第36話 夢のまた夢
最初に植物に興味を持ったのは、おそらく子供の頃、『ジャックと豆の木』の絵本を読んだときだろう。その日のうちに、庭に何かの種を撒いた事を覚えている。それ以来、植物の事ばかりを考えて、やがて学者になってしまった。
車を降りると冷たい風が吹いた。曇り空に星はない。どこかでまだ虫が鳴いている。古さと広さくらいしか目立つところのないレンガ造りの屋敷の玄関には、暖かい明かりが灯っていた。
「お父様!」
「お帰りなさい!」
二つの声がドアの内側で私を出迎えた。もうすぐ十歳になる双子の娘。どちらがどちらなのか、親ですら間違うほどにそっくりな顔。だが幸い、服装の好みが違うので見分けがつく。マリーはいつも大きなリボンを頭に飾り、キキはフリルのドレスが大好きだ。
「お帰りなさいませ、旦那様」
老執事のハイムにうなずき、コートとカバンを手渡す。受け取ったハイムは、心持ち小さな声でこう告げた。
「ハンター様がおいでです」
書斎のドアを開くと、私の椅子に座ったハンターがグラスを持ち上げて「やあ先生」と言った。書棚のスコッチを勝手に飲んだのだろう。亡くなった妻の弟だが、政府関係の仕事をしているらしいという事しか知らない。
「私に用があるなら、大学の研究室に来てくれないか」
「それも考えたんですがね、先生」
ハンターは立ち上がると、上着のポケットに手を入れた。
「これは信用出来る人間にしか話せない事なんで」
ポケットから取り出したのは、小さく透明なガラスの薬瓶。中にはうっすら金色に輝く粉末が。それを机の上に置き、ハンターは探るように私を見つめた。
「十グラムあります」
「何だね、それは」
まさか私を相手にドラッグを売りつける訳でもあるまい。困惑した私をしばらく見つめると、ハンターは思い切ったようにこう言った。
「先生も知ってるでしょう。金星の開拓団が壊滅した話は」
「連絡が取れない事は知っているが、壊滅したというのは噂の域を出ていないだろう」
「いえ、事実です。金星開拓団は壊滅しました」
「……何だって?」
「金星を脱出した宇宙船はすでに地球に帰還しています。公表はされていませんが」
彼は何を言っているのだろう。私に何が言いたいのだろう。その戸惑いを理解するかのようにハンターはうなずく。
「噂を知っているなら、金色の巨大な人型が現われた事も知ってるんじゃないですか」
「『黄金の神人』というヤツかね。馬鹿馬鹿しい。そんなオカルトめいた話がある訳が」
「あるんですよ、それが」
そして小瓶を指さした。
「これがその、黄金の神人の破片の一部。開拓団の生き残りが持ち帰った物です」
「いったい何の話をしてるんだ」
「信じられませんか」
「信じる信じない以前の問題だ。私にそんな事を話して何の意味がある」
ハンターは口元を歪める。だが目は笑っていない。
「政府からのご指名です」
「政府が? 私に何を」
「先生は我が国を代表する植物学の権威です」
「権威などになった覚えはないが」
「その知識を貸していただきたい」
私はイライラが募り、癇癪を起こしそうになっていた。
「回りくどいにもほどがあるぞ! つまりどういう事なんだ。ハッキリ言ってくれ」
「この粉末が植物に与える影響を知りたいんですよ。動物に与える影響や人体に与える影響は、別の専門家がすでに調べ始めています」
「調べて何をどうするんだ」
「黄金の神人は、地球にも現われるかも知れない。そのときどうやって戦うか、どう攻略し、どう殲滅するか、その方法を政府は、いや世界中が知りたがっています。この粉末は世界各国に分配され、一斉に、しかも秘密裏に研究が始まってるんです。我が国だけが後れを取る訳には行かない」
そういう事か。ようやく彼の言いたい事がわかってきた。
「それがもし事実だとするなら、公表して世界中のネットワークを駆使すべきなんじゃないか」
「ところがなかなかそうも行かない」
「兵器として使える可能性があるからか」
ハンターは沈黙した。どうやら正鵠を射たようだ。
「金星からの宇宙船が漂着したのが、アメリカでもロシアでも中国でもなかった。だからその粉末を独占する事が出来ず、我が国にまでおこぼれが回ってきた。そういう事か」
「先生のそういうところに、政府は目をつけた訳です」
断る。そう言ってやりたかった。こんなややこしい研究になど構っていられない。イロイロな面でリスクが高すぎる。だが。
「大学の補助金も年々減ってるんです、研究室の予算だって足りないんじゃないですか」
ハンターの言葉に、今度は私が沈黙した。
「この研究に関しては、政府は支出の上限を決めていません。当分の間、予算の心配はなくなりますよ。それに」
ハンターは部屋を見回した。
「いくら田舎で安いとは言え、家の維持費は馬鹿にならんでしょう。マリーとキキの今後の事だってある。確か借金もあるんですよね? 金は邪魔にならんと思いますが」
断る事など出来はしない、最初からそういう前提で私を指名してきたのだろう。苦々しい顔でうなずくのが、精一杯の抵抗だった。
こんな研究に学生を巻き込む訳にも行かない。実験は一人で開始した。
まず粉末の一部を十万倍の純水に溶かし、植物の根元に散布する。実験の最初はそこから始めた。普通に考えて、こんな量で目に見える効果など出るはずがない。だが効果のない事を確認するのも実験なのだ。ところが。
この溶液を散布された植物は、種類によらず、どれも明らかに体積が増加した。一日で三割以上樹高が上がった樹もあった。とんでもない成長促進効果である。さらには季節に関係なく花が咲き、実がなった。まるでエデンの園のように。
私はいつしか研究に熱中して行った。毎日毎日可能な限りの植物に水を撒き、その成長を記録し続けた。二年など、あっという間に過ぎ去ってしまった。
私は体調に変化を覚えるようになっていた。食事が摂れないのだ。研究中はもちろん何も食べない。娘たちと夕食を食べるのは家族の決まりだったので、仕方なく口には入れたが、気付かれないように後ですべて吐いてしまった。もしやこの変調は、あの溶液に触れているせいではないのか。そこに気付いたときには、もう手遅れだった。
私が口に出来る物は、たった二つに限られていた。一つは水。そしてもう一つは果物。それもただの果物では無理だ。そう、あの溶液で成長した樹から取れた果実しか体が受け付けない。
当初は医者にも診てもらったが、検査結果に問題はなし。数値上は至って健康体だった。やがて私は病院から遠ざかった。もうそんな必要はないという事を理解したのだ。
水と果物しか摂らないにもかかわらず、私の体重は増加した。やがてある日、自分の体の皮膚が、樹皮のようになっている事に気付いた。ああ、もうすぐ『そのとき』がやって来る。それは確信だった。私は大学に辞表を提出し、部屋に閉じこもり、それを待った。
何度目だろうか、部屋の外でハンターの声がしている。粉末を返せと叫んでいる。だがそれは無理だ。もう彼に返すべき粉末など存在していない。小さな薬瓶の中には、オレンジ色のカプセルが二つあるだけ。それが誰に与えられるべきなのかは明白だった。
そして、『そのとき』はやって来た。
それは意識の爆発。この惑星上に、巨大な、あまりにも巨大な知性が降臨した。黄金の神人。炎に焼け落ちる都市。空を覆うキノコ雲の列。それは絶叫を上げながら、こちらにまっすぐ向かって来る。逃げる場所など、もうどこにもない。
私は部屋から出た。パニックになっている娘たちを、ハイムが懸命になだめていた。すがりついてくる娘たちを抱きしめ、私はこう言った。
「マリー、キキ、おまえたちは生きなければならない。たとえ私が居なくなっても、生き続けなければならない」
そして二つのカプセルを手のひらに出した。
「これを飲みなさい」
顔を見つめ合い、当惑している娘たちに、私は微笑みかけた。
「大丈夫、私が何とかする。父様を信じておくれ」
マリーとキキはカプセルを手にし、口に入れた。
「いい子だ。二人とも仲良くするんだよ」
頭をなでようとしたその瞬間、マリーとキキの姿は消えた。いや、溶けてなくなった。液体となって混ざり合い、突如膨張し、ハイムを飲み込む激流と化して窓を破壊すると、家の外へと流れ出して行った。
「もう大丈夫」
私は破れた窓から身を乗り出した。感じる。地球上のすべての植物が、自分の体とつながっている感覚。根を張れ、幹を太らせろ、葉を茂らせ、蔓を伸ばせ。上に上に、高く高く、大きく大きくなるのだ。そう、『ジャックと豆の木』のように。
迫り来る黄金の神人。倒さねばならない。ここで私が倒すのだ。この惑星の未来に希望を残すために。
目が覚めた。居眠りをしていたようだ。夢を見ていた気がする。遠い昔の夢を。ロッキングチェアを揺らしながら、もう火の消えてしまったパイプの灰を捨てた。
深い森の奥で、魔人ウッドマン・ジャックは一人、物思いにふけっていた。
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