第98話 邪神分離
「イ=ルグ=ルが出たってよ」
「とうとう来たか」
「俺たち、どうなるんだろうな」
不安げな顔を向け合う男たち。だが、それだけで慌てふためく様子はない。さすがデルファイに暮らすだけの事はある。少なくとも肝は据わっていた。
冬の風が吹く南部の街、
バー『銀貨一枚』。間違いない。ここだ。
入り口のドアが開く。片腕のウズメが、テーブルを拭く手を止めて顔を向けた。
「あら、ごめんなさいお客さん、いま準備中なんで」
するとカウンターの奥からマダムが顔を出した。
「いいわよ。こんなときだもの、お酒ぐらい飲ませてあげなさい」
「あ、いや、その」
ドレッドヘアーの男は、少し慌てて首を振った。
「ボス……じゃないや、プロミスさんはいますか」
「プロミスなら用事で出てるわよ」
マダムは不思議そうな顔で見つめる。男は真剣な顔で見つめ返す。
「出てるって事は、ここに戻ってくるって事でいいんですよね」
「まあそうね。この店がイ=ルグ=ルにでも潰されない限りは」
男は深くため息をつくと、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「……良かった。本当に生きてた」
その様子を見て、マダムは得心がいった顔で微笑んだ。
「あなた、『プロメテウスの火』の人ね」
男、リザードは驚いて顔を上げた。
「えっ! 何でそれを」
「さあ、何でかしらね」
マダムはウイスキーの瓶を棚から取り、軽く振って見せた。
「とりあえず、プロミスには会わせてあげられると思うわよ。ゆっくり待ってなさいな」
「……はあ」
リザードはキョトンとした顔で、カウンターの椅子に座った。
闇に亀裂が走り、光が漏れ出す。黒いイトミミズに覆われた内側から噴き出す白い思念波。そして獣王の咆吼。ガルアムはイ=ルグ=ルから体を引き剥がした。全身が切り裂かれ、生皮がズルリと
苦悶の声を上げるガルアム。その背後に突然、小さな人影が現われ、ガルアムの背に手を当てると、巨体が消えた。小さな人影も。
離れた後方にテレポートしたガルアムは、思わず膝をつく。女の声がたずねた。
「大丈夫ですか」
人間か。いや、この気配、吸血鬼か。ガルアムは栗色の髪の女を見つめた。
「助けられたのだな。済まない」
プロミスは微笑んだ。
「いえ、3Jに言われた通りに動いただけですから」
ガルアムの全身の傷が、音を立てて回復して行く。
「リキキマはどうなった」
ガルアムが再び立ち上がったとき、ガツン! と硬い音が空に響いた。
黒いウネウネに包まれたイ=ルグ=ルに、棘が生えていた。赤い三角形の長い棘が。ガツン! とウネウネを突き破って二本目が生える。ガツン、ガツン、ガツン! 次々に何本も棘が生えて行く。イ=ルグ=ルは、見る間にウニのようになった。
その棘の一本の先端に、裸の少女が立ってイ=ルグ=ルを見下ろしていた。
「悪いな。同化能力なら、こっちも持ってるんだ」
リキキマは、ニッと歯を剥いた。
「てめえを同化してやるよ、イ=ルグ=ル!」
「いかん。よせ、リキキマ!」
ガルアムの叫びもリキキマには届かない。イ=ルグ=ルの体から突き出る棘の数はどんどん増えて行く。やがて黒いイトミミズの蠢きが見えなくなった。そのとき。
声なき絶叫。世界を震わせる黒い思念波。物理的圧力を伴うそれが、イ=ルグ=ルを中心に、短く放たれた。
再び湧き出す黒いイトミミズ。どこから。そう、イ=ルグ=ルを包む無数の棘から。そしてリキキマの体からも。
「……っの野郎!」
その背後から、肩をつかむ者。リキキマの姿が消えた。
全身から無数の黒いイトミミズを湧かせたリキキマの体が、ガルアムの前に転がった。獣王はリキキマの頭を鷲づかみにし、思念波を送り込む。ボロボロと崩れ落ちるイトミミズたち。ゲホゲホと激しく咳き込みながら、リキキマはガルアムの手をタップした。
「もういい。もう大丈夫だ。放せ」
しゃがれた声を聞く限りでは、あまり大丈夫そうではないが、ガルアムは手を放した。リキキマはにらむような目で、隣に立つドラクルを見上げた。
「まったく勘弁してもらいたいよね」
ドラクルは手に付いたイトミミズの破片を振り落としている。
「ボクが律儀な吸血鬼じゃなかったら、いまごろ食われて終わりじゃないか」
「何だよ、感謝でもしろってか」
極めて不満げにつぶやくリキキマに、背後から声がかかる。
「感謝くらいはなさいませ」
振り返れば、ハイムが真っ赤なドレスと大きなリボンを手に立っている。
「お嬢様、お召し物を」
「この状況で服なんて着てる場合かよ」
