第8話 ウサギでも分かるフワフワ卵焼き講座!

チッ チッと規則的に音を鳴らす腕時計は午前五時も回るところを指していた。

そろそろ始発の出る時間だ。部屋も五時頃までだったのだからそろそろ出なければならない。

優しく可愛く寝息を立てているかぐやを起こすのは気が引けるがこの際仕方がないだろう。

たっぷり五分程悩んだ後にかぐやの肩を揺らして起こそうとした。


「起きて。そろそろ出ないといけない時間だよ?」

「ん~~、おはよ……」


かぐやから声が返ってきたのだが寝ぼけているようで全然起きようとしない。耳元から眠そうな声が聞こえてきた。


やっと五時になった。

昨晩、僕がかぐやに「おやすみ」と言った後、かぐやはすぐに眠りについた。かぐやはこの状況が良かったのかもしれないが僕にはまるで駄目だ。

文字通り一睡もできていない。そのかわりに目の下にクマができてる。

僕みたいな奴があの状況で寝れる方がおかしいだろう。

取り敢えず、今は何としてもかぐやを起こさなければいけない。だが、起きる様子も無く予約終了時間まで残り一分を切ろうとしていた。変に手は出せない。

これが男友達なら今頃、体の上に飛び乗っている所だ。

一応解決策は浮かんでるけれど……。

やりたくなかった。なにより、恥ずかしい。

でも仕方ない。追加料金だけは勘弁だ。


僕はかぐやの手を僕から優しく取っていく。

それからかぐやを背中に乗せ、かぐやの手を首に回し、僕はかぐやの足を持った。

世にいうおんぶである。

恥ずかしいのは当たり前だが、他の人から月島さんの姿は見えてないということが唯一の救いだった。

耳元にかぐやの寝息が当たる。背中を通してかぐやの暖かさと柔らかさが伝わってきた。今、僕の体温を計ったら四十度は優に超えていそうだ。

このまま駅まで耐えられのか心配で仕方がない。これでは、どこかで溶けてしまうかもしれない。


 チェックアウト中、店員さんがまたもや僕を変な目で見てきた。

背中に乗っているかぐやは店員からは見えていないのだから、僕は一人変にかがんで後ろの中途半端な位置に手をやっていることになっている。その上、顔を赤らめているのだから不審以外の何物でもないだろう。

不審の擬態物と言っても過言では無いのかもしれない。変な目で見るのも当たり前だ。

僕はその目から逃げるように店を後にした。

明るくなり始めた街に出てからも少しは人の目を気にしながら進む。

なるべく人目に付かないように歩いていると背中から声が聞こえてきた。


「ん~~、なんかうるさい。建、おはよ……」


起きてしまった。この状況で起きてしまうとは、神様に慈悲というものは無いらしい。


「お、おはよ」

「ここどこですか? え!? なんで建におんぶされてるんです!?」


かぐやはやっとしっかり目を覚ましたようで、今の状況を飲み込んだようだった。驚いてあたふたしている様子が背中から伝わってくる。

僕はというと冷静さを醸し出しつつ固まっている口をなんとか動かした。喋るだけで一苦労だ。


「えっと……部屋出ないといけない時間になって……かぐやを起こしてみたんだけど起きなかったからこうして駅に……」

「叩くかなんかして起こしたら良かったんですよ……? す、すいません……」


かぐやを叩くなどできる訳も無い。揺らすだけでもかなり緊張したのだ。

かぐやは赤くなった顔を僕の肩に押し付けると、しっかりと僕を掴んできた。恥ずかしいのに更に押し付けてくるという矛盾。僕はなんとか耐えているというのにそれを全力で壊しに来ている。

