第97話 殻の中身

 夕刻のエリア・エージャンに警報が鳴り響く。とうとうこの時が来た。イ=ルグ=ルが地上に引きずり出されたのだ。折に触れてイ=ルグ=ルの復活を警告し続けて来たジュピトル・ジュピトリスではあるが、それでも驚きを隠せない。まして多くの市民にとっては、「まだ覚悟もしていないのに」といったところだろう。


 シェルターも、穴は掘ったが完成はしていない。けれどもう躊躇ちゅうちょなどしていられない。避難する以外に取るべき道はないのだ。人類にとって最凶最悪の厄災が姿を現わしたのだから。


 しかし、避難は順調には進まなかった。


「アキレス」


 ジュピトルの視界に、青い髪の青年が現われる。


「お呼びか、あるじ


「避難状況は」


「想定の二割程度」


 アキレスの返答にジュピトルは虚を突かれた。それはあまりにも低い数字。


「どうして。誘導システムに問題でもあるのか」


「誘導は正常。しかしパニックを起こした市民が『Dの民』専用区域に侵入したために、各所で渋滞が発生している」


 ジュピトルは自分の間抜けさ加減を呪った。いざとなればみんな逃げることに必死になるに違いない、そう考えて想定を立てていたのだ。


 いや、確かにそれはその通りだった。みんな必死で少しでも安全な場所を目指した。その中に、誘導に従ってシェルターに向かうより、『Dの民』の専用区域の方が近いし手っ取り早い、少なくとも自分たちの住んでいる場所よりは安全に違いないと考える者がいるであろう事くらいは、予測してしかるべきだった。


「シェルター近隣区域の自動運転車両をすべて接収、ピストン輸送で運べるだけ運ぶ。手近にある車両に乗り込むよう誘導内容を変更して」


「了解した」


 窓に夕日の差し込むグレート・オリンポス。ここに居ればイ=ルグ=ルの標的となるのは間違いない。自分も移動しなければ。


 移動? 人々を置いて逃げるのか?


 そんな声が自分の内側から聞こえる。


「そうだ、僕は逃げる。人類が生き残るために」


 ジュピトルはそうつぶやくと、一人静かに立ち上がった。




 石の蛹から周囲に放たれる強烈な暗黒の思念波。だがそれをさえぎり中和する、ガルアムの白い思念波。二つの波の干渉する中をリキキマが飛ぶ。両手が尖った槍となり、イ=ルグ=ルに突き立った。だが硬い。岩石の装甲を貫けない。


「ただの岩じゃねえってか」


 その背後に高速で迫る黄金の影。立ちはだかるのはダラニ・ダラ。魔女が手を振ると黒い空間が生まれ、そこから銀色の光が飛び出した。四本の超振動カッターがヌ=ルマナを食い止める。


「おのれ、おのれ、おのれおのれおのれぇっ!」


 ヌ=ルマナが吼える。


「また邪魔をするか! ことごとく目の前に現われおって!」


 怒り狂う目はジンライを見ていなかった。にらみつけていたのはその後ろに立つ、ターバンとマントで身を包む一本足。


「おまえらが嫌いなのでな」


 地を這うような低い位置から3Jに向かって振り抜かれる豪腕。ハルハンガイの鉄の拳を両手で食い止めたのは、獣人ズマ。全身の毛を逆立て牙をき出すズマに余裕はない。しかし『宇宙の耳』には、己の拳の放つ声が『聞こえた』。


――この小僧、少し強くなっている


 だが。


 やはり地力には差がある。そう何度も連撃に耐えられはしない。左手をズマに固められたまま、ハルハンガイは右腕を振りかぶった。指を伸ばし、手刀で宙を切り裂く。けれど打ち据えられたのはズマではない。ハルハンガイの背後に迫ったケレケレの頭に、手刀がめり込んでいた。


「すべて聞こえておる」


 ハルハンガイの両耳は、どちらも半分ほどしかない。だが聞こえているのだ。潜めた足音が、脈打つ鼓動が。そして一度聞いた音は忘れない。呼吸の音で相手を判別出来る。つまり。


「ハルハンガイに死角なし」


 一度下まで振り抜いた右手を、再び高く振りかぶった。いや、振りかぶろうとした。しかしその腕にはいつの間にか、太い蔓が巻き付いている。オニクイカズラの蔓だ。そこに意識が向いた瞬間、ズマの両手がハルハンガイの両耳をつかんだ。


「死角はあったな」


 3Jは感情のこもらぬ、抑揚のない声で言う。


「おまえの耳には草の伸びる音も聞こえるのだろう。だがそれを脅威とは感じない。そんな物を怖がっていては、森の中を歩けないからだ。『宇宙の耳』がいかに強力でも、聞こえる音すべてに意識を向ける事は出来ない」


「くっ! 離せ!」


 ハルハンガイはズマの手を引き剥がそうとするが、爪が食い込んで外れない。それどころか腕に、足に、全身にオニクイカズラの蔓が巻き付き、自由を奪って行く。無論、この程度の蔓など、断ち切るだけなら造作もない。けれどそちらに意識を向ければ、両耳は引きちぎられるだろう。


