星に住われし君と僕

みんみん

第一章 七月は少女との出会いから

第1話 夢と現実

「助けて、助けて、ここはどこ」

 

いつからだろうか? かすれた声がずっと聞こえている。

 

僕は丈の高い草むらの中で一人立っていた。声は耳から聞こえてくるのではなくて頭の中で直接響く。SF映画とかでよくある脳内に語り掛けてくるやつだ。

まるで現実離れしたことが起こっているのに僕はなにも不思議に思わなかった。特にそれ以上の進展もないまま、時は過ぎていく。やがて朝日がのぼり……

 

 すると、景色は一変して見なれた天井が目に入った。白一色にUFOのような蛍光灯が浮かんでいる。

 

「夢か……」   

 

思わずそんな言葉が口から漏れる。

変わった夢だった。ここの所、バイトが忙しく疲れていたとはいえど……。相当疲れてるんだろうか。

実感はあんまり無い。ただまぁ、こういうのは自分が疲れているのには気付かないで、頑張って倒れるものらしい。

なんとなく、頭が痛い気がしてきた。

あ~あ、つまらない生活だ。

そんなことを嘆きながら、一人せわしく動いてバイトに行く準備をする。狭い部屋にうるさい生活音が響く。

十分位経ってから勢いよくドアを開け、おんぼろ木造のアパートから駅へと向かって走った。

 

電車は通勤ラッシュ時ということもあり満員だ。いつものことではあるけれどやっぱり慣れない。

僕は多分、この東京という街には合わない類の人間だろう。朝から真夏に見知らぬ人とおしくらまんじゅうなんて楽しくない。

 

バイトに行く。

 

今の僕にはすべてが悲観的に見えてしまう。

大学は二年浪人したものの入れなかったからだろう。家族とは決別してしまった。

決別というか僕が逃げてきただけだけれど。今更あの人たちに合わす顔なんてないのだから。

僕が悪いだなんていう正論は聞きたくない。きっとあいつらだって僕のことをなんとも思っちゃいないんだ。

とにかく、今の人生は全てが機械的で生きがいの『イ』の字もなかった。こんな人生ならいっそのこと……

 

「上野~、上野~」

 

冷たいアナウンスに続きドアが開いた。僕は反射的にホームに降りる。

陽炎が揺れる街の中を横切り、バイトに向かった。バイト先についてからはBotみたいにずっと同じようなことを考えていた。

こんな日々からの抜け出し方を知りたい。

今の僕は他人が嫌いだ。だから、バイト先であろうが極力人とは喋らないし関わりもしない。今日だって喋ったのはせいぜい分単位だろう。

 

 

 時間に身をまかせたまま、おんぼろ木造アパートに着く頃には腕時計が十時も回る所を指していた。

すべてが無気力だ。見えるものすべてが単色に思える。

そのまま軽食をとって床についた。堕ちゆく世界で僕は願う。

この日々を変える何かが欲しい。

 

 

 

 

 

あの変な夢を見始めてから一週間。

僕は寝てから起きるまで、ずっとあの夢を見続けた。

日がたつにつれ朝日がのぼってきた後の夢の世界も見られるようになった。

夢の続きを見るのは不可能だとどこかで聞いたことがあるのだけど。やっぱり疲れてるのかな。そういえば、頭も痛い。

ただ、新しく分かったことがある。夢の世界は意外にも町中にあるようだ。目線の先には橋桁が青の鉄橋がかかっていた。その鉄橋にはどこか懐かしさがある。

 

 

 それは三日後、夕食の準備をしている時のことだった。夢の場所が何なのか僕の記憶図書館からストンと落ちてきた。

べつにきっかけがあったわけじゃない。卵を割っていたら思いついただけだ。

 

 

