第103話 アイス&ファイア
空間に無数のひねりを加えて、目には見えない網をこしらえる。ダラニ・ダラがいまそれを広げようとした瞬間、巨大な赤い蛇が振り返った。「シャッ」と短い声。魔女の全身から炎が上がる。だがそれをものともせず、ダラニ・ダラが大蛇の頭に見えない網をかぶせると、蛇の上半分が消えた。
ガルアムは残された力を振り絞り、ダラニ・ダラに思念波をぶつける。燃え上がる生体発火の炎はそれで消えた。すべてを使い果たし倒れ込む獣王の体が地面に届く寸前、支えたのはズマ。ダラニ・ダラが両手を叩き合わせた。
「ダランガンまで一旦引くよ!」
各自の足下に黒い円形の空間が開き、そこに落ちるように全員が、エリア・エインガナから一斉に姿を消した。残されたのは、とぐろを巻く赤い炎の蛇の下半身だけ。いや。消えた上半身部分のあるべき空間に、上から下へ、ゆっくりと赤い筋が走っている。その空間の切れ目から、ぬるりと這い出る赤い蛇。
イ=ルグ=ルの蛇は頭上を振り仰いだ。いつの間にか丸く開いた黒い空間に、音もなく体を伸ばし侵入する。ダラニ・ダラたちの跡を追うかのように。
巨大な黄金の神人は、
右手の握り拳が膨らむ。猛烈な勢いで一気に膨張する。その過程で爪が消え、指が消え、拳はデカいハンマーとなった。大きさは神人の体積をも上回る。それが神人の頭上から振り下ろされた。
しかし、黄金の神人は片手で受け止める。リキキマの向こう側でヌ=ルマナが嗤った。
「神人の核にハルハンガイがいる事を忘れたか。力勝負では負けぬ」
そう言った直後、ゴン、という音。リキキマのハンマーが神人の頭に届いていた。いまは両手で受け止めようとしているが、圧力に耐えられず止められない。そのままハンマーは振り抜かれ、神人は土煙を上げて吹っ飛んだ。
「力勝負が何だって?」
振り返るリキキマの、悪そうな笑顔。
「イ=ルグ=ルならともかく、おまえら『オマケ』に力勝負で負ける訳ないだろうが」
「おのれ」
六本の戦斧が魔人に向けて構えられる。リキキマはニッと歯を剥き出した。
「3Jの言ってた通りだな。ヌ=ルマナは目は良いが頭が悪い」
「その口を閉じよ!」
挑発に激昂した三面六臂の邪神が飛ぶ。けれどその前に立ちはだかるのはリキキマではない。地面の一点から突如湧き出たオニクイカズラの群れ。そして群れの真ん中に、短く太い樹が生えている。樹は伸びるに従って、まるで彫刻を削り出すように人の形に姿を変えて行く。ずんぐりむっくりの、デフォルメされた人型へと。やがて人型は動き出し、右手に持ったパイプを咥えた。
「こういう移動は面倒臭いのだけれど」
「だったら何しに来たんだよ」
気に入らない、という表情でリキキマはウッドマン・ジャックをにらみつける。ジャックは目を合わせないように、顔をそむけながら笑った。
「ぬほほほほっ、遠隔支援では限界もあるしね」
「だれが助けろって言った」
「言われてはいないのだけれど、そろそろダラニ・ダラたちと合流してもらいたいのだね。食料を持って」
「食料だ? ……おい、まさかガルアムか」
「ガス欠なのだね」
「あんのデカブツ、肝心なときに頼りにならねえ」
リキキマは頭を抱えた。
ヌ=ルマナは間合いをはかり、黄金の神人は立ち上がってこちらに向かっている。遊んでいる余裕はない。
「……すんだよ」
「ん? 何かね」
小さなつぶやきに、ジャックが思わず顔を向けると、リキキマはいきなりブチ切れた。
「思念結晶はどうすんだよ、って言ってんだろうが!」
「いやいやいや、我が輩が切れられる理由がわからないのだけれど」
「ったくよお」
目をそらすリキキマの悔しげな顔に、ジャックはまたパイプを咥えた。
「ま、ここまで想定出来なかった3Jが悪いのだから、全部丸投げすれば良いのではないかと思うのだけれど」
「それで何とかなるのかよ」
意外そうなリキキマに、ウッドマン・ジャックは微笑みかけた。
「3Jで何とかならないのなら、最初から誰にも何とも出来ないのだね」
デルファイ北方の街、ダランガン。
ダラニ・ダラ、ガルアムにズマ、ジンライにケレケレにドラクルにプロミス、そしてキラー・ホーネッツたち。降って湧いた賑わいに、教会からクリアと子どもたちが顔を出した。
「ママ! 大丈夫なの」
「大丈夫じゃないね。いますぐ食料をかき集めな。それと砂糖だ。砂糖を持っといで」
ダラニ・ダラの言葉に、子どもたちが慌てて教会の中に駆けて行った。
「台所の砂糖持ってくる!」
「おれシチュー持ってくる!」
「あ、あたし果物!」
それを頼もしげに見送るクリアに、魔女は申し訳なさそうに言う。
「それとね、クリア。悪いんだが、その」
「……私の能力が必要?」
「まあ、アレだ」
