第40話 迷宮
「これは禁断の技術だ、オーシャン」
やめておいた方がいい。医師の顔はそう言っていた。
「そもそも医学的な検証などなされていない。何の効果もないならマシな方だ。進んで毒を飲むようなものだと言っていい」
オリンポス財閥のパレードを襲撃した事により伝説的なテロリストとなった、聖神戦線のオーシャン・ターンは、しかしいま追い詰められていた。
「このまま逃げ回っていても、いずれ無意味に殺されるだろう。いまここで毒を飲んでも、そうたいして変わらない」
手のひらの薬瓶には、小さなオレンジ色のカプセルが一つ入っている。
「我らの神、イ=ルグ=ルが
「しかし、仮に成功しても、君はすべてを失う事になるのだぞ」
医師の言葉に、しかしオーシャンは首を振る。
「失うのではない」
その口元に微笑みをたたえて。
「捧げるのだ」
血の日曜日事件、そしてそれを発端として引き起こされ、いまだ衝撃の覚めやらぬ世界連続テロ事件。これらをイ=ルグ=ルと関連付けたストーリーを作り、ネットワークに流した。
「不謹慎にもほどがある、という怒りの声が大きいですね」
ナーガが困った顔で報告した。ジュピトルもうなずき、椅子の背もたれに身を預ける。
「我ながらそう思うよ。被害者や遺族の気持ちを考えればね」
とは言え、何もしない訳には行かないのだ。この世界はいま、瀬戸際にある。ジュピトルは双子の妹、ナーギニーに目を向けた。
「何か他に気になった反応はある?」
「大多数は否定的、というか呆れ返っているように思えます。ただ」
「ただ?」
「ごく少数なので、気にする必要はないのかも知れませんが」
ナーギニーは言いにくそうだ。
「いいよ。言ってみて」
ジュピトルに促され、ナーギニーは言った。
「はい、『金星教団の回し者か』という意見がいくつかありました」
ジュピトルは記憶を探る。
「金星教団……たしか聖神戦線が武装解除して転身した宗教団体だっけ」
聖神戦線は、パレードを襲い、ジュニアに重傷を負わせたテロ組織。あんなに深く心に刻んだはずなのに、記憶が薄れている。人間は忘却する生き物だとは言え、自分はちょっと薄情なのではないかという気がした。
「アキレス」
ジュピトルの視界に青い髪の青年が姿を現す。
「お呼びか、
「金星教団について、わかっている事を」
「金星教団の信仰対象はイ=ルグ=ル。信者は世界に推計千人」
いかに人口の減った現代とはいえ、世界で千人は小さな教団と言えるのではないか。だが、イ=ルグ=ルを信仰する人間が世界に千人も居ると思えば、少し背筋が寒くもなる。
「信者は、どのエリアに居るの」
その問いにアキレスは答えた。
「世界中すべてのエリアに支部が存在している」
自分に第六感的な能力があるとはまったく思っていない。けれど、それでも何か、とてもイヤな物をジュピトルは感じた。アキレスは続ける。
「教祖については、ヴェヌという名の少女であるとしかわかっていない」
「教団を維持するためには、スポンサーが必要だと思うんだけど」
何せ信者が千人しか居ないのだ。誰かが金を出さなければ、支部の維持すら難しいのではないか。
「協賛者や協賛団体についての情報はない」
ジュピトルはため息をついた。しかしアキレスがないと言うのなら、少なくともミュルミドネスは知らないのだ。仕方ない。
「他にわかっている事は」
「わかっている事は以上だ。ただし注目すべき点は他にもある」
「と言うと?」
「先般の血の日曜日事件の際、『プロメテウスの火』が取った行動パターンが、聖神戦線のそれに似通っていたという説がある」
アキレスは
「プロメテウスの火は、『ブラック・ゴッズ』から支援を受けている」
ジュピトルはつぶやく。
「エリア・レイクスにも金星教団の支部はあるんだよね」
それはアキレスへの問い。青い髪の青年はうなずく。
「もちろん」
「ブラック・ゴッズと金星教団につながりのある可能性は」
「可能性なら当然ある」
巨大並列コンピューター群ミュルミドネスの総意を表わすインターフェイスは、言葉を選びながらこう言った。
「ブラック・ゴッズは闇ルートでの武器売買により勢力を拡大させた。その拡大が始まったのは、聖神戦線が武装解除し、金星教団が誕生した頃と時期的に重なる。聖神戦線の持っていた武器売買ルートを、ブラック・ゴッズが継承した可能性は否定できない」
「聖神戦線は、どうして武装解除をしたんだろう」
「直接的な理由はいまだ不明。ただ、オーシャン・ターンの殺害が契機となったのだろうという説は有力視されている」
オーシャン・ターン。パレード襲撃の実行犯。プロミスの父親。アジトを急襲したセキュリティの特殊部隊によって射殺された。その死体は確認されたし、それは記録にも残っている。たとえ彼が鍵を握っていたにせよ、もう確かめようがない。
ジュピトルはアキレスと、そしてナーガとナーギニーに命じた。
「金星教団について何か動きがあれば、僕に教えて欲しい」
溺れる者がワラをつかむが如き頼りない手がかりであるが、何もないよりはマシだろう。とにかくいまは、出来る事をするしかないのだ。
この三日間、ドラクルは借りてきた猫のように過ごした。バストイレ付きの狭い部屋を与えられ、そこに引きこもった。食事は執事のハイムが持ってくる物を素直に食べた。結論から言えば、食事に毒は入っていなかったし、他にもドラクルの命を奪おうという動きは一切見られなかった。
飼い殺しにする気か。三日目に、そう判断した。
もちろん、イ=ルグ=ルがもうすぐ復活する。そうなれば、こことて無事には済むまい。逃げるチャンスはいくらでもあるだろう。だがドラクルにもプライドがあるのだ。それまで待っては居られない。
部屋に窓はないが時計はある。仮に時計がなくても昼か夜かは体調でわかる。何せ夜の王なのだから。
深夜、音はしない。動く気配も感じない。ドラクルは部屋から抜け出た。等間隔で小さなガス燈が灯る暗い廊下を忍び足で歩く。廊下は真っ直ぐ、折れ曲がる事はない。見覚えのあるドアがあった。静かにドアを開けると、中は真っ暗。しかしドラクルの視力は闇を見通す。自分が目覚めた応接室だとわかった。音もなくドアを閉め、再び廊下を進んだ。
暗い真っ直ぐな廊下。一分ほど歩いたろうか。またドアがあった。さっきのドアと見分けがつかない。どの部屋も同じタイプのドアを使っているのだろう。ドラクルはドアを開けた。
……応接室だった。さっきの部屋と見分けがつかない。同じような装飾や調度の部屋がいくつもあるのか? ドアを閉め、廊下を進んだ。またドアがあった。開けてみた。応接室だった。また進んだ。またまたドアがあった。開けてみた。またまた応接室だった。
これはいくら何でも、さすがにおかしい。ドラクルは方向転換した。来た道を戻る。すぐにドアが見つかった。開けてみた。自分の与えられた部屋だった。
なるほど、
「こりゃマジで、イ=ルグ=ル大先生のご降臨を待つしかないって事か」
ドラクルは大きなため息をつくと、頭を抱えた。
バー『銀貨一枚』のマダムは目を丸くした。
「お礼? リキキマ様に? 何で?」
その反応にハーキイは困惑した。
「え、何でって言われても。そんなにおかしいですかね。アタシらを受け入れてもらえた事に感謝してるんですけど」
「最初来たとき、絶望的な顔してたじゃないの」
「いや、最初はそりゃそうでしょうよ。人生終わったって思いましたし」
「ふうん。それが感謝するまでに変化したんだ」
マダムはハーキイの顔をまじまじと見つめた。
「そ、そんなにおかしいですか?」
「うん、プロミスが言うんならともかく、アンタが言うのはすっごい変」
「ええー、どんなキャラなんですか、アタシ」
しかしマダムは急にふっと笑うと、うなずいて見せた。
「いいわよ。お昼までに戻ってくるなら、午前中は自由時間にしてあげる。プロミスと一緒に迷宮まで行ってらっしゃい」
ハーキイに笑顔が浮かぶ。
「あ、ありがとうございます!」
小さく頭を下げると、さっそくプロミスを呼びに走って行った。まるで子犬だな、とマダムは思う。だが、不意にその顔に影が差し、こうつぶやいた。
「私には止められないのよ、ノルン」
そしてキッチンに入ると、黒電話の受話器を上げた。ダイヤルを三度回す。
「……ああベル? 3Jに伝えて欲しい事があるの」
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