 僕がまだ十二歳のとき。まだやんちゃだった僕は訳も無く、一人で町に出ていってしまった。誰だって冒険は好きだったろう。多分、そんな感じだ。

川沿いに歩いていった僕だけど、いつの間にか見たことも無い所まで来ていた。日も沈みかけている。

僕は遂に丈の高い草むらで足が止まって泣きに泣いた。「助けて、助けて、ここはどこ」って叫んだりもしたっけ。

当時の僕は怖がりだ。ちょっと薄暗くなってきた空が恐ろしかったんだと思う。

やがて、日がのぼると母から捜索願を受け取った警察官が見つけて助けてくれた。

要するに一晩中草むらに座り込んでいた訳だ。

 

そんな話。僕はなんでこんな重大事件を忘れていたんだろう。三歳とかだったらまだしも十二歳のときの話だ。やっぱり僕はバカだった。

そんなバカな僕は、夢で見たあの丈の高い草むらに何かがあるんじゃないか、なんて考えた。

きっと何かがあってほしかったんだと思う。僕は現状を変えられるものに飢えていた。それで遂には夢にまで希望を持たせた。多分本当に疲れていたんだろう。

夢の場所、すなわち僕の迷った草むらっていうのはどこのことだろうか。

当時まだ十二歳だったし、そんなに遠くまでは歩いていけないはずだ。

当時の家の近所で大自然スポットっていったら多摩川と等々力渓谷くらいしか思い当たらない。

渓谷じゃ無かったとは思う。となりゃあ多摩川の河川敷か。そこなら橋があって草むらもある。

けれど、場所も思い出せない僕ってホントに……。いや、どうせやる事もない毎日なのでこれはこれで楽しい。

 

 

 

 

 

七月二十一日(土)

 

 久し振りにバイト先から休日をもらう。

 

 普段なら休みの日はやる事もなくごろごろして虚しく過ごしている所だが、この日は朝から外出していた。理由はもちろんあの場所を探すためだ。

小さいころから冒険心だけは強かった。変な冒険心が僕を本能のままに突き動かす。

とはいえ僕は方向音痴が酷い。暫く行っていない当時の家を見つけたときにはもう三時を回っていた。

そこから休憩をはさみ、多摩川の河川敷を歩いていく。

それにしても今日は調子が悪い。不意に頭痛が襲ってくるのだ。最近、頭痛が増えた気がする。病院は面倒くさいので行っていない。

とにかく頭痛の度に、遊びまわる子供の声が聞こえてくる中で河川敷に寝っ転がっていた。これじゃあ一時間に一キロが良いほうだろうか。

 

 

 

かなり歩いた。

すっかり日も沈んだ午後八時半、ふいに頭の中から「助けて、助けて、ここはどこ」と聞こえてきた。

起きていてこれが聞こえたのは初めてだ。ちょっと焦る。不思議と怖いとは思わない。今の僕ならとっくに暗くなった空だって怖くなかった。

ここの近くになにかあるのかと見わたす。少し遠くに、あの橋桁が青の鉄橋が架かっていた。下には丈の高い草むら。

夢の場所だ。希望も湧いた。本当に何かあるかもしれない。そんな思いが僕の心を躍らせる。

対岸で揺れる控えめなビルの灯と、それに煌めく川の水面は幻想的に見える。ふと見た腕時計はほんわりと優しい光に包まれている。恐らく、月光か街の灯りの反射なのだろうがその光が僕をより一層、幻想的な世界へと引き込ませた。

ふとその草むらの丁度真ん中になにかが光った気がした。やっぱり何かあるのでは。もしかしたらそれが夢と関係あるかもしれない。

緊張しながら草をかき分けて進んでいく。草むらから聞こえてくる虫の鳴き声が更に緊張を引き立てた。

数十秒くらい歩いたか。目の前に黒い影が見えてくる。最初は何だか分からなかったが直ぐに目の前の影の正体を理解した。

 

「あっ……」

 

思わず声が出てしまった。そこには人がうずくまっていたのだ。髪が長いあたり女の人なのだろう。

なんで、ここに人が。夢と関係あるのか。そもそも生きているのか。

まず怖さ、次に色々な疑問と不安がいりまじる。

と、顔が動いたような気がした。じっと見ていると、手が動いたり、肩が動いたり。生きているようだ。ひとまずは安堵する。これが死体だったりしたらそれは一生もののトラウマだ。

