第4話『星を見る老人』
トールは出張メンテナンスに、アガヌスカノ火山に来ていた。火山と言っても死火山で、標高の高いそこには天文台がある。今日はその天体望遠鏡『ミハイル』に着いている分割鏡レンズの交換と、機器のメンテナンスの日だった。天体望遠鏡を管理している館長が、今回の依頼者だった。
「トール君、レンズの具合はどうかね?」
「細心の注意を払って磨き上げました。またいい星が見られると思いますよ」
館長は、そうかそうかと嬉しそうに頷く。
ミハイルに着いているレンズは大きい。大きいもので直径は七五センチメートルもあり、重さは約三十キロ。他にも各種ついている望遠鏡の、合計一ニ枚のレンズが搭載される。トールはその全部を、この標高三〇〇〇メートルの上にある、天文台まで運んできたのだ。かなりの重労働だった。だがこれは、その労働に見合う価値のある仕事だ。
トールと館長の付き合いは長い。トールの修業時代、カメラ屋で見習いのようなことをしているトールの元に、天文台から滅多に降りることのない館長が、たまたまやってきて、趣味でやっていたカメラのレンズの修理を、任された時からの付き合いだった。
館長は、天文台の仕事の他に、天文学者としても有名だった。生真面目に仕事をするトールに、館長は何かを感じ取ったのか、一度天文台に来てくれないかとトールを誘った。
トールは、貴重な体験ができると思い、写真屋の主人に暇をもらって、天文台を訪れた。
昼に山に入り、天文台に着いたのは夜だった。
トールはこの時、星というものは、これほどにも美しいものなのかと、驚かされたことをよく覚えている。地上では捉えきれない六等星の星々の光も、山を登れば、夏の低い紺碧の空に、視界一面、銀の砂粒を撒いたかのような満天の星空が望めた。
トールが呆気に取られる様子を見て、館長はますます気を良くした。
天文台に着くと、まず三階まである館内の長い螺旋階段を上がった。階段に沿ってある壁には、館長が撮った星の写真が、所狭しと貼ってあった。ミハイルのメイン、直径七五センチメートルのソムド式望遠鏡は見上げる程に大きかった。天体望遠鏡を支えるフォーク式のアームも見事なものだ。
「主となるシュミットコントランド式焦点接眼部の周りに、土星を見るカウリシパ焦点接眼部。木星を見るキスミス焦点接眼部。プレアデス星団を見る一五センチメートル屈折望遠鏡。オリオン座を見る一六センチメートルシュミットカメラ。一ニ.五センチメートル広視野屈折望遠鏡はエウロパが見える。使っているレンズは全部で一ニ枚。トール君、ちょっと覗いてみるかい?」
「はい、ぜひ」
トールはステップを上がり、館長が普段天体観測に使っている自在椅子に腰かけた。ハンドル操作で高さを調節できる代物だ。館長は、移動式の梯子で傍まで寄ってくれた。
「まずは月を見よう。今日は天気がいい。クレーターの影までしっかり見えると思うよ」
「はい」
トールは望遠鏡の接眼部へ顔を近づけた。片目を閉じて覗くと、そこには銀色に輝く半月があった。普段、満ち欠けの表情を読んでいるばかりの月だが、本当は表面に無数のクレーターがあり、銀色と闇色が交じり合って輝いている。月がこんな味のある姿をしていたなんてと、感動が胸に込みあげた。
この広い夜の闇の中で、煌々と返している光は、どこか悲しげな雰囲気を湛えている。ハナサキにも、月が出てくるおとぎ話は多い。そのどれもが今生の別れを意味するものだ。それほどに地上から月までの距離は、遠く隔たれている。
そして、訪れることは出来なくても、人が自分の星から遠く離れた他の星が見えるように、道具を作ったことに感動した。館長は語りだす。
「望遠鏡は海に出た航海士が、遠くの島や港を見るための道具として作られたのが始まりなんだ。レンズの登場はもっと昔。最初は遠くのものを見るためではなく、太陽の光を集光させて、火を起こすのに使っていた。どこかの国王が宝石の屈折を利用して、眩しい光からサングラスのように目を保護していた、なんて有名な話もあるけどね。レンズが眼鏡として利用されるようになった頃は、悪魔の道具なんて呼ばれていた時代があったそうだよ」
「道具を扱う僕にとっては、そういった偏見や歪んだ思想は考えさせられるものがあります」
