最終章③(この世界を変えてしまう。かもしれない。)

 窓が開かれる。


 部屋の中の鬱屈うっくつが全て、七月の空にばら撒かれる。飛行機が離陸した後みたいな風の渦が侵入してきて、部屋中をめちゃくちゃにした。


「うああああ! リコピン、リコピン、リコピン! わあああああああああ!!」


 ハヘ子さんは部屋に入ってくるなり、テーブルにぶつかった。ふらふらとして、次はソファーに脚をとられる。そこで一回倒れこんだが、すぐに立ち上がり、ただ真っ直ぐにわたくしのところへ向かってきた。

 ハヘ子さんはバッグから裁縫用の小ハサミを取り出し、わたくしの腕に巻かれた結束バンドを断ち切る。脚のロープをほどき、口に巻かれたタオルも外してくれた。


(ハヘ子さん)


 彼女の名前を呼ぼうとした瞬間、ハヘ子さんの鼻頭まで真っ赤にした相貌そうぼうがわたくしの顔に急接近した。なにをするのかと一瞬たじろいだが、彼女のべろがわたくしの唇を舐めた後は、わたくしはもう、ハヘ子さんのなすがままになっていた。

 ハヘ子さんは目を閉じながら、丁寧にわたくしの口元のクリームをべろでぬぐった。舌先があったかくて柔らかくて、わたくしはいつしか目を閉じていた。ほんのちょっぴり、唇を開こうかとも考えたのだけど、そうするとなにかの一線を越えてしまうようで怖かった。わたくしは、最後の一滴を舐めとられるまで、彼女の舌に身と心の全てを委ねた。

 全ての消毒が終わると、ハヘ子さんはわたくしの胸に頭を押し当ててきた。わたくしはためらいなく彼女の細い身体を抱き締める。二人で抱き合い床の上をごろごろと転げた。上になる身体と下になる身体が目まぐるしく変わる。顔を近づけて、頬を合わせた。


「ごめんね、リコピン」

 ハヘ子さんが、わたくしの耳元でささやいた。


 わたくしはハヘ子さんが今やった行動を咎めようとは考えておらず、どちらかというと思い出すのも恥ずかしかったので、単に彼女が今ここにいる経緯だけを尋ねた。

「あなた、どうしてここに?」


「ごめんね、リコピン」

「…………」

「ごめんね」

「……どうして?」

「リコピンの跡をつけてたんだ。今日だけじゃないよ。ずーっといたんだ、わたし。変だよね。気持ち悪いよね。でもね、リコピンに謝りたくて。勇気が出なくて……」

「……ふふふ、白木しらきの家のベランダにも、いたんですね」

「わたし最初、白木くんの家の外にいたんだ。そしたら家の中からリコピンの叫び声が聞こえてきたからびっくりしたよ。白木くんと男の子が二人出てきたけど、リコピンだけが出てこないから心配になって近くの部屋に入ったんだ。それで、そこからベランダを伝ってきたんだよ。えへへ……知らない人の部屋に勝手に入っちゃダメなのにね」

「……近くの部屋に? どうやって……?」

「ごめん、リコピンと白木くんの話してたこと、聞いちゃったんだ。ドアの前の機械に出てくる数字を掛けたり割ったりしたらいいんだよね?」

「え……?」

 たしか白木は、「人間には不可能だ」と言っていた。

 それを、ハヘ子さんがやったっていうの? わたくしはぽかんと口を開けた。


「あなたの頭の中、いったいどうなっているのですか」

「へへん、計算は得意なんだもんね」

「でも、おかしいですよ。それなら、どうしてテストの成績があんなに悪いのですか?」

 ハヘ子さんは口をつぐみ、瞬きを忘れたようにこっちの目を見てくる。完成された双眸そうぼうに心を奪われそうになる。ハヘ子さんはにっこりと笑い、虚脱きょだつを含んだ声で言った。

「わたし、見えないんだ」


「見えない?」

「うん。苦手なものとか、嫌いなものとか、見えないんだよ。どうしてかなあ」

「は、ハヘ子さんは盲目だったのですか?」

「違うよ、見えるよ。見えるんだけど、怖いものとか、そういうのだけ見えないんだ」


 聞いてわたくしは思い出した。

 ハヘ子さんがこれまで「変な子」と言われ続けてきた、そのわけを。


 ハヘ子さんはよく人にぶつかっては「なにしてんだ」とか「邪魔よ」と叱られていた。大抵、不良とかよくないウワサがある人とかにぶつかった。


 教室で、ハヘ子さんが蜂に刺された時があった。ハヘ子さんの手の甲はぷっくりと腫れ上がっていたが、あれも自分に害をなす蜂が見えなかったから刺されたに違いない。


 ……だとすると、アンリは?


 そうだ、ハヘ子さんはアンリの髪型を知らなかった。あれだけ毎日顔を合わせていたのに、いじめてくる相手の髪型を知らないなんてことがあるだろうか。


 それに彼女はついさっきも白木の部屋のテーブルやソファーに足をとられていた。ハヘ子さんが言っていることは今、わたくし自身が目の当たりにしたばかりである。


 であれば、ハヘ子さんの成績の低さにも納得がいく。テストの中にはいじわるな問題があるが、それらの問題はハヘ子さんには見えないんだ。嫌いな先生のテストだったら、問題全てが見えなかったということもあっただろう。すなわちハヘ子さんはこんなにも頭の回転が速いのに、それを成績という形では残せなかったのだ。

 わたくしは息を呑みながらも、意を決して訊いた。


「あなた、わたくしの顔は見えますか?」


 もしもハヘ子さんがわたくしの顔を見られないとしたら、それはつまり……。


 ううん、そんなことあるはずない。と思う……。


「見えるよ」

 ハヘ子さんは、しっかりとわたくしの目を見据えてくれた。

「リコピンの髪、きれいだもん。ほっぺた、すべすべしてるもん。わたし、リコピンのこと、好きだもん――」


 よかった。安心した。わたくしはほっと胸を撫で下ろす。


 と同時に、別の嫌な妄想が頭の中を駆け巡った。まさかとは思うけれど……。

「で、では、自分の顔は……?」


「えへへ……それがわたし、見えないんだよね、自分の顔が」

 ハヘ子さんは、目元をごしごしとこする。

「ねえリコピン。わたし、どんな顔をしてるの? 目は大きい? 鼻は高い? 口はたぶん変じゃないと思うけど……。でも、かわいかったらいいな。美少女だったらいいなぁ」


 わたくしは唾をごくんと呑み、その勢いは涙腺へと伝わった。


 涙が、


 自分が傷つけられた時以上に、


 ぼろぼろ。ぼろぼろぼろぼろぼろぼろ……。


「リコピン?」

「あうっ……だ、だめです……泣くのは、だめなのに……」

「リコピン!」


 かわいいかって? 自分の顔がかわいいかって?


 かわいいどころじゃないわよ。そんな簡単な言葉でいえるもんか。あなたは誰よりも美少女なの。いや、目鼻立ちが整っているだけじゃない。あなたの笑顔は、誰もを幸せにしてなにもかもを包みこんでしまう。それほどの威力をもっている。なのに。なのに。


 バカ! とんま!


 まぬけ! ぐずっ!


 あなたが一番美少女なのよ! どうして見えないの? どうして!? バカっ!!


「リコピン、泣かないで」

「うん……うん……」

「ありがとう、リコピン。泣いてくれてありがとう。さ、逃げよ?」

「……はいっ!」


 わたくしはもう一度だけ、ハヘ子さんと転がった。折れそうな身体がわけのわからないくらいに温かかった。どんな猛暑だってこの熱さには勝てない。爆発しそうな心が一つ、ハヘ子さんの身体の中に隠されている。大きな入道雲が地平線から迫ってきていた。

 二人して死ぬほど笑顔になった。この世界を変えてしまう。かもしれない。


「ね、リコピン」

「どうしましたか?」

「また、わたしと仲良くしてほしいな。わたしの心はすぐに治らないかもしれないけど、大げさなことはしないようにするし、リコピンの言うことだって聞くようにするから」

「そんなこと――」


 ガツッ――!!


 わたくしが答えようとしたその瞬間、ハヘ子さんは後頭部に強烈な一撃をくらわされ、目を見開いて、やがて閉じた。彼女の身体はぐったりとなり、わたくしの膝の上にのしかかってくる。


 何者かが、ハヘ子さんの背後で気配を殺していたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます