最終章④(私、強制されたんですよ)

「誰、誰なのですっ!」


 叫びながら、ハヘ子さんの身体を、頭を打たないように気をつけながらそっと離す。

 わたくしは直ちにハヘ子さんを襲った犯人を見やった。

 だがその視線の先には、にわかには信じられない人物が立ちはだかっている。


 わたくしの前に仁王立ちしているのは、短い竿を右手に握った、千乃ちのだった。


「千乃? 千乃っ!?」

「…………」

「千乃、あなたどうしてこんなことを? いえ、その前になぜここにいるのですか?」

「……たくて」

「……え? き、聞こえません。もう一度おっしゃって下さい!」


 千乃の様子がおかしい。目が決定的に変だ。あのいきいきとした目ではなく、まるで命をもたない宝石に変わってしまったようだ。


「お嬢様、私は白木しらきくんの役に立ちたくてここにいるのです。しかしそれだけじゃありません。私はお嬢様に、どうしてもうかがいたいことがあるのです」

「な、なんですの」


 千乃の発言の意味がまったくわからない。それに、こんな状況で質問だなんて……いったいどういうこと?


「私を、どうして無理やり三編みあみ高校に通わせたのですか?」

 千乃はそう訊いて、小首を傾げた。

「無理やりって……それは、あなたが望んで受験したのでは……」

「違います。お嬢様が命じられたから、私は三編高校に通うことになったのです。もしなにもおっしゃらなければ、私は吹奏楽のできる高校に進んでいたでしょう」

「それならそうで、違う高校に行きたいとおっしゃればいいじゃないですか。別にわたくしが頼んだからといって、そのとおりにしなくても……」

「……ふ。お嬢様、あなたはご自身が周りにどれくらいの影響を与えているかわかっているのですか? あなたがおっしゃったことは私の父の耳にも届きました。だから強制されたんです。三編高校を受けるようにって。私、強制されたんですよ」

「そんな……」

「ほんとはみんなと吹奏楽をやりたかった。それが、私自身だったから」

「私自身?」

「そうです。自分の力で、自分の責任だけで、自分の音を出す。音を、つくる。これ以上に私自身を表現できる方法がありますか?」

「そんなっ!!」

 大声を出してしまった。


 と同時にリビングの扉が開かれ、その先には白木たちの姿。白木は、手枷足枷を外しているわたくしを見て少し驚いたようだったが、わたくしが千乃に睨まれたまま床に座りこんでいるものだから、すぐに余裕の笑みを浮かべた。


「さすがは千乃さん。ありがとう」

 白木が千乃の肩をぽんぽんと叩いてそう言うと、

「白木くん……」

 千乃は白木をガバッと抱き締めた。白木は千乃の背中を優しく、優しく、撫でる。

 どうして? どうして千乃と白木が抱き合っているの?


「白木、あなた、千乃になにをしたのですか?」

「うん? いや、別に? ミルクを飲んでもらっただけだよ」

「う、嘘おっしゃい!! ミルクを飲んだだけで、千乃がこんなにおかしな状態になるわけがないでしょう!!」

 すると白木は、ぺろりと舌を出して自分の頭を叩いた。

「あー、忘れてた。そうそう、『カルーア』がつくミルクだったっけなあ」


 カルーアミルク……それは、お酒じゃないか。ものによってはビールのアルコール度数の二倍を数えるとも聞く。おいしいという評判も高いし、きっと千乃ことだ、なにも知らないまま白木に勧められて呑んでしまったのに違いない。満足げに目を細める千乃の姿が容易に想像できる。


「千乃さん、ほら、今なら言いたいだけ言っていいんだよ」

 白木の言葉を受けて、千乃は再びわたくしの方を向いた。

「私はいつも、二番以下なんだ」

「へえ。二番以下って、どういう意味だい?」

 白木はおそらく意識的に、千乃の言葉の引き出し役になろうとしている。

「お嬢様はいつでも一番大事にされる。私の誕生日の時だって、仕事から帰ってきた父は私ではなくお嬢様の一日の方を気にしていた」

「うんうん」

「どんなケーキを買ってきてくれたか。学校でみんなとどんな話をしたか。プレゼントにはなにが欲しいか。そんな話をしたかったのに。それより先に口をついて出てきた言葉が『お嬢様は困っていないか』とか『千乃、なにかあったら力になってあげなさい』だぞ。目の前に私がいるのに! 帰宅した父をねぎらっているにも関わらずだ!」

