第三章――千乃だって、恋をする――

第三章①(あの子には優しくしてやれ)

 ひととおり泣きはらした。マクラもびしょびしょになった。


 泣きながら寝ていたのかもしれない。長い時間が過ぎたような気がする。でもたとえ眠ってしまっていたとしても、夢の中でもきっと泣いていた。とにかく正気に戻ったのは、部屋の中にけたたましく鳴り響く内線の音を聞いた時だった。


「はい、璃子りこです」

夢野ゆめのです。お嬢様にご来客がいらっしゃっていますが」

「どなたですか?」

戸田とださんです」

「……わたくしは今日は具合が悪いということにして、帰ってもらって下さい」

「それはすでに申し上げております」

「え?」

 どういうことだ。夢野さんは、ハヘ子さんを一度は追い返したというのか。


「戸田さんはお嬢様がご帰宅されてすぐにいらっしゃいました。ですが内線が通じなかったので、いったんはお帰りいただいたのです」

 ベッドから立ち上がって時計を見ると、短針は二十一時を差していた。帰宅してからおよそ三時間が経っているという計算になる。ということはおそらく夕食の内線もかかってきていたのだろう。わたくしはそれにも気づかずに、ずっと布団にくるまっていた。


「ハヘ……戸田さんは今、どちらに?」

「屋敷の前の道でずっと立っていらっしゃいます。そろそろ私も部屋に戻らせていただこうと思うのですが、ちょっと気になってしまいまして」

「わかりました、今から二階に参ります。ですが戸田さんにはなにも言わないで下さい」

「はっ、はい……」


 わたくしは内線を切り、むくりと起き上がった。制服のままベッドに転がったので青い襟がくちゃくちゃになっている。しかし着替えようとは考えず、すぐにエレベーターで屋敷の二階まで上がった。夜間に洗濯の業務は行われていないため、二階は真っ暗だ。だからといって電気をつけるわけにはいかない。わたくし、または屋敷の誰かが二階に上がったとハヘ子さんに気づかれてしまう。


 カーテンの向こうに、月の光がぼんやりと映っていた。少し時間を置くことで次第に目が慣れてくる。洗濯かごに足をぶつけないよう、気をつけて窓に近づいた。カーテンの隙間から外を見ると、近くの家の明かりが目に入ってきた。天上にはきれいな満月。その近くを、飛行船みたいな雲がゆっくりと移動している。


 下に目を向ければ、電信柱が立っている。街灯は道を照らしている。街灯の光に影を落として、ハヘ子さんがじいっと佇んでいた。

 ハヘ子さんは屋敷の扉を見つめている。睨んでいるようでもあるし、悲しさに満ちた目つきであるようにも思える。ただわかったのは、ハヘ子さんは早々に引き上げる気はかほどもないということだ。彼女の目の輝きがなによりも強い意志を示していた。


 ガア――ッ。わたくしの背後で、エレベーターの開く音がした。誰かが二階まで来たんだ。振り返ると、ちょうどお兄様が降りてくるところだった。

「いよう、璃子」

 かっこをつけてウインクを送るお兄様が、優しい足どりでわたくしに近づいてきた。


「お兄様」

「璃子、どうしたんだ? 夕飯にも来ないし、何回内線を鳴らしても出ない。それにそろそろ決まりごとの時間だろ?」

「あ、ああ、もうそんな時間でしたわね。でもお兄様こそ、どうして二階に?」

「夢野さんから連絡があったんだよ。戸田さんが来てるんだって?」


 ……なるほど、夢野さんがお兄様に連絡をしたのか。

 別に連絡なんかしなくてもいいのに。これ以上、誰かを巻きこみたくないもの。


「あの子なんか放っておいていいのです。それよりお兄様、今日のお話をしましょう」

「ん、戸田さんはどこにいるんだ?」

「そんなのどうでもいいではありませんか」

「よくないよ。正直な璃子だったら教えてくれるだろ? どこだ?」

「……外、ですわ」


 お兄様はカーテンに寄り、その隙間から外をのぞいた。月明かりがお兄様の横顔を薄い黄色に染め上げる。お兄様は顔をわたくしの方に戻して、

「璃子、なにがあった。お前の言うとおり決まりごとをしよう。さ、話してくれ」

 真剣な声で言った。お兄様に懇願されると話さないわけにはいかない。だからといって全てを話すのもためらわれる。ハヘ子さんの生い立ちや性質を話したところでなんの得にもならないからだ。