けれども、かぐやの照れているその様子が本当に愛おしい。ここまでの可愛さをこの世界で僕だけが知っているというのはどこか無性に嬉しくなってしまったりする。


「こ、こちらこそごめん。どうしよ……ここで降ろしたらいいかな?」

「えっと……子供っぽいお願いで恥ずかしいんですけど……。安心できるから建が良ければこのまま駅まで行きたいです……」


半分、僕の服に顔をうずめながらかぐやは言ってくる。まさかかぐやからお願いしてくるとは思わなかった。

かぐやは案外、甘えん坊なのかもしれない。そうであるならば、それは僕にとって朗報だ。

僕も恥ずかしいけれど断る程でもない気がした。一生に一度あるか無いかの経験だ。

あと、僕はこういうのには流されやすい。

ともかく断るなんて選択肢はなかった。


「も、もちろん。それでも全然良いよ」

「ありがとです」


僕は水彩画のような優しい世界に囲まれているように感じる。こんな世界を僕がまだ作り出せるということは知らなかった。はるか昔、幼少期のころにしか作れない雰囲気だと思っていた。


 二子玉川の改札を通り、朝日に煌めく多摩川を横目に見ながら電車に乗ると、乗客はまだまばらな状態だった。

走り始めた電車の中を電柱の影が走っていき、差し込む光は誰もいない椅子を淡く照らしている。

ほとんど二人きりの車両の中、かぐやは僕の肩に体を預けて再び寝始める。僕はジッと車窓を眺めていたがそれも直ぐにトンネルに入って単調になってしまった。





 そろそろ、水天宮前駅にも着くという頃、まだ寝ているかぐやを起こそうと体を優しく揺さぶってみたのだが起きる様子は無かった。かぐやが言うように叩いて起こすわけにもいかない。

再びかぐやをおんぶするのは躊躇ためらわれるがそれ以外方法がない。一回経験したものだから、僕の中ののハードルは少しばかり低くなっていた。

僕は周りを気にしながらかぐやをおんぶすると電車から降り、駅から出る。

もう六時ほどになり都会は目を覚ましかけていた。人や車は動きだし都会の鳴き声が控えめに響き渡る。いつもならその様子に滅入ってしまうのだが、今は優しい世界に包み込まれて、それほどまでに気になることは無かった。

 木造アパートに着いた頃には都会の鳴き声も遠く聞こえるようになっていた。アパートの前のコンビニにはサラリーマンらしい人たちが集まっている。

そんな人を横目に僕はアパートの中に入った。

昨日は一睡もできなかったのだからせめて一時間位は寝ようか。

部屋に入ってからかぐやを寝転がせて毛布を掛けておくと、僕はその場に寝っ転がる。かぐやの顔を目の前にしては寝れないので、二十センチ程離れて、かぐやとは逆方向を向く。

もっと離れても良かったんだけどその前に床に倒れ込んでしまった。そのくらい気力が無かったのだ。やがて視界は闇に落ちていった。




 ふと目を覚まして視界に入ってきたデジタル時計は午前七時頃を表示していた。疲れていたからもっと寝ると思っていたのだけれど、設定していた目覚ましよりも早く起きてしまったらしい。

そして何故だかかぐやの抱き枕になっている。二十センチ程離れたのだが寄ってきたらしい。やっぱり、気力を振り絞ってでももっと離れるべきだったか。

顔が赤くなっていくのが自分でもよく分かった。

今朝からかぐやがよく詰め寄ってくる。毎日この調子だと、心拍数が高すぎて寿命が縮まりそうだ。


「お! 建、おはよなのです」


かぐやのささやくような声が耳元から聞こえてきた。もうこんなことはなんてことないくらいに僕の感覚はおかしくなっている。


「おはよ。それで何でこんな感じに……?」

「気づいたらこうなってて……。ダメですか?」


気づいたらってなんだろうか。それが本当なら寝相が凄いことになっている。

でもダメなど言える訳がない。その聞き方はやっぱりズルい。


「大丈夫……だよ。でも、そろそろ起きないといけないから……」

「そうですね。すいません」


かぐやは僕から流れるように手を離すと立ち上がった。そして続ける。


「それにしてもネカフェって所で全然眠れてなさそうでしたけど……。もしかしてあんな感じで眠るの初めてでしたか? 私も初めてなんですけど」


かぐやが普通の様子で聞いてくる。別段からかっている様子は無いのだが、図星を突かれてしまったこともあり動揺した。

もしかして、かぐやは隠れ小悪魔系なのか?