「それはひどいねえ。千乃さんのお父さんは少し、思慮不足だったんだね」

「学校でも私は二番以下だ! お嬢様ごっこをやっている、と周りに馬鹿にされるぶんにはかまわない。だが私はいつも腰ぎんちゃく扱いだ。それでも気にしない振りをした。私がどれだけお嬢様のサポートをしてきたか。お嬢様を護ってきたか。自分のやりたいことを差し置いて、同じ高校に通って、生徒会に入ったじゃないか!」

「千乃さんはこんなに素敵なのに」

「そんなふうに言ってくれるのは白木くんだけだっ! 屋敷の住人は皆、お嬢様の美貌を誉めることはあれど私を誉めてくれたことなど一度もない!」

「よしよし」

 白木は千乃の髪を手櫛で梳かす。

「なにが『加賀谷かがや家の人を尊敬しなければならない』だっ! なにが『お嬢様のお言いつけでしたら、喜んで』だっっ!!」

「千乃……」


 わたくしは、胸が痛くなった。自分が周りにどれだけの影響を与え、そして千乃を傷つけてきたかを感じていた。千乃がこんなふうに胸の内をさらけ出したのは、これまでに一度もない。熟慮断行をモットーとする千乃がお酒なんかを呑まされるなんて、千乃はこれまでに堆積たいせきした鬱憤うっぷんをもう制御しきれなくなっていたのだろう。


 しかしおかしな話ではあるが、わたくしは同時に、千乃の透きとおる優しさをも受けとった。千乃は自分のお父様に相手にされなかったことやクラスメイトに馬鹿にされたことを憎々しく語ったけれど、わたくし自身への悪口はほとんど言わなかったからだ。


 ただ一つ。吹奏楽ができる高校に進学したかったという点を除いては。


 放課後に聞こえてくるあの音は千乃の心の叫びであり、魂を乗せたものだった。

 なんの気なしにお嬢様『らしく』なんて考えて、わたくしはどうして千乃に同じ高校に来るようになどと言ってしまったのだろう。なぜ彼女を傷つけてしまったのだろう。


 わたくしは千乃のことを、たった一人の完全なる味方だと思っていた。なにがあっても自分を裏切らない、完全なる味方。

 でも違った。今思い返せば、違った。わたくしには味方がたくさんいた。お父様、お母様、お兄様、夢野さんを始めとする屋敷の方々。学校の友達、祖父江、ハヘ子さん――。

 同時に、誰もが『完全なる味方』ではなかった。それぞれに人生がある。やりたいことがある。考えたり、苦しんだりしている。人はもっと複雑な生き物だというのに、わたくしはそれを単純に考えすぎていたのだ。馬鹿だった。加賀谷璃子は誰よりも大馬鹿者だ。


 ガクリとうなだれるわたくしのこうべに、白木の声が降ってきた。

「おい、さっきの騒ぎを聞いて誰かが来るかもしれないぞ」


「場所を移しましょうか?」

 小椋おぐらの提案に、白木はしばし黙考の後、うんとうなずく。

「そうだな。よし、『小屋』にしよう」

「わかりました。車を用意してくるっスね」

 山崎やまざきはハト時計のように首を突き出し、ハヘ子さんを背負おうとする。

「あ、あなた! 汚らわしい手でハヘ子さんに触らないで!!」

「おおっと加賀谷さん、静かにしてくれないかな。ほら、わかるだろ?」

 白木は手で拳銃の形をつくり、それを千乃の後頭部に当てた。ぼおっとしている千乃の眼球は安定しておらず、上下左右に細かく動いている。白木は千乃を盾にする気だ――。


 わたくしは押し黙った。本意ではないが、ハヘ子さんに続いて千乃まで傷つけるわけにはいかない。それに千乃の心は今、白木でいっぱいになっている。それなのにもし白木に傷つけられたら、彼女の心はどうなってしまうか……わからない。


 わたくしは苦渋ながら、白木たちに従った。白木と小椋に挟まれる形で歩き、マンションの一階まで下りる。先回りして車の準備をしていた山崎は、「先月免許とったばかりだろ? 安全運転でいこうぜ」という白木の言葉に「ういっス!」と元気よく返事をした。


 車に乗ってすぐ、わたくしは目隠しをされた。さっき猿ぐつわに使われたタオルだ。自分自身の甘い香りがする。仮に売れてもサードシングルをリリースする頃には消えていそうなくらい陳腐なパンクロックが、オーディオから流れてきた。車は、動き出す。

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