「ヌ=ルマナ!」




 相棒に助けを求めるハルハンガイの声。一方のヌ=ルマナはそれどころではない。ジンライだけでも面倒なのに、ダラニ・ダラまで相手にしなければならないのだ。すぐそこに、手の届く距離にイ=ルグ=ルが居ると言うのに、近付く事さえ出来ない。


「邪魔だ、どけ!」


「つれない事を言いなさんな!」


 ダラニ・ダラの手からリング状の黒い空間が次々に放たれる。それらは広がってヌ=ルマナの周囲を囲もうとした。この回転する輪に触れれば、おそらくヌ=ルマナとて無事には済むまい。触れぬよう、囲まれぬよう避けながら、その隙間から迫り来るジンライの攻撃をかわさねばならない。いかな神であっても、それは至難の業と言えた。


 この戦局を一気に挽回する方法があるとするなら、方法は一つ。ヌ=ルマナは方向を転換した。前進をやめ、真横に飛んだ。3Jの方向へ。


 この首さえ落とせば、すべてが変わる。と、考えた訳ではない。攻撃が3Jに向かうとなれば、ジンライは追いかけて来るだろう。そして3Jの居る方向には、ダラニ・ダラも輪を投げられない。つまりは敵の攻撃パターンが単純化するはずだ。


 だがジンライは追ってこなかった。代わりに幾重にも黒い輪が投げつけられた。


「何!」


 黒い輪は凶悪な威力を剥き出し、地面を深くえぐった。さっきまで3Jがいた場所を。そう、さっきまでは確かに居たのだ。いったいどこに消えた。


 幾つもの黒い輪が、輪が、輪が周囲を埋め尽くす。立体的に、球形に、ヌ=ルマナを取り囲む。内側に居るのはヌ=ルマナ、ダラニ・ダラ、そしてジンライ。もはやハルハンガイを助けに行くかどうかという段階ではなかった。




 地上四百キロの高度を飛ぶ白い直方体。自律型空間機動要塞パンドラ。その管制室で、管理インターフェイスのベルがたずねた。


「ホログラム、見破られたかな」

「ただの時間稼ぎだ。見破られても問題はない」


 3Jはそう言った。しかし実際には見破られていない。世界政府で使われている物よりも高精細な三次元画像ではあるが、『宇宙の目』に見破れないレベルではないはずだ。3Jは常に戦いの最前線に出て来る、その経験則に基づいた先入観がヌ=ルマナの目を曇らせていた。すべてを見通す目を持っていても、それだけですべてが見える訳ではない。


「砲撃の準備は」


 3Jの問いにベルは即答する。


「準備は完了。いつでもどうぞ」


「火力最大。全砲門撃て」


 それは祈りのように静かに。




 一瞬の閃光。その衝撃波はイ=ルグ=ルの石の蛹を地面に叩きつけ、まるで手鞠のように弾ませた。悲鳴のような震動が空間を満たす。蛹は苦しげにのたうち回った。


「っぶねえなあ、おい!」


 そう文句を垂れながらも、全裸のリキキマは暴れるイ=ルグ=ルに、ロデオのように飛び乗った。石の蛹の頭頂部がえぐれている。


「アレで貫通しねえのかよ、冗談だろ」


 ガルアムの怪力が、動き回るイ=ルグ=ルを抱き留めた。


「やれそうか」


「誰にモノ言ってんだよ。天下のリキキマ様だぜ」


 リキキマは右手の先を高速回転させた。ドリルのように、いや、ドリルそのものだ。


「コイツで……決まりだ!」


 ドリルがイ=ルグ=ルの頭頂部に突き立つ。ガリガリという砕削音と火花。石の蛹が跳ね上がるのを、ガルアムが押さえ込む。


「まだか」


「もうちょっと待て」


 リキキマは掘る。掘る。掘る。


「まだか」


「待てって……待て、待てよ……アレ? ちょっと待てよ、これは」


「どうした」


 悶えるイ=ルグ=ルを全身で押さえ込みながら、ガルアムがたずねる。リキキマは困惑していた。


「これ、コイツ、いくら何でも殻が厚すぎねえか」


 殻が厚いからどうだと言うのだ。ガルアムはいささか不機嫌な口調になる。


「何が言いたい」


 リキキマは自分の掘った穴を見つめながら言った。


「もしこの岩がコイツの殻だとしたら、『中身』がどこにもねえんだ」

「……中身がない、だと?」


 そのとき、イ=ルグ=ルの体が細かく震動する。ブウン、羽虫の飛ぶような音が聞こえた。上に乗るリキキマの足が、捕まえるガルアムの腕が、イ=ルグ=ルの中に沈んで行く。


「何だ」


「ヤベえ、同化する気だ! 逃げろ!」


 だがその瞬間、イ=ルグ=ルの全身から湧き上がるように現われた、黒いイトミミズのような触手が、ガルアムとリキキマに絡みつく。それはまるで荒れ狂う波のように、リキキマとガルアムの姿を飲み込んでしまった。

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