ダラニ・ダラは困り顔で目線を逸らした。クリアは見つめる。
「3Jに言われた?」
「まあ、何と言うかね」
正視出来ない、という風に、ダラニ・ダラはため息をつく。しかしクリアは微笑んだ。
「なら、仕方ないでしょ」
そこに響き渡る、空の裂かれる音。皆が見上げる中、上空に現われた黒い空間の中から、真っ赤な炎の蛇が現われた。ぬるり、と滑り落ちるように地面に降り立ち、鎌首をもたげる。音はない。炎には重さがないために。
クリアは怯えるでもなく、かといって焦るでもない、しっかりとした足取りでイ=ルグ=ルの蛇に歩み寄った。その大胆さに、危ぶみ引き止める者はいない。
「神よ」
修道服の頭巾を取り、胸に抱える。
「私の神ではないけれど、あなたも誰かの神なのでしょう」
蛇は高い位置から見下ろす。クリアは立ち止まり見上げた。
「神ならば祈りに応えてください。愛をもって人を導くのが神なのではありませんか。人々に祝福を与えてこそ神たり得るのではないのですか」
蛇の口が開いて「シャッ」と声がする。クリアの全身から炎が噴き出した。
「クリア!」
思わず駆け寄ろうとしたズマを、ダラニ・ダラが制する。
「黙って見てな」
炎が踊っている。赤々と、活き活きと。その中で、クリアの視線は動かない。
「これがあなたの祝福ですか」
そう言った瞬間、炎は消えた。
ピシリ。硬い物に亀裂の入ったような音。
クリアの髪が揺れる。中から何かが出て来る気配。
白。地面が白くなり、建物が白くなる。ドラクルはもちろん、ダラニ・ダラたちの吐く息も白くなった。世界は白に覆われて行く。
クリアの目が金色に輝く。頭の両脇に伸びるのは捻れたヤギの角、そして修道服を突き破って背中に黒い翼が生えた。
「我らが神よ、この醜い姿を許したもう。願わくは子どもたちが戻る前に、すべてを」
赤い蛇は再び「シャッ」と声を発する。しかしクリアに炎が宿るのは一瞬。あっという間にかき消えてしまう。クリアは炎の大蛇に左手を突き出し、こうつぶやいた。
「
風が吹く。氷より冷たい吹雪が吹きすさぶ。ダランガンの街が一瞬で凍り付いた。空には黒雲が渦を巻き、蛇の周りに竜巻が起こる。その数は六つ。六角柱がイ=ルグ=ルを取り囲んだ。
ピシリ。再び亀裂の入った音。その途端、赤い蛇を取り囲んだ六角柱の内側が、真っ白になる。そそり立つ六角形の氷柱。それはあらゆる熱を吸収し、分子の運動を停止させた。死の静寂がダランガンを包む。クリアは悲しげに視線を下げた。
「すごい……」
思わず口にしたのはプロミス。否定する者などいない。それはその場にいた皆の思いでもあった。だが。
ピシリ。また亀裂の入った音。クリアは驚きに顔を上げる。ピシリ。ピシリ。ピシリ。連続する亀裂音。空気が震えている。ひび割れ、砕け、やがて崩れ始める氷の柱。中から出て来るモノは。
卵。巨大な青い氷の卵が現われた。真ん中に開かれたのは、大きな丸い目玉。それが輝いたかと思うと、クリアの全身は氷の塊に覆われた。氷結攻撃返しである。けれどその氷の塊は、音を立てて蒸発した。
吹き上がる蒸気の中、クリアは右手を突き出す。
「天元の炎」
手のひらから放たれた強大な火球が、氷の卵を襲った。しかしそれを、氷の卵は跳ねてかわす。ピョン、ピョン、ピョンと跳ね上がると、上空に黒い空間を生み出し、そこに飛び込んだ。
「逃げたな」
そう言うジンライに、ドラクルもうなずいた。
「逃げたね」
それが聞こえたのか、クリアは振り返り、そして倒れた。しかし地面に落ちる前に、ダラニ・ダラの手が支える。
「うお、寒っ。てか暑っ」
教会の中から子どもたちが現われた。
「砂糖持ってきた!」
「シチューも持ってきた!」
「あれ、クリア先生、大丈夫?」
いつの間にか、クリアの姿は元に戻っている。ダラニ・ダラは意識のないクリアを両手で包み、微笑んだ。
「ああ、ちょっと疲れただけさ。大丈夫。それより、あのデカいヤツのところに砂糖持ってっておやり。ズマ! ガルアムの口に砂糖ぶち込みな」
「砂糖なんかどうすんだよ」
「思念波の使いすぎで脳みそがクタクタになってるんだ、砂糖を喰らわしゃ何とかなる」
「マジか。シチューはどうする」
「シチューで砂糖を流し込みゃいいだろう。動けるようになったら食料庫まで連れてってやるからね、いまはとにかく急ぎな」
大声で指示を出しながら、ダラニ・ダラは思った。これで態勢は立て直せるだろうが、さて、この先どうする。イ=ルグ=ルは逃げたとは言え、そう遠くには行っていない。当面3Jの指示待ちか。やれやれ、魔人の名が泣くね、と。
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