「そうかい。星を見る者にとって、そういったものの最たる例と言ったら、天動説と地動説だね。聖書にも載っていないような、神のみぞ知ると言った創造と想像の話は、昔は考えることすら禁じられていた。学者という生き物は、神をも暴く所業を、他人の目を恐れず、自分を信じて貫き通さねばならないことが多々ある。でもね、遠くのものを見ようとする心はロマンだ。
神の存在を否定しなければならない私らが、最も神の存在を近くに感じるところにいると、私は常々思うのだよ。未だに私はある時、空の天井をパッカリ割って神様が現れるんじゃないかと思っているよ。それほどに世界の理は深淵だ。
海に出ることで世界の広さを知った昔の人はきっと、自分の立っている位置を知りたかったのではないかな? そういう心は、いつの時代でもそう変わるものじゃない。解らないものに折り合いを着けていくのもまた生き方だが、そうではいられない人がいることもまた確かなことだ。
知識という、神様が与えた超難問を紐解く術を、我々はもっと知らなければならない。もしかしたら知識は、神という存在を造り上げてしまった人間に対する罰なのかもしれないが」
「館長はロマンチストですね。僕の世界はそれほどまでに広くないかも知れない」
「永遠ともいえる銀河の距離を測る方法だって人間が作り出したものだ。君だってこれからの人じゃないか。感じることを止めない限り心は自由だよ」
それから二人は夜の天体観測を楽しんだ。木星の真の色を知り、土星の輪に驚いた。
「今は自分の店があるので、あまりこちらには立ち寄れていないですが、ここの仕事はことさら楽しみにしています。あれ以来、星が好きになった」
「私の目に狂いはなかったようだね。どこか遠い目をしている青年だと印象深かったのを覚えている。いまはすっかり街に馴染んでいるようだが、なにか見つけたかね?」
トールと館長は、磨き上げられたレンズを、望遠鏡に取りつけながら話した。
「店を持つことで、営む時間や過ごす場所、尋ねる取引先なんかが決まってきまして、生活の基軸というものが自分の中に根差した気分です」
「それでも君には、新しいものを追い求める若さや情熱が、まだまだ秘められているように感じるがね。透明な太陽の光はプリズムを通すことで七色に分光する。道具屋というのは知識や知恵などの大きい奔流から、適材適所のものを生み出す力を持っている。少し似ているね」
「なんでも関連付けてしまうのは館長の悪い癖です」
トールの親しみを込めた指摘に、館長ははにかむ。
「そうかもね。意味を持たせるのは人間の役目だ。星は人の営みのことになどには、興味はないのかもしれない」
館長はそう言って天文台のカーテンプレートを開いた。あの時とは違う冬の高い空。それでも星は、満天に輝いていた。
「私はあと何回、君とこんな風に話せるかね」
「何回でも。僕も腕が鈍らない限りは、ここのレンズを磨き続けますよ」
「歳を取ると、あらゆる情報を手や耳にすることがある。そこで知識を深め語彙を増やす。でも本当に語らいたいのは、もっと単純なことなのかも知れない。星を眺めていることばかりが仕事の私は、汗水垂らして働くというものを知らずに、この歳までそいつと机にかじりついてきた。時々思うよ。別の人生があったらどんなだったのだろうと」
「辞めてしまうんですか?」
「まだわからないんだ、自分でも。爺になっても私はまだ、星の海を彷徨っているのかも知れないな。冷えてきた。珈琲を淹れよう」
館長はブランケットを羽織って、梯子を下りた。そしてコンロで湯を沸かして、珈琲を淹れた。
館長が未だに自分が何者なのかを考え、答えを出そうとしていることは、人は幾つになっても、自分というものを探し続ける生き物なんだろうと、トールに思わせた。
星の光が地上に届いてくるのにも、人の世には余る膨大な時間がかかるのだという。光は捉えられても、既に星が消滅し、光だけが広い宇宙を駆け抜けたりもする。闇の中を突き進む一筋のただの光であっても、それには計り知れない意味があった。
「妻の焼いたカヌレもある。良かったらどうぞ」
「いただきます」
ザラメのまぶしてあるとっても甘いカヌレを、館長の淹れた少し酸っぱい珈琲で流しこんだ。
――この味も変わらないな。
トールは、磨き上げたレンズで星を見る館長の、曇りない眼を眺めながら、ささやかな苦笑を洩らした。
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