最終章②(嘘つきだって言われた。それが悔しかった。)

 わたくしの耳を、部屋のしじまが打つ。


 今自分がどこにいるのか、よくわからなくなる。海の底に潜っているようでもあるし、宇宙の真ん中で浮遊しているようにも思える。よく耳を澄ませば、どこかでヘリコプターが飛んでいるようだ。ヘリコプターの運転士はいったいどんな景色を見ているのだろう。


 だけどわたくしは諦めなかった。


 手足は動かせないものの、腰の辺りに力を入れればなんとか転がるくらいはできる。玄関までたどりつければドアを蹴り飛ばして隣近所の住民に気づいてもらうことも可能かもしれない。だが手足の自由が利かないためスピードに乗ることができず、玄関に続く扉を開ける威力を有するには不十分だった。何回トライしても、だめだった。


 そうこうするうち、妙なことに部屋の空気が変な匂いに満ちてきた。ミントを鼻腔に直接当てたような刺激臭が口に落ちず、脳へと上っていく。おそらく呼吸困難の中で身体を酷使したから、軽い酸欠状態に陥っているのだ。


 ヘリコプターの音が鮮明に聞こえた。羽根の回転の一つ一つが手に取るようにわかる。あの回転の音にはなにか意味があるのではないか、とも思えてきた。


 今わたくしが白木しらきの家にいるのは全て夢なのだ、と気づく……というような夢を見ていると気づく……というような夢を見ていると気づく……というような夢を……。


 自分の身体が、心が、幾重にも重なり、それを観測している自分がいる。さらにその自分自身も誰かに観測されている。よく考えると、観測しているのは自分だ。ミクロからマクロまで、加賀谷璃子が無数の層をなしていて、それ全部に意識がある。


 …………。

 ………………。


 まずい、と理性が言う。


 今となってはそれが理性なのか、狂気なのか、よくわからない。

 でも、まずい。今のままではまずい。そんな声が、たしかに、ある。



『嘘つき――』

 誰かが、言った。



『璃子は嘘つき』

『お嬢様とか、もういいから。なんで嘘をつくの?』

『そんな嘘ばっかりつかなくてもいいよ。わたしたち、友達じゃない』

 やっぱり誰かが言って、愚かな涙がまた、わたくしの瞼をノックしてきた。



 小さな頃は、自分がお嬢様だなんて知らなかった。

 でもいつだったか、綾乃あやのちゃんとハワイの話をして、自分がお嬢様だとわかった。


 嘘つきだって言われた。それが悔しかった。お嬢様だとか、そうでないとか……そんなのはどうでもよかった。とにかく、嘘つきじゃないって大声で叫びたかった。


 だから必要以上にお嬢様であるような振りをした。それは今も変わっていない。生徒会長という役職はわたくしのアイデンティティを保持する最後の砦であり、この職務を果たすためならいかなる犠牲を払おうとも、時間を費やそうとも、一向にかまわなかった。だからこそわたくしは当初、執拗なほどにハヘ子さんと祖父江と関わろうとしてきたのだ。


 たかが生徒会長、と言ってくれるな。


 たかが思い出の一つ、と片付けてくれるな。


 嘘つきなんかじゃない。わたくしはれっきとした最強キャラ、お嬢様なのだ。


 ……だけど、自分がお嬢様であることで、あろうとすることで、周りにはどんな影響を与えたのだろうか。


 お父様に。お母様に。夢野ゆめのさんに。屋敷の方々に。


 お兄様はお金持ちの家に生まれたことで、自分は他の人とは違うと思いこんだらしい。心はおかしくなり、お兄様は自分の話しかしなくなった。他人の話に興味をもてなくなったのだ。それがわかったのは、わたくしが中学校に上がった時だった。だからわたくしはお兄様と『決まりごと』の時間を設けた。お兄様がわたくしの話を一方的に聞くことでお兄様の心の治療を行おう、という取り組みだった。


 でもわたくしはお兄様とは違う。自分自身の力で、周りの人間に溶けこめたはず。

 祖父江そぶえはいつも普通に接してくれるし、千乃ちのもわたくしを愛してくれている。


 千乃も……? きっと、千乃も。



 ゴン……ゴン……ゴンゴンッ。


 誰かがわたくしの頭を叩いた。誰なのかなぁ……まあ、誰だっていいや。


 ゴン! ゴンゴンッッ!


 はっきりと聞こえる。


 ……聞こえる。聞こえる?

 違う。叩かれているのは、わたくしの頭じゃない!


 誰かがカーテンの向こうで、リビングの窓を叩いている――。



 わたくしは力を振り絞った。最後の力かもしれない。とにかく、その音に賭けた。

 窓に向かって転がり、人魚のようになってしまった脚で何回もカーテンを蹴った。


 少しずつ、少しずつカーテンが開かれていく。


 空が、碧い。そこに影が一つ。逆光でよくわからない。


 逆ツリガネ形のなにかが見えた。


 逆ツリガネ形の。


 ああ――。



「リコピン! リコピンっ! 大丈夫!?」

 ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン!!



 ハヘ子さんだった。


 ハヘ子さんがベランダにいる。窓を叩いている。わたくしの名前を呼んでいる。


「リコピン! リコピン! ここ、開けてっ!!」


 ハヘ子さんの顔は、瞳の光は、太陽だ。南国の太陽だ。窓を一枚隔てて、そこには輝かしい光がある。きっと彼女ならこの部屋の空気を全てぎ払ってくれる。


 腹筋を使い、脚を斜め上に伸ばす。藍色のスカートがめくれておしりが丸出しになる。こんな動き、したことがない。筋肉がぶるぶると震える。吐き気すらも込み上げてきた。

 指の先まで神経を使い、なんとか指を鍵に引っかける。少しの痙攣とともに――、全身の力が抜けた。


「リコピンっっっ――――!!」


 わたくしの上半身が倒れると同時に、


 鍵はくるりと回転した。

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