「とんでもございません。レディは常に身だしなみを整えておくものでございます」
「へえへえ、そうですか」
リキキマはドレスとリボンをつかむと、瞬く間に身に着けた。液体生物なればこその早業である。そしてイ=ルグ=ルに目をやった。黒いイトミミズに覆われた棘が、みるみる短くなって行く。食われているのだ。
「おいドラクル」
イ=ルグ=ルからは視線を外さない。同じくイ=ルグ=ルを眺めていたドラクルは、リキキマに向き直った。
「何かな」
「感謝はしてやる。だから力を貸せ」
「言ってる事が3Jと同じなんだけど」
ドラクルの顔に浮かぶ苦笑い。リキキマはムッとした。
「アイツと一緒にすんじゃねえよ。けったくそ悪い」
「で、何か手があるんだろうか」
「ある訳ないだろ」
「ダメじゃん」
ドラクルのため息に、リキキマは舌打ちをした。
「どうせ3Jから何も言われてねえんだろ。だったらヒットアンドアウェイで……」
その口が止まった。イ=ルグ=ルの表面から、いつしか黒いイトミミズは姿を消していた。その代わり、石の蛹の左右から腕が生えていた。黄金の神人の、不釣り合いに巨大な腕が。
「ヒットアンドアウェイでどうするって?」
面白がっているようなドラクルの言葉。リキキマは悔しげにギリギリと歯を鳴らした。
「んのクソ野郎」
それが聞こえでもしたのだろうか。イ=ルグ=ルの左右の腕が動き出した。右手は天を指さし、左手は地面を指さす。
「何してんだ、アレ」
リキキマのつぶやきに、ハイムが答える。
「天上天下唯我独尊、ではないでしょうか」
「邪神がブッダの真似事かよ。ふざけてんのか」
「いや、待て」
ガルアムの声が緊張した。次に起きた変化には、リキキマも目を丸くする。
イ=ルグ=ルの石の蛹の真ん中に、縦に一本線が走った。そして少しズレたかと思うと、ゆっくり左右に離れ始めたのだ。
やがて右側半分は上に浮かび上がり、左側半分は地面を滑るように前進する。
ガルアムは状況を理解した。
「しまった、ヤツの狙いは!」
その瞬間、右側半分はロケットのように急上昇した。同時に左側半分が土煙を上げ、猛烈な速度で地を駆ける。
ダラニ・ダラの展開する黒い
しかし『宇宙の目』は新たな解答を見出した。ヌ=ルマナは後ろに飛ぶ。輪に触れる寸前の位置まで。もはや目の前の敵を突破する必要性はない。何故なら。
ダラニ・ダラの背後に走る稲妻、轟く雷鳴、もうもうと上がる土煙。振り返れば、黄金の神人の左拳が、黒い輪をガラス細工のように打ち砕いている。石の蛹の左半身が、暴走列車の如く内側に飛び込んで来た。
「なっ」
言葉を放つ余裕などない。それはダラニ・ダラを跳ね飛ばし、紙一重でかわされはしたものの、ジンライにつかみかかり、そして。
「イ=ルグ=ル!」
笑顔で両手を広げたヌ=ルマナを殴り飛ばした。
黒い輪の檻をぶち抜き貫通したイ=ルグ=ルの左側は、豪快にターンを決めると次の目標に向かう。
おかっぱ頭のケレケレが慌てて走り出した。
「いかん、ズマ、逃げろ!」
逃げろと言われても、いまズマの両手はハルハンガイの両耳を捕まえている。これを放す訳には行かないのだ。ハルハンガイが焦り出す。
「馬鹿者! さっさと放せ!」
「うるせえ! 死んでも放すか……」
放す
「うわ、来るな! こっち来るな!」
走って逃げるケレケレに、しかし追いつくのは一瞬。邪神の左手はケレケレの頭を握り潰さんと指を広げた。そのとき。
突如背後から聞こえた轟音に、ケレケレは思わず振り返る。そこではさっきまで存在しなかったはずのジャングルが、イ=ルグ=ルの動きを止めていた。
木が伸びる。
石の蛹の左半分から、黒い思念波が放たれる。木から蔓から湧き出すイトミミズ。けれどそれを喰らい尽くす前に、下から下から、どんどんと新しい木が生え、蔓が伸びてくる。まるで神と大地との戦い、それも総力戦の様相を呈していた。
そこに上空より落下する巨大な影。ガルアムがイ=ルグ=ルの頭の上に猛然と降り立った。地面に押しつけられた衝撃は地響きとなる。神人の左手が獣王の足を捕まえた。また黒い思念波を放ち、今度はガルアムの全身からイトミミズが湧いて出る。
それを毛の先ほども慌てる事なく、白い思念波で一瞬にして粉砕すると、ガルアムはイ=ルグ=ルの左腕を両手でつかみ、容赦なくねじり上げた。
「リキキマ!」
「わーってるよ!」
鷹の翼で飛んで来る、リキキマの右腕が伸びた。それは長い長い刀となり、陽光をきらめかせて宙を切り裂く。イ=ルグ=ルの左腕は、石の蛹より斬り離された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます