最終章Final(わたし、リコピンが好きっ!)

 白木しらきは「くっ……くっ、くっ、くっ」という忍び笑いの後、

「……戸田とださん」

 震えた声で、ハヘ子さんの名前を呼んだ。


「戸田さん……戸田さんっ……」

 何度も、何度も呼んだ。


「これからはみんなで仲良くしようね」

「ぼ、僕は……」

 白木は汗まみれの瞼から、さらなる水っ気をワスレナグサの紫の花弁の上に落とす。


 ハヘ子さんはくるりと振り返って、祖父江そぶえの手をがっしりと握った。

とおるくんありがとう! すごくかっこよかった!!」

「お、おうよ、喜んでもらえたんならそれで俺もよかっだ……がじっ!」

 あいたたたあ! 祖父江は舌を噛んだようで、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。


 まったく、うまく締められない男ですこと。でも、それが祖父江徹の魅力でもある。


 わたくしは、なんだかもう、どうでもよくなってしまった。ハヘ子さんの元気な姿を見て、わたくしの怒りや恨みは蒼穹そうきゅうの彼方に消え去ってしまったみたいだ。だから白木の末路なんかよりも、今は千乃ちのの心の方が気にかかる。


 千乃はわたくしの横で、まるで処刑台に向かう死刑囚のように顔を強張らせていた。


 ……そんな顔、しないで下さいよ。


 そんな顔する必要なんか、どこにもないでしょう? ねえ、千乃っ!!


「千乃っ!」


 わたくしは千乃を強く抱き寄せて、

 よしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよし。


 千乃の髪をぐっちゃぐちゃにすると、いつものくせっ毛が輪をかけてひどくなった。


「これでおあいこです! そしてあなたへの罰です。これからはどうしても譲れないことがあったらわたくしに相談しなさい! 一人で……一人で思い悩んではだめなのです。だって、だって、千乃なんですもん。千乃なんですもんっ……!」

 すると千乃の目頭から、涙がぶわっとあふれ出した。

「お、お嬢様……」

「千乃、あなたが涙を流すというのはお門違いです。今回の件はわたくしが一番罰せられるべきなのです。さあ千乃、今からわたくしに罰を与えなさい」

「ば、罰、ですか?」

「そうです。あなたもわたくしの髪を無茶苦茶にしてよいのです」

「では、遠慮なく」


 千乃の手が、


 寸分の間も置かず、


 するりんとわたくしの胸元に伸びてきた。


 わし――っ!


 もみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみ――――ッッッ!!


 ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――っ!!


 胸が天を向いたり、潰されたり。とにかく、思うがままに揉みしだかれた。


「お嬢様、堪能させていただきました」

 はあはあと荒い息をつくわたくしに向かって、千乃は満足げに言う。

「素晴らしい弾力です。そしてやっぱりお嬢様はお嬢様でした。色々ありましたけど……やっぱり私の大好きな、お嬢様でした」


「千乃」

「お嬢様っ」


 千乃と固く抱き合った時、わたくしの頭の中にある考えが浮かんだ。

 わたくしは生徒会の活動で色んな高校と交流をしている。つまり、情報を交換しながら生徒会の活動を行っている。もしかするとその中には、吹奏楽部のある高校も含まれているのではないでしょうか。だったら、その高校の先生に訊いてみよう。「クラブ活動に当校の生徒も混ぜていただけませんか」って。

 すぐには受け入れられないかもしれないし、断られ続けるかもしれない。それでも千乃が吹奏楽をできる日が訪れるまで、わたくしは色んな高校にお願いをしてみようと思う。


 そんなことを一生懸命考えていたら突然、割れた風船みたいな声が背後に響いた。

「戸田さんっ!」

 声の主は、さっきまでうなだれていたはずの白木だった。


「なに、白木くん?」

「僕は、きみに救ってもらった」

「ううん、いいんだよ。みんな、おっきなケガしなくてよかったね」

「違う。そうじゃない。僕はきみのおかげで……」


 ふん。白木はとことん虫のいいことを言う。


 なにが「そうじゃない」だ。

 なにが「きみのおかげ」だ。


 救ってくれた目の前の女の子を、お前はさっき乱暴に力でねじ伏せていたじゃないか。


「僕はきみの……」

 そこで、白木の言葉はしばらく止まった。言おうとしても言えないようだった。


 白木が今なにを言いたいか、わたくしにはわからないようで、わかる。


 白木は祖父江に渾身の力で殴られかけたが、すんでのところでハヘ子さんに止めてもらい、ケガをしなくて済んだ。つまり彼の『身体』は救われたということになる。

 しかし白木が言いたいのはそれだけではない。白木はきっと『心』をもハヘ子さんに救ってもらったのだ。金にものをいわせ、相手を服従させてこそ赦しが得られる――そうやって累々と築いてきた白木の人間関係の中では、ハヘ子さんみたいな人はこれまで現れなかったに違いない。

 白木なんて祖父江に叩きのめされてしまえばいい。わたくしはそう思っていた。それなのに襲われた張本人であるハヘ子さんが、ゆるしを送った。こんなの、白木にとっては衝撃的すぎる出来事だろう。


 だけど白木はまだまだ目が覚めていないようで、また馬鹿なことを言い出した。


「きみの求めるものならなんでも手に入れてやる。きみが行きたいところならどこにでも連れていってやる。僕には金がある。なんだってできる。きみだけのために金を使うよ」


 はーぁ……。わたくしは白木の前で屈み、腰に手を当てる。


「白木、まだわからないのですか。お金で幸せは買えないのですよ」

「いや、加賀谷かがやさん、僕はきみが思っているよりもずっと金をもっている。だからきみの枠では捉えられないくらいの幸せを戸田さんにプレゼントすることができるんだよ」

「ふーん。白木のお父様はたしか、どこか有名な会社の社長さんでしたわね」

「あ、ああ、一部上場してる、フェリー海運っていう会社だけど……」

「フェリー海運ですか。あなた、会社の株価の動きに注意なさい」

「え……?」

「敵対的買収劇もあるって意味ですわ」

「買収? そんなの、誰がするんだい」

「さあて。どこかの誰かかもしれませんし……あなたの目の前の女かもしれませんよ」

「加賀谷さんが? いやいや、別に今お嬢様ごっこをやらなくったって……」

「違うよ、白木くん。『ごっこ』じゃないんだよ」

 ハヘ子さんが、割って入った。


「リコピンのお家、すごいよ。地下三十階まであって、お手伝いさんが百人もいるんだ」

「戸田さん?」

「わたしも最初はびっくりしたよ。でもわたし、リコピンの家に行ったんだもん。室内楽団の人、いたんだもん。それに、おいしいからあげを食べさせてもらったんだもん」


 ずざざ。祖父江の後ずさりする音が聞こえた。

「お、お嬢様ってのは、マジだったのか……」


「な、なら買収っていうのも、ほ、本当なのか?」

 白木は、顔中に玉の汗を浮かせている。


「……嘘です。そんなことはしません」

 わたくしは目を閉じて首を振り、すぐにまた瞼をカッ! と見開いた。

「でも、あなたが撮影したわたくしの写真は消しておいて下さいね。でないとやはり、しかるべき罰を与えないといけなくなりますから」

「う、うん……」

「必ずですよ?」

「い、今やるよ……」


 白木は携帯を取り出し、なにやら操作をし始めた。どうやらわたくしの写真のデータを消去しているらしい。もちろんわたくしからは、彼が具体的にどんな操作をしているのかどうかは見えない。ただ、白木の手が小刻みに震えていることから、わたくしは白木が恐怖を感じていると知り、同時に白木の最低限の良心を信頼することにした。


「消したよ」

「よろしい。では白木に一つ教えて差し上げましょう。お金があるだけでは幸せにはなれないのです。たしかにお金は幸せをもたらす道具の一つなのですが、実はもっと大切なものがあるのですよ」

「そんなものが、あるのかい? まさか……」

「あります。あなた、自分自身の幸せがなにか、その頭に思い浮かべてごらんなさい」


 それは、わたくし自身に向けての言葉だった。


 ちょっと前までは知らなかったこと。


 千乃と祖父江と……そしてハヘ子さんと一緒に過ごす中で、わかってきたこと。

 喉をついてすらすらと出てきたそれは、わたくしの、わたくしにとっての正解だった。


「本当に大切なのは、幸せに向かって行動するということなのです。ね、hiwahiwa(ヒヴァ ヒヴァ) Chino、Sobue、Hahekosan――」


「ひわひわ? なんだよ、そりゃ。まさか悪口じゃねーだろーなぁ」

 祖父江が苦笑を噛み殺して、言う。

「ふふ。ハワイ語ですのよ」

 要領を得たのかなんなのか、白木は自分の胸の辺りをゆっくりと撫でている。

「ぼ、僕の幸せは……」

「そう。もし見つからなければゆっくりと探せばいい。そのための、毎日なのです」

「いや、僕はもう、見つけた。千乃さんには謝って許してもらえるとは思ってないし、こんな僕の顔でよければ何回でも殴ってもらいたい。だけどこの、今の気持ちは、本物なんだと思う……僕は、戸田さんという幸せを掴みたい」

 そしてハヘ子さんを真っ直ぐに見て、言葉を奏でた。


「僕は、戸田さんのことが、好きだ」


「ば、ばっか……」

 祖父江は髪の毛を逆立たせ、肺の容積の限り吸いこんだ息を、吐く。


「ばかやろおめええええ! 俺だって、てゆーか、俺こそがハヘ子のことが好きなんだよおおおおおおおおおごるああああああああああああああ――――――――っっ!!」


 え? うそ?


 今言う? こんなとこで? 二人ともおかしくない……?


 わたくしはハヘ子さんの方を見た。

「は、はへえぇぇぇぇ?」

 ハヘ子さんの身体は頭のてっぺんからつま先まで、ぴしーっと硬直していた。

 やがてその硬直が解けると、ハヘ子さんは両手の人差し指同士を合わせてもじもじとした。顔は桃よりも真っ赤(いや、もうこれはピンクに近い色)に染まっている。芝生にダイブした。すぐに起き上がる。天を仰ぐ。くるくると回った。目をまわしたらしく、またばたんと倒れた。間髪入れずに起き上がる。自分のほっぺをギュウとつねって、

「は、ハヘええええええええええええぇぇぇぇぇ――――――――ッッッ!!」


 ほにゃほにゃもちゃらん。ハヘ子さんの顔が七変化する。


 けれど今回の一発芸はいつもと違って、なんというか、すごくキュートだった。女のわたくしから見ても。恋って、こういうものなんだ。


「戸田さん! 僕を選んでほしい。こんな不良と違って、僕はきみを大切にする!」

「ハヘ子! 俺だ! 俺を選んでくれ。卑怯な奴とか犯罪者もどきはやめとけ!」


 なにを!

 このやろ!


 白木と祖父江の間に火花が飛び交う。


 するとそこで、ハヘ子さんはようやくまともな言葉を吐いた。


「二人ともありがとう。あのねあのねあのね。わたし、すごく嬉しい。でも、わたしは、だめなんだ」


「どうして!?」

「なんでだよ!」


「わたし、昔からおかしいんだ。心がね、おかしいんだよ。みんなに相手にされないのが怖くていつも変なことしちゃうの。大げさなことも言うし、たまには嘘もついちゃう。それでみんなに注目してもらえるからやっちゃうんだ。それ、病気だって言ってた。保険の先生が。心の病気なんだって……」

 ハヘ子さんは、悲しそうに笑った。


 しかし。


「違うよ戸田さん!」

「そうだ、なにが悪いんだ!!」


「え……?」

 祖父江と白木は頬がぶつかるくらいに顔を近づけて、ハヘ子さんに迫る。


「そんなの病気だっていう方がおかしい! 人にはね、個性というものがあるんだ。もし病気の本に載ってるような症状を全部抑えたら、正常な人間になれるとでもいうのか? 違う、そんなのぺらぺらの人間じゃないか! 人には、個性があるから面白いんだよ」

「そ、そうだ。こいつと意見が合うのは癪だが俺もそう思う。それにハヘ子が大げさなことを言ったり嘘をついたとしても、それって誰かを傷つけようとしてやったことなのか? そうじゃねーだろ。みんなに楽しんでもらえるようにって。そう思ってやったはずだ」


「……ごめん。ごめえん。ごめんなさい」

 ハヘ子さんは目をぎゅうとつぶった。なにを思い出しているのかはわからないが、頭の中にはこれまでのたくさんの出来事が去来しているはずだ。

「ごめん。みんな、ほんとにごめん。わたし、わたしなんて……」


「泣かないで、戸田さん」

「泣いたら白木をぶっ飛ばすぞ!」

「ええ? 今、僕関係ある!?」


「とにかく俺とつきあってくれ! 俺はどんなことがあっても絶対お前を護ってやる!!」

「戸田さん、僕にはきみが必要なんだ。ほんとに僕自身と向きあってくれたのはきみが初めてなんだよ。だから、僕の恋人になってくれないか」


 依然、求婚は続く。


 よかったですわね、ハヘ子さん。わたくしはこの二人の間に入れないから心の中で言わせていただきますけど、わたくしはあなたに謝らなくてはなりません。


 わたくしはあなたのことを嘘つきだって言ったでしょ。それはね、わたくし自身がずっと言われてきたことなのです。だからあなたを見ていると、なんだか自分自身が目の前にいるような気がしたのですよ。


 あなたを嫌ってしまって、ほんとにごめんなさい。

 あなたの心はとても魅力的です。みんなを幸せにする、そして、包みこめる。そんな心だと思うのです。


 ……と考えたところで、わたくしの中に新しい疑問が生じてきた。

 それは、ハヘ子さんが祖父江と白木のどちらを彼氏として選ぶのかということだ。


 普通に考えたら、祖父江だ。一択だ。間違いない。

 こういう強い男に護ってもらうのは女の子全員の夢だ……と少女漫画には書いてあったし、それに今なら自分自身でもそう思っている。


 だけど白木もなかなかの難敵だ。元々ハヘ子さんは白木のルックスや爽やかさを気に入っていた。すなわち白木はハヘ子さんの片想いの相手なのだ。それに今の「きみが必要なんだ」というセリフは、ハヘ子さんの心の構造からしてかなりの効果をもつに違いない。


 これは難しい。いったいハヘ子さんはどっちを選ぶんだろう……。


 ハヘ子さんは声を失くし、ただただ泣いていた。

 懺悔のような気持ちもあるかもしれないが、たぶん、認められて嬉しいからだろう。


 ハヘ子さんは泣き続け、それを祖父江と白木がせっつく。

 わたくしは見ているうちに、次第にいらいらとしてきた。

 早く選びなさいよ。こういうの、あまり待たせるものじゃありませんわよ。


 いらいらいらいら。

 いらいらいらいら……。


 限界を突破。ついにわたくしは、腕組みをしながら叫んだ。

「ハヘ子さんっ! 早く選んで差し上げなさい!」


「り、リコピン」

「待たせてはだめ。あなたの、今の正直な気持ちを言えばいいのです」

「そんなこといっても、やっぱりわたし、恋愛とかよくわかんないよ。どうやって選んだらいいの? 難しいよう」

「いえ、簡単です」

 わたくしはきっぱりと、言う。

「あなたがこの先も! ずーっと、ずーっと一緒にいたい人の手を取ればいいのです。それがあなたの好きな人なのですから!」


 ハヘ子さんは右手を胸の前に出し、虫眼鏡で光芒こうぼうを集めるように見つめた。祖父江と白木の生唾を呑む音がここまで聞こえてくる。


 どうやらこれで解決しそうですわね。さあハヘ子さん、手を差し出してあげなさい。

 ハヘ子さんは、うん、と一つうなずいた。


 そしてダッシュ。それは猛ダッシュだった。チャイムの音を聞いて教室に飛びこむ生徒みたいに、なりふりかまわない一本の輝線。

 そしてハヘ子さんがしっかりと掴んだのは――、



 わたくしの手、だった。

「じゃあリコピンを選ぶ。わたし、リコピンが好きっ!」


 

 ……は。

 はへええええええええ――――――っっ!?



 まず白木がふらりとよろけ、草むらにぶっ倒れた。

 祖父江は頭に両手をやり、膝をつき、がっくしとうながれる。もちろんOTLって感じ。

 ハヘ子さんの顔が太陽よりも眩しい。わたくしはその光にあてられる。

 千乃はといえば、それを見て狂ったように大笑いしていた。


 モズの羽ばたきが駆け抜けて、あっという間に夏になる。

「はへーっ!」ともう一度言ってみた。今度は狙って言ってみた。ちょっと笑えた。

 でもやっぱり、夏は夏だった。じりじりと照りつける太陽はいっそうその迫力を増す。


 ハヘ子さんはいつまでも、握った手を離さない。

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