「なっ! 耳元で寝息とか恥ずかしくて、女の人の隣で寝るのが初めてで無くても眠れるわけないじゃん! か……かぐやさんは鈍すぎ! 心配なレベルだよ!」

「なんの話ですか? 狭くて座った状態だったけれどって話ですよ?」

「え、あぁ……うん……」


かぐやの戸惑っているような表情が恥ずかしい。

でも僕は悪くないだろう。そういう質問だと思うのは当然のはずだ。いや、違うのか?


「私の寝息とかが恥ずかしかったんですか?」

「いや……まぁ……」

「なんだかちょっと得をした気分です」

「なにが⁉ そもそも寝れるのが凄いんだって」

「そうなんですか? 安心できて良いと思うんですけど?」

「もしかして経験過多?」

「いや、初めてです」

「ホントに?」

「ホントです。私、そんなに『軽い人』に見えますか?」


確かに体重は軽かったが今聞かれているのはそういうことでは無い。


「いや、見えない。ただあまりに普通っぽくするから」

「そうですね……建には家族みたいな懐かしい感じがあるからかもしれません」


かぐやは台所に入り少し高い棚からフライパンを取り出そうと背伸びしている。僕も立ち上がり台所へと向かう。

懐かしいというのは同感だ。僕から見てもかぐやはどこか懐かしかった。

おそらく、両者ともに家族と一緒に過ごせていないのだから心のどこかで家族を欲しているのだろう。その思いがこの懐かしさを生んでいるんだと思う。

ただ、僕の場合はその懐かしさよりも本能的な恥ずかしさが上回ってしまっているらしかった。

僕はフライパンを取ってかぐやに渡す。


「ありがとです。それじゃあ建はそこの丸い机で待っててください」

「料理なら僕がするよ?」

「だめです! 建は料理上手すぎます! このままだと私がただの欠陥品です」


かぐやは欠陥品なんかじゃない。むしろ高性能だ。

あと料理が上手いって言ってもらえたのは普通に嬉しい。自分自身は人並み程度だと思っていたけれど実はできるのだろうか、なんて無駄な期待をしたりする。


「かぐやは料理以外でも色々できるからダメダメじゃないよ」

「色々って何ですか? あと『かぐや』って言えましたね」


それを指摘するのはダメだ。確かネカフェでもこんなことがあった。言われると恥ずかしいやつだ。

ここはとにかく話を逸らそう。奥義、ハナシソラース発動だ。


「そ……そうだね。言えた……。それで色々っていうn──」

「誤魔化さないでください」


見事にハナシソラースは失敗した。奥義ってなんなのか。

いずれこれも慣れる日が来る。その日まで気長に待とう。


「は、はい。それで何作るの?」

「ん~。卵焼き作ろうと思ってます」


かぐやは卵焼きの材料を取り出そうとしているのか冷蔵庫を開ける。だが、かぐやが取り出したのは想定外のものだった。思わず目が飛び出そうになる。


「か……かぐや。それ何に使うんだ?」

「え? 卵焼き作るって言いましたよね? 卵焼きの材料ですよ。建は卵焼きの材料も分からないのですか?」


いやいやいやいや!

僕には、その材料の中に魚とかいちごが見えるんだが……。

とんだブーメランだぞ!? 幻覚だよな? 頼む幻覚であってくれ!


「待ってくれ……。それ食べるのか?」

「はい。これを入れるとおいしいのです」

「分かった。分かったから何も言わずに作るの僕に代わってくれ」


このままだと僕の口が死亡する未来しか見えない。材料が常識の範囲外だ。

かぐやはパイに魚の頭を突き刺すことで有名なイギリス料理を再現するつもりなのだろうか。


「いいですよ。私一人でちゃんとできますから、建は机で待っててください」

「いや……その。……僕、毎朝料理しないと気が済まないんだよ」


もちろん嘘だ。一人の時は面倒くさくてコンビニの物で済ませたこともあるほどだ。

でもストレートには言えないので理由を作って逃げておく。このままだとかぐや自身も被害者だ。

フグは自分の毒を食べても死なない理論は通らないだろう。ここは自分の臭さで気絶するカメムシ理論だ。


「建がそう言うなら……。じゃあ料理のコツ、私に教えてください。見せてくれるだけでもいいです」

「うん。じゃあ卵焼き、作るか」

「はい! ありがとです!」


かぐやにはせめて常識のある料理をしてもらいたかった。

かぐやには所々の常識が欠けている。特に今回ばかりは月から来たからで済まされるものではないだろう。まさか、月の世界と地球の世界で味の感じかたが全く違うなんてこともあるまい。