ただ生きているとて油断は禁物。相手が何をしてくるかなんて予想もつかない。向こうは僕に気づいていないようだった。

僕はそのにひとまず声をかけることにする。

なぜだろう。逃げようとは思わなかった。良心からでも責任感からでもなく、本能のようなものだ。きっと誰だってこうなるに違いない。

 

「大丈夫?」

 

僕は赤ちゃんに呼びかけるようにそっとその娘に声をかける。しかし、その娘は驚いた表情で僕を見てから腰を抜かし、それから、震えた声で言った。

 

「ひっ……! 許して下さい! 命だけはお許しください!!」

 

顔は暗くてよく見えないが、涙でぐちゃぐちゃになっているであろうことは分かる。まるでボロボロだった。

とんでもないことがこの娘に降りかかったらしいというのは見て取れる。僕は現実でこれほどの人を見たことがない。

いくら突然だったとはいえ、普通はそこまでのことじゃないはずだ。ここまで怯えられると、なんだか悪いことをしている気分になった。

なにかからの逃亡者かもしれない。あんまり関わらない方が良いんじゃないかとも思ったが、今更ほっとくことなど出来なかった。

優しく、「僕がそんなに怖い?」と聞いた。この場面でこれを聞くのが正解かは分からない。

間違っているだろうか。

僕だって相当テンパってたんだから。

その娘は大きくかぶりを振って僕に返事をする。内心、僕を怖がっていることはすぐに分かった。

取り敢えず落ち着かせよう。僕も黙って女の子の近くに座る。遠くから街の声が聞こえてきた。これからどうしようか。まず放置は無いとして。

警察?

連れて帰る?

このまま連れて帰ったら、誘拐罪とかで捕まって、人生終了のお知らせ通知が来そうな予感がする。

それだけはマズイ。高卒に逮捕歴だなんていう最低の肩書きが出来上がってしまう。

それに、よほどの事情がない限りこの娘も親族に見てもらった方が安心するだろう。まぁ、そのよほどの事情があってもおかしくないような状態なのだが。

でも僕は自分の人生を投げて初対面の人を助けるほど良くできてない。親族となんかあってこうなったとしても僕にはどうすることもできない。まぁ酷かったら酷かったで児童施設かなんかに入るだろう。

この娘とは夢に導かれて会うことができたのだから、僕となにかしらがあるのかもしれない。あるいはただの偶然か。

どちらにせよ、僕はこの娘のために自分の身を投じるなんてことはしない。僕の中で夢の力はその程度の物だった。

夢で見た場所に来たのも暇つぶしにすぎない。本当になにかがあると思って来たわけじゃなかった。冗談半分だったのだ。

なんだか罪悪感みたいなのはあるけれど……仕方ない。未成年者誘拐罪っていう法律が無かったら少しは泊めてたかもしれない。

言っておくが、変なことをしようだなんてのは微塵も思っていない。あんな薄い本みたいな展開、現実じゃあり得ないんだから。

まぁこう思ったのは変な話、罪滅ぼし的ななにかからだろう。

 

草むらの中、二人座った状態で僕はスマホで近くの交番を調べる。河川敷は暗いからスマホの画面がやけに眩しい。幸い歩いて数分の所に交番があった。

僕から数メートル、距離を置いて座っている彼女には来てもらわなければならないのだが、そう簡単についてくるか不安だ。

けど、僕が立ち上がるとその娘も立ち上がった。

それからも意外と抵抗なくついてくる。

さっきの勢いなら狂気に陥って僕が殺されてもおかしくなかったのに。

訳の分からない草むらに居るよりはマシとでも思ったのだろうか。

交番は駅前にあるということもあり都会の喧騒が続いていた。さっきまで静寂に包まれた河川敷に居たことが、より一層そのざわめきを強めているのだろう。

僕はこのうるささが彼女を不安にしてしまうのではないかと心配したが、彼女は別段気にしている様子もない。さっきはあんなにビックリしていたのに。まるで何も聞こえていないようだ。

視界に入ってきた交番は無理に建てたことが分かる小ささだがモダンのデザインが街を彩っているように思えた。

僕は交番の中を覗くように見た後、ゆっくりと中に入っていく。第一声は交番のお兄さんだった。

 

「どうかされましたか?」

「迷子の娘を先程河川敷で見つけたもので……。それで交番に……」

「なるほど。今その子はどこに?」

 

ん? 見えないのか?

