獣人少女 1
泥の沼にでも沈んでいるかのように身体が重い。気だるい。
それでも、生きてはいるらしい。
覚醒を始めた意識は、まどろみに沈む自我を急速に引き揚げてくれていた。
味覚を抜いた五感から、次第に自分の置かれている状況がわかってくる。
身体の上下には柔らかな感触。天日に干した藁のような匂い。定期的な空気の抜ける音。
重たげな瞼が邪魔をして、視覚は制限されている。
征司はかなりの気力を費やして、反発する瞼の重石を跳ね除け、ゆっくりと目を開けた。
途端に眩しい光が虹彩を焼く。
いったん目を閉じてから、征司は小さな瞬きを繰り返して、ようやく視界を得た。
かなりの時間を寝ていたらしく、いざ目が慣れてみると、そこはさほど眩しい空間でもなかった。
一見すると、掘っ立て小屋、と呼ぶのが相応しい内装の部屋だった。
壁は無造作に丸太を並べただけの粗末な造りで、豪快に開いた隙間から朝日と思しき光が差し込み、顔を直接照らしている。
必要以上に眩しく感じたのはこのせいらしい。
天井は、不揃いの板を粗雑に貼り合わせたいかにもな素人作業で、日照りはまだしも雨漏りを防げるかは大いに疑問だった。
その上、室内がやたら狭い。四方の壁から光が漏れていることから、小屋にはこの一室だけしかないと推測されるが、広さにして6畳もない。
まともな家具もなければ窓もない。おまけに出入り口のドアもなかった。
犬小屋を大きくして中に入るとこんな感じなのかもしれない。
征司はぼんやりと室内を観察してから、次いで自身に目を向けた。
干し草を寄せ集めただけのベッドに寝せられ、シーツ代わりに身体の上にも干し草が載せられている。
頭だけ出して埋められていると言ったほうが早いかもしれない。
そして、そんなベッドの傍らには、体育座りをして膝に頭を埋めた少女。
顔は見えないが、珍しいピンクの髪色をしているので、先ほど襲われた少女には間違いないだろう。
空気の抜ける音は寝息だったらしく、少女は窮屈な姿勢のまま熟睡しているようだった。
(はて?)
征司は途切れる直前の記憶を繋ぎ合わせながら、疑問符を浮かべた。
覚えている限りの記憶では、殺されかけていたはずである。
どう考えても、今のこの状況に繋がらない。これではまるで、看病されていたふうに思える。
干し草の中から腕を上げると、傷には包帯が巻いてあった。
あの熊に襲われた肩の大怪我にも処置がされている。
この場にはふたりしかいないのだから、少女が手当てしてくれたのだろうが……
寝起きの頭で懸命に思案するが、答えが見つからない。
寝ている少女に声を掛けて起こそうか征司が悩んでいると、視野の端をなにかピンク色の物体が横切った。
見覚えのあるピンク色の縄状のものが、床の上すれすれを右へ左へとゆらゆら揺れている。
征司は、反射的にそれを掴んだ。
「ひゃわ!」
今度はなにか聞き覚えのある声がして、少女が跳ね起きた。
次いで、グーで思いっ切り頭を叩かれた。
「痛い」
「人の尻尾を何度も何度も気安く握るな! この破廉恥が!」
(破廉恥て、時代錯誤な。そもそもなにが破廉恥なんだ?)
「何度も何度もって身に覚えが……ってか、尻尾?」
征司は握ったままだったものをあらためて見た。
大きさと長さはさておき、見た目といい触感といい、たしかに犬猫の尻尾っぽい。
「毛並みはどちらかというと猫に近いかな? ……あれ、もしかしてこれ本物か? 本当にくっ付いて取れない?」
尻尾の根元を追うと、少女の尻のほうまで伸びていた。
試しに尻尾の先を撫でてみたら、少女がびくびくと背筋を震わせていた。
「尻尾が取り外しできてたまるか!? 怖いわっ! いい加減に放せっ!」
また殴られた。
「痛~! 怪我人の頭をぽんぽん叩くな! 自分で言うのもなんだが、死んでもおかしくないくらいの重傷だぞ、俺は!」
「怪我人と言い張るなら、それらしく大人しくしておけ、人間!」
「その怪我をこさえてくれたのは、あんただろーが!」
「そ、それは――」
少女はわずかに怯んだが、持ち直して掌を突きつけてきた。
「おまえがこんな悪ふざけをするから悪い!」
少女の小さな掌に載せられていたのは、1センチあるかないかの、半球形の透明なレンズ――カラコンだった。
色は銀。昼休みに級友に着けられたまま、うっかり外し忘れていたものだった。
「銀の瞳は魔族の証! 殺されても文句は言えないだろう!? ……ただまあ、もうひとつの魔族の証の角がないことに気づかなかったのは、あたしの落ち度だったのは認めよう、素直に謝る。謝るが、おまえも悪い、人間!」
(うむ。素直でも謝ってもいないな)
思っても、火に油っぽかったので、征司は口には出さない。
それよりも問題は。
「よく見れば、尻尾どころか耳もあるな」
少女の頭部には、ピンクの髪に埋もれるように、ふたつの獣耳が張り出していた。
ネコ耳というべきか。先ほどから感情の起伏に合わせて、尻尾ともどもピコピコ動いている。
「だから勝手に触るなと言うに」
耳にそーっと伸ばした手を、すんでで叩き落とされた。
「なんだ、獣人を見るのは初めてか、人間?」
(なるほど。魔族、魔法に、獣人と来たもんだ)
どうやら、かのはた迷惑な体質は、ついに世界の壁まで越えてしまったらしい。
「……あー、そうだな。見るもの聞くもの初めてばっかで、正直びっくりだ。自分の常識がいかに狭いかを実感するよ」
征司は自虐的な笑みを浮かべる。
「よくわからないが、難儀そうだな、人間。そんなに悲観せずとも、世間知らずを自覚できただけでも大したものだ。自棄にならず、気をしっかり持つといい」
残念な方向で同情された。あながち間違っていないのが辛い。
「ありがとさんよ。でも、人間人間呼ぶのは落ち着かないから止めてくれ。俺には白木征司って名前がある。征司でいい」
「そうか、わかった。あたしはリィズだ。セージ様」
「リィズね。珍し――くはないんだろうな、きっと。でも、なぜにいきなり『様』付けなんだ?」
征司が問いかけると、リィズは肩をすくめて、やれやれとばかりに嘆息した。
「仕方あるまい? おまえは人間だ。人間は敬うようにと義務づけられている。だから、あたしが望まずとも、おまえはセージ様なんだ。わかったか、セージ様? 理解しろ」
なぜかリィズが、尊大にふんぞり返った。
(これはあれか。とりあえず敬称だけ付けて呼べば、敬っていると思っている口か)
心持ちにしろ、口調にしろ、それ以外ではこれっぽっちも敬っている気配はない。
「あんたがそれで満足なら、別に俺はどうでもいいが……義務ってなんだ? しきたりとか習慣でもなくって?」
「ああ、義務だ」
リィズが首に巻いている黒いチョーカーに手を触れる。
「あたしは奴隷だからな」
非日常的な単語を、リィズはあっけらかんと言ってのけた。
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