 そこで、ハヘ子さんとはちょっとした喧嘩をしたということにしておいた。そしてその原因は彼女が変なダンスを始めて、わたくしが恥ずかしい思いをしたということに。

 お兄様はなにも言わずにわたくしの話を聞いていた。暗がりなのでよくわからないが、お兄様の表情はほとんど変わっていなかったと思う。


「……というわけです。今日はこれ以上、お話することはありません」

 話はあっという間に終わった。大事なところを削りとって話したのだから当然だ。


「璃子、一時間どころかまだ五分くらいしか経ってないぞ」

 今日のお兄様はおかしい。いつもの気持ち悪い冗談を言ってくれないし、抱きついてもこない。それに、言葉の節々にはわたくしを責めるような色が含まれている。

 わたくしはお兄様の態度に居心地の悪さを感じて、言った。

「では、今日はお兄様のお話を聞かせて下さい」


「俺の?」

「はい。たまにはいいではありませんか」

「そうだなあ。じゃあ、もしも俺が『大学に通えていたら』どうなったかっていう話でもするかな」


 ……出た。『もしも』の話だ。お兄様の話にはこの類のものが多い。


 だけどそれも仕方のないことなのだ。黙って耳を傾けるわたくしに、お兄様は仮定の話をしてくれた。


 もしもお兄様が大学に通えていたら、きっと医学部に入っていただろう。お兄様は昔から怪我した野良犬を連れて帰ってはお父様に叱られていた。近所の子供が転んだ時には簡単な手当てをしてあげていた。とにかくお兄様は困った人や弱った者を助けようとする。なので仮定の話の中でも、お兄様は医学部に入学している。

 お兄様の話はしばらく続いた。大学を卒業して、インターンを経てお医者様になって。忙しい中でも友達付き合いを忘れず、たまには趣味のギターの練習をしたりもする。お兄様は空想の中で、自由に自分の時間を楽しんでいるようだった。


「てな感じの一日はどうかな」

「素敵ですわ」

 わたくしは小さく拍手をした。

「でも現実のことも考えないといけません。それだって大切なことです」

「うん」

「今日もきちんとカウンセラーの先生のところに行きましたか?」

「ああ。話を聞いてくれたよ」

「それならよかったですわ」

 お兄様は緩んだ口角をふいと一本線にして、もう一度カーテンの方に目をやった。

「なあ璃子、顔を出してやれよ」

「なんのことでしょう」

「戸田さんに決まってるだろ」

「いえ、それなら、結構です」

「そんなこと言うなよ、璃子。璃子はくぅわいいんだから、俺の頼みを聞いてくれよ」

「頼み?」

「そうさ。なんで俺が頼んでるか、お前にはわかってるんだろ?」

「もしかしてお兄様はハヘ子さんのことを……ハヘ子さんがどのような人かということを以前から知っていらっしゃったのですか?」

「さあな。それより早く、出てやってくれよ」

 言ってお兄様は小さく笑った。こんな顔をされると困る。


 それにいつまでも問題を先延ばしにできるわけでもない。いつかは決着をつけないといけないわけだし、逃げ回っているのはお嬢様としてもどうかと思う。


 わたくしはカーテンを横に滑らし、窓をカラカラと開けた。舞台の幕が上がった時のようにまばゆい月の光が、部屋いっぱいに差しこんでくる。


「りっ、リコピンっっ――――!!」


 よく見ればハヘ子さんの髪はぼさぼさになっていた。きっと夕方の雨に長い間打たれたせいだろう。今は雨は止んでいるが、一度乱れた髪はそうそう簡単には元に戻らない。


「リコピン! リコピン! リコピンっ!」


 彼女は何度もわたくしの名前を呼ぶ。聞いているうちに耳の奥がじんじんとしてきたけれども、わたくしはなにも答えなかった。


「リコピン、ごめんね。嫌な思いをさせてごめんね」

「…………」

「ごめんね。嘘じゃないよ。リコピンに嘘なんてつかないよ。だから怒らないで。ごめんね、わたしが変なことばっかりするから怒ったんだよね。ごめんね、ごめんね……」

「…………」

「ごめん。ほんとにごめん。リコピン、わたし――」


 カラカラカラッ。窓を閉めた。カーテンも引いた。結局ハヘ子さんにはなに一つ返答できなかったが、それでいいのだ。どうせさっきの言葉だって演技に決まっている。今日喧嘩したばかりだから、あんなふうに殊勝に振る舞えばドラマティックになるとでも考えているんだろう。だったら、明日からはなにも言ってこないに違いない。


 いいんだ。ハヘ子さんが謝るのなんて、今日だけなんだ。


 ……なによ。ごめんだなんて。嘘じゃない、なんて。今日だけのくせに。


「あの子、俺と同じなんだろ」

 背中に、お兄様の声が届いた。

「優しくしてやれよ、璃子。あの子には優しくしてやれ」


 わたくしは走った。お兄様の胸に飛びこんだ。お兄様がわたくしをうまく受け止めるとちょうど抱き締めるような体勢になった。

 いいですわ。わたくしの胸を、腿を、身体のどんなところでも、触りたいなら触ればいい。今だったらなにをされても文句は言いませんから。


 だけど違った。お兄様はゆっくりとした手つきで、わたくしの髪を撫でた。


 ……違う。


 違う違う違う! わたくしは思った。髪を撫でられながら、思った。

 お兄様はハヘ子さんと同じなんかじゃない! 一緒じゃない!


 わたくしは加賀谷かがや栖汀すていの大切な妹なんだ。


 わたくしは、好き。


 好きなんだ。


 加賀谷かがや璃子りこは、お兄様のことが大好きなんだ。


 ハヘ子さんなんて人は――、知らない。

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