僕が思わず後ろを振り向くと交番の外で彼女は壁にもたれかかっている。警察官の角度からは見えないのだろうか。

 

「交番の外に居ますよ」

「そうなのですか。ところで河川敷っていうのは?」

「えっと、多摩川二子橋たまがわふたこばし公園です」

「あ~、なるほど。あそこは広いし子供の遊び場だから迷子が多くてですね……。多分直ぐ解決するでしょう」

 

警察官は外へ出る準備をしながら言う。そうだといいのだが……。

さっきは他になんて言えばいいのか分からなかったから「迷子」と言ったが、あの感じは迷子ではない気がする。

それに彼女の見た目は十五歳ほどだ。迷子する年齢でもなかろう。僕じゃあるまいし。

 

「よし! 取り敢えずその子を見せてください」

「はい、分かりました」

 

僕は交番から出ると彼女に目を向けた。彼女は魂が抜かれたようにボーっとしている。目の前に警察官が来たことにも気付いていない。

警察に見てもらうのだから無事に解決するだろう、そう思い込んでいた。

 

「それで、その子はどこですか?」

 

警察官から信じられない言葉が飛び出してきた。しかも真面目な顔で聞いてくる。

この状態なら目の前の壁にもたれている娘と直ぐに分かるはずだ。

確認なのだろうか? ちょっと困惑の色をのせて答える。

 

「えっと……、今まさに目の前で壁にもたれているこの娘です……」

 

警察官の顔が厳しくなる。何を言ってるんだこいつは、とでも言いたげな感じだ。

その思いをそっくりそのまま返してやりたい。これで分からないなんて近視どころの話じゃないぞ。

 

「私には壁しか見えないのですが……」

「なっ……! 冗談ですよね? 目の前に居るんですよ……」

 

全身に冷たい汗が流れた。

流石に冗談だと思っていた。

今、この状況が信じられない。

彼女は確実に警察官の視界に入っているというのに、見えないなんてことは無いだろう。でも警察官は真面目に言っているようで僕に疑いの視線を向けている。

あり得ないのにたちの悪いドッキリであることを願う。そうでもなければこの現象に説明をつけることはできないのだ。

ただ、そんな様子も無いままに事は進んでいく。何故こいつはこの娘を無視するんだ。

 

「はぁ~。つまらない、いたずらは止めなさい。今回は注意だけで済むけど職務執行妨害で捕まることもあるんだから」

 

警察官は厳しい顔をすると口調を変えて言ってきた。ただただ驚いた。それでしかない。

 

「嘘……だろ?」

 

そうであることを願う。

こんなことなどあるはずが無い! いや、あってたまるか! 全部デタラメだろ?

しかし改めて警察官を見ても嘘を付いたようには到底見えない。顔が本気の顔だ。

まるでこの娘を見えてないように扱う警官に苛立ちを覚えた。

けれど、これ以上突っ込んでいくのは止めておく。これ以上しつこいと本当に捕まりそうだし、何より早くこの状況から逃げたかった。

いいさ、そっちがその気なら僕がこの娘を保護してやる。これは警察が悪いんだ。捕まっても納得できない。交番の防犯カメラでも見たらすぐに悪い方なんて分かるだろう。

 

「すいません。それでは」

 

僕は俯きながら平謝りをする。そうして、彼女を引き連れてつかつかと駅の方へと向かった。警察官は「とんだ迷惑だ」などとブツブツ言いながら交番の中に戻っていく。

まるで意味が分からない。なんでこんなにも無視されたのか。少し不安になった。

他の人も無視するんだとしたら……。それがこの娘があんなに泣いていた理由なんじゃないか。

そんな訳ない。そんなことあり得ない。そうだ。確認すればいいじゃないか。

そう思ったら居ても立っても居られなかった。僕は通行人に「この娘のこと見えますか?」と聞くことにした。はたから見れば変人にしか見えないだろうけど、今はそんな事はどうでも良かった。

何故だろう。

僕は会ってから、まだ一時間程しか経っていない彼女をどうしても守りたくなった。彼女の不安を消し飛ばしてやりたくなった。

これは僕の中に隠れていた良心が目覚めたとかじゃない。隣に儚くてひびだらけの女の子がいる以外はいつも通りの僕だ。

 

 結果から言えば、収穫はゼロだった。数十人に聞いたと思うが、誰一人として見えているという人はいないし、相手にされないのが大半だった。

終いには駅で切符を二枚買ったときに駅員から「切符は一枚で良いですよ」と言われた。

この娘はまるで皆から認識されていなかった。

一つの考えが頭をよぎる。この娘はいわば透明人間なんじゃないか。それが何故か僕には見える。

そうとしか思えなくなってきた。いくら無視をしようとしても流石にあそこまで出来る訳が無いだろう。

僕には、はなからいないように言っているとしか思えなかった。あまりに不可思議だ。目の前では物理法則なんて消えていた。

あるいは全てが僕の幻聴・幻覚なのかもしれない。疲れすぎておかしくなったのかもしれない。

ただ、そう思いたくなんてなかった。目の前の彼女の存在を信じたい。なぜだか僕はこの娘に親近感が湧いたのだ。もしかしたら僕たちは境遇が似ているのかもしれない。

人に興味を持ったことなんて久しかった。今の生活を変えたいという願いがまさに叶えられる。警察に無視されたのは案外良かったのだろうか。

 

彼女は河川敷で驚かれてから一切口を開いていないが、この事態に恐怖しているに違いなかった。なんせ泣きそうな顔をしている。彼女の怖気をこれ以上募らせないためにも早々に帰ることにした。

実のところ、彼女を連れて帰るのは少し不安ではあった。警察に捕まる心配は無いとはいえ、彼女自身がなんなのか僕には分からない。もしかしたら幽霊かもしれない。

ただ、それでも僕は彼女を放っておけなかったのだ。か弱そうな十五歳ほどの女子を一人、置き去りにするなんて僕にはできない。

彼女の今の様子はあまりに特殊だし、僕以外には見えてすらないのかもしれないんだから僕が助けるほかない。

それにしても彼女は一切の抵抗も見せずに付いてくる。ここまでだと逆にこちらから警戒してしまう。知らないけど、「あなたは誰ですか?」とか何とか言ってくるものなのでは無いのだろうか。

まだ名前も何も知らないのだが……とても聞けるような状況ではない。ピーンと空気が張っていてかなり気まずい。コミュ障の僕にはいささか厳しい空間だ。

 

 

 

 電車に揺られること約三十五分、水天宮前すいてんぐうまえ駅で降りると、真っ直ぐアパートの方へと向かった。

駅前こそ騒々しかったものの、暫く進むと丁度いい街灯の灯りと共に僕たちは閑静な住宅街へと吸い込まれていく。時々、遠くから聞こえる車の音がその静かさを更に際立たせていた。

 アパートについてからも、特に何もしゃべらないまま、二人床の間につく。

部屋が闇につつまれると、彼女はすすり泣き始めた。

少しは安心したのか、それとも今この状況が怖いのか、もしくはその両方なのか。僕には分からない。

僕に出来ることはせいぜい「大丈夫」と根拠の無い言葉をかけ続けるだけだ。

恐らく彼女自身も自分の身に何が起きているのか全く分かっていないのだろう。

人から見られなくなることなど想像するだけでも嫌気が指す。僕でもそれなのに、まだ十代も半ばに見える女子に掛かる恐怖は計り知れない。

 

 

 

 とにかく目の前では大変なことが起こっていた。なにからどうすればいいのかが分からない。取り敢えず、明日に名前でも聞こうか。

腕元の腕時計は心なしかまだ光っているように思えた。

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