「じゃあまず卵を割ります」

「お~。凄い上手いですね~。パッ、パキ、ポトンって感じです」

「そ……そう? じゃあもう一個いるから、かぐや割ってみる?」

「で……できるかな?」


そう言いながらかぐやは卵を手に取った。かぐやは卵に最小限の力を加えると流れ出てきた黄身をボウルにきれいに落とす。

僕の知る限り最も芸術的な卵割りを見た気がする。これは実際に見てみないと分からないものだ。


「か……かぐや。上手すぎないか?」

「そうですか? ありがとです。それで白身もここに入れていいですか?」

「え!? どういうこと?」


かぐやは僕に卵の殻を見せてきた。中には白身が入っている。卵を割る過程の中で白身と黄身を分けていたとでもいうのだろうか。


「あぁ……。入れていいよ」

「なんだ~。じゃあ分ける必要なかったじゃないですか」


かぐやは不服そうに頬を膨らました。


 こんな調子でかぐやには卵焼きを教えた。なんやかんやで、完成した卵焼きは味はちょうどいい感じだし、フワフワしているので満足だ。

卵焼きだけという寂しすぎる朝食はあっという間に食べ終わってしまった。おそらく、五分も経っていないだろう。


「ごちそうさま。おいしかったです」

「そっか。ありがと」

「そうだ! 思い出したんですけど結局女子と眠るのって初めてだったのですか?」


思い出さなくても良かったのに……。月島さんの年齢なら初めてだと言っても普通なのだが、僕くらいになって初めてなどと言うとネタにされてしまいそうだ。

しかし変に嘘を付く気にもなれない。ここで意地を張るのは虚しい気がした。


「えっと……その……まぁ、初めてかな……」

「そうですか。じゃあ初めてが私なんですね。なんか嬉しいです」


かぐやが笑いかけてきた。かわいいの一言に尽きる。さっきまでからかわれるかもと疑っていた自分に罪悪感がつのった。

 ふと、かぐやが少し青ざめたような表情で言ってきた。


「今、思ったんですけど、建バイト大丈夫ですか?」

「あぁ。今日は十時からのシフトだから、九時四十分に出たら間に合うし大丈夫だよ」

「それは知ってます。今日金曜だからシフト十時から八時ですよね。もう十時も回りそうってことに今気づいたから、今日は時間違うのかなと思ったんですけど……それだと普通にヤバイですよ……?」

「なっ……」


僕がとっさに時計の方を振り向くと、時計は午前九時五十八分を表示していた。

体感ではそれ程経っていないという気分だった。いつもと時間の進みかたが違ったらしい。僕の顔から血の気が引いていく。

いつの間に三時間も経っていたのか?

一番に思いついたのが『タイムマシーンがあれば』だったというのは馬鹿らしい話だ。


バイト先は遅刻するとその後一週間は強制残業になってしまう。前までは家では特にすることもなかったので進んで残業をしていた程だが、今は違う。かぐやと過ごす時間が削られるのはごめんだ。


ここで一つ名案、いや妙案とでも言うべきか一つの案が頭の中に浮かんできた。

かぐやに会ってからいつかはこうすることになるだろうと考えていたのだから今回がたまたまきっかけになっただけかもしれない。

今のブラック状態だとかぐやを養うのは到底難しい話だ。


「かぐや……」

「ん? どうしました? なんか真剣っぽいけど……。もっと早く気づけばよかったのに……。ごめんなさい」

「いや、かぐやは全然悪くないし僕の責任だよ。それでさ……僕、バイト辞めようと思って」

「うん。…………え?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます