……。何だよ『変な意味』って。


「建……焦りすぎですよ?」

「……」


怒涛のかぐやラッシュに脳がついていけない。

僕が黙っていると、かぐやは新しい話を振ってきた。


「そだ! 言おうと思ってたんだけど今日から日記書こうと思ってて。今度シャーペンと日記帳買いに行きたいんですけど。いいですか?」


まずは驚いた。それから、どうしようもなく喜びが溢れ出る。かぐやがこれがほしいと言ったことはほとんど無かった。かぐやが僕に欲しいと言ってくれたのは布団とたこ焼きだけだ。

だから、こうして欲しいものを言ってくれたのは嬉しかった。なんだかかぐやに近づけた気がする。


「いいと思う。明日は無理そうだけど、近いうちに行く?」

「はい! ありがとです! 楽しみにしてますね!」


かぐやは弾けたように言う。まるで炭酸水のようだった。本当に。

このまま続くと心臓酷使になる。そろそろ寝ることにした。


「じゃあ、おやすみ、かぐや。また明日」

「うん。おやすみです、建」


そういや明日は会社に行くんだ。どんな人たちなんだろう。HPでそれぞれの自己紹介はバカみたいに確認したけれど……。やっぱり緊張する。

挨拶とかどうしようか。その場でアドリブなんて絶対できない。考えていっても頭真っ白になりそうなのに。



 その後、僕は苦戦したものの夜一時頃には眠りにつくことができた。これは僕とかぐやとの距離感が少し縮まったからなのか、それとも単に昨晩眠れなかった故の眠気からなのか。

僕は前者であることを願った。

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