エピローグ

エピローグ:グッドモーニング、ハヘ子さん

 わたくしは立っていた。


 学校へ行く道。いつもの道。


 ちらりと時計を見る。もう、そろそろかもしれない。

 わたくしは前髪を手で梳かしながら、昨日の晩の出来事を思い出した。


 わたくしは帰宅してからベッドに転がって、うわあああと暴れて、心を落ち着けようとしてお風呂に入って、ひよこのおもちゃをつんつんして、それからお湯をばちゃばちゃと飛ばした。

 けれどお風呂に入ってもわたくしの心は静まってくれなかった。むしろお湯の温度が伝わったみたいで、鼓動は余計に速くなってくる。


 ハヘ子さんは祖父江そぶえでもなく、白木しらきでもなく、たしかにわたくしの手を取った。

 あれって、いったいどういう『意味』なのよ!


 それにあの子、白木の家でわたくしを助けた時もわたくしの唇を……い、いやいや、あれはちょうど拭く紙を持っていなかっただけかもしれないし……でも、普通あんなことする!? 記憶を手繰たぐるだけでも、くら、と揺れる頭を支えざるをえない。


 わたくしは豊かな胸をもにゅもにゅと揉んでみた。間違いない、わたくしは女の子だ。

 あの子は『友達』という意味でわたくしを選んだんだと思うけど……。

 思うけど、思うけど……。


 だけど、もしも! ほんとに好きっていう意味だったらどうしよう!


 結婚とかいう話になったらどうしたらいいの? 日本って女同士で結婚できたっけ?

 それに、しょ、初夜を迎えるとしたら……。

 わたくし、ハヘ子さんを抱くわけ? ていうかわたくしが抱かれるの? 女の子二人でそういうことをするって……どんなふうにするのよ。

 わたくしは試しに枕にまたがってみた。かあっと顔が熱くなって、恥ずかしくなって、ぽこぽこぽこと自分の頭を叩く。うああああああ、今、わたくし、なにやった!?


 でも一人で悩み続けるのはよくない。千乃ちのにもそう言ったばかりだし。

 というわけで千乃の部屋に内線を入れ、わたくしは千乃に悩みを正直に打ち明けた。

 彼女はたったひとこと、

「お嬢様はアホですか」

 で一蹴した。

 聞けば、このセリフをずっと言ってみたかったらしい。


 なによなによなによ! 夏休みにも生徒会の活動はあるのですからね! 千乃にはたーっぷりと仕事をしてもらわないと! たくさん、頼ってやるんだから。


 だけど笑えたのは、事実だ。笑顔はため息よりも、もっともっと気を楽にしてくれる。


 そしてお兄様との決まりごとの時間がきた。気が楽になっていたので、お兄様にもハヘ子さんのことを素直に相談できた。すると、お兄様はお父様に内線をかけたのだ。


 間もなくお父様が来て、わたくしの肩をきつく抱いた。

「ショックを受けずに落ち着いて聞くんだぞ――」

 から、お父様の話が始まった。それは生まれて初めて知らされる事実だった。


 わたくしは長い間、お兄様との毎日の決まりごとを続けてきた。

 それはお兄様の病気を治すためだ。ずっと、そう信じてきた。

 ところが、ほんとのところは違ったらしい。


璃子りこ、治療を受けていたのはお前の方なんだ」

 お父様は居住まいを正した声で、たしかにそう言った。


「いいか、これは栖汀すていがもう大丈夫だと判断したから言うんだぞ。栖汀はな、お前の話を聞くことでお前の心を護ってくれていたんだ」

 声を出すまで三分くらいかかった。五分かもしれない。いや正直なところどのくらいの時間が経過したかわからなかった。その間、きっとなにも考えていなかったと思う。


「……お兄様は」

「うん」

「お兄様は今、どんなふうにして暮らしているのですか?」

 意味のわからない質問だ。実の兄に「どうやって暮らしているのか」なんて訊く自体おかしい。だけど今は情報を整理したかった。それだけの勇気が、心の中であふれた。


「俺は、医学部を卒業して医者になったんだ。昔から璃子のことを考えていた。璃子の症状はけして重くはないんだけど、やっぱり妹のことだから気にかかってさ」

「そう、ですか」

「ずっと騙してきたみたいになって、ごめんな」

「ううん……」


 騙してきた、ですって?

 ごめんね、ですって?


 そんなこと、そんなこと……、



 がっばああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――っっっ!

 お兄様の胸に飛びこんだ! ぎゅうぎゅう抱き締めた! 肋骨の感覚すら愛おしい。



「やりましたね、お兄様! お医者様になられていたのですね! 夢が、夢が叶ったではありませんか! ほんとにおめでとうございます、お兄様……」

「璃子……」

 お兄様はうなずいたようだった。それを合図にお父様の気配が部屋から消え、エレベーターの開閉音が聞こえてきた。

「璃子、ありがとう」

 お兄様はずっと頭を撫でてくれた。悔しくもない。悲しくもない。恨むこともない。


 わたくしは色んな方に大切にされている。


 家族、屋敷の皆様、千乃、祖父江。

 そして、ハヘ子さん。


 みんなが自分のことを想ってくれているのが、なによりも嬉しかった。


 でもそんな感動は長続きしないのが加賀谷かがや栖汀すていの常だ。耳元ではぁはぁと荒い息が聞こえるので目を開けたら、ちょうどお兄様がわたくしの耳を舐めようとしているところだった。はぁはぁはぁ。


 どすどすどす。

 ずが――っ。どどどどごわぁ――ん!


 KO。エクセレント!


 さらにおしりにキックを入れながら、お兄様をエレベーターの入口までお連れした。

 おりゃおりゃと絶え間なく繰り出されるわたくしのキックに、お兄様は「あいてっ、あたたたっ」と声を漏らしていた。だけどやっぱり、二人して笑ってしまった。


 エレベーターが到着したので、わたくしはいつものとおり、おやすみの挨拶をした。

「グッドナイト、お兄様」と。

 なのにお兄様はそれを聞いて、首を左右に振るのだ。


「違うよ、璃子。もういいんだ。無理してお嬢様っぽくしなくていい。『おやすみ、わたしの大好きなおにいちゃん』と、こう言えばいいんだ」

 そっか。わたくしのお嬢様っぽい話し方も、お兄様からすれば治療の対象だったんだ。


「お・や・す・み。お兄様!」

 頬をひくひくとさせて、わたしの大好きななんとやらのフレーズは意地でも回避した。それでもお兄様は満足そうに、エレベーターの小窓から手を振ってくれた。




 朝、というか夜明け頃になってリビングに行くと、すでにお兄様が起きてきていた。


「お兄様? 早いですわね」

「ああ。仕事に行く準備をしてるんだ」

「わたくし、こんなに早く出られるお兄様を初めて見ますわ」

「ふふ、俺はずっと部屋にいる振りをしてきたからな。ほら、俺の方が病気なんだと璃子には思ってもらわないといけないだろ」

「ああ」

 そういうことでしたか。


 いそいそと支度をするお兄様の背中の奥で、わたくしはふとあることを思いついた。


「お兄様、手鏡はありませんか?」

「手鏡? ええっと、あるはずだよ。たしかこの棚に……」

 言って、お兄様はタンスの一番上の引き出しをごそごそと探る。

「あったあった、ほら、これ」

「いいですね。ありがとうございます」

「でも、手鏡なんかどうするんだ?」

「いえ、きっと今なら自分の顔を見られるはずだと思いまして……」

「自分の顔? そりゃ映るさ。映らない鏡なんかないよ」

「そうですか……そうですよね!」

 わたくしの表情がパアッと咲く。お兄様は、大袈裟おおげさだなぁみたいな息を一つついた。


 家を出る。いてもたってもいられなかった。


 初日が大事なんだ。いつもの通学路で、絶対にハヘ子さんと会うんだ。

 そして週末の予定を訊こう。どういう関係なのかはまだよくわからないけれど、ハヘ子さんとはこれからも仲良くしていたい。夏休みだって色んな計画を立ててやるんだから。


 学校に行けば、アンリがいる。彼女はわたくしに、そしてハヘ子さんにどういうふうに接してくるのかな。もしかしてまた、なにかの嫌がらせをしてくるのかもしれない。

 白木と、バスケ部の子分二人はどのような行動をとるのだろう。自分たちの罪を認めては悔い、学校に自首するのか。わたくしたちの赦しをありがたく受けとって、いつもの練習を続けるのか。それとも、心の中で舌を出してまたも残念な振る舞いをするのか。

 だけど少なくとも、わたくしの方からアンリと白木に攻撃を仕掛けることはない。お嬢様は過去を気にせず、流麗可憐にあり続ける存在でなければならないのですわ。


 ……ん。


 ふふっ。だったらやっぱり、お嬢様って最強キャラじゃない!


 通学路には誰もいなかった。そりゃそうだ。まだ六時にもなっていない。

 パンパンパン、と原付のエンジン音が聞こえる。空気が湿って、肌にへばりつく。


 だけど、待ち続けた。

 わたくしはずっと待ち続けた。この道を通る、たった一人の女の子に会うために。


 ちぎれた雲がぷかりぷかりと空を漂っている。けして浮かんでいるのではない。よーく見れば、雲はじっくりと動いている。季節も、時間もそうやって流れていく。

 ただ、ここにいる自分は今だけを生きている。




「あれ? リコピン? ……リコピンだああああぁぁぁっっ!!」

 わたくしは道の先を見た。

 ハヘ子さんが走ってくる。その道には青々とした稲がびっしりと並んでいる。カメラがあれば最高に絵になる場景だ。ハヘ子さんの髪が風と同じ形になっていて……きれい。


 ハヘ子さんと会えるまで、あと50メートル。

 彼女の足ならほんの数秒で到達するだろう。

 なにを言おう。どんなふうに挨拶をしよう。


 ねえ、璃子。一番正しい言葉ってなんなのかな?




 そういえばかつて、わたくしは祖父江に注意したことがある。

「あなた、タバコをやめて下さらない? タバコ臭いですわよ」って。

 そしたら祖父江の奴。

「そうだよな。臭いかもしれねーな。ただ、この世界が全部いい匂いだけでできてるわけじゃない。でも、だから、この世はサイコーなんだ」

 そんな生意気なことを返してきた。




 だから言うんだ。わたくしは言う。

 彼女への朝の挨拶は、これ以外にない。




「グッドモーニング、ハヘ子さん――」




                                   了

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グッドモーニング、ハヘ子さん いっさん小牧 @issan-komaki

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