第二章Final(みんなしてわたくしに嘘をついて騙して馬鹿にして!)

 校庭に出たら、少し強い風が吹いてきた。靴の中に少量の砂が忍びこむ。だけどそんなものは気にもならなかった。


 ただただ、ハヘ子さんの姿を捜した。うさぎ小屋の陰、アラカシの樹の下。校門ではクラブ帰りの生徒たちがふざけ合っていて、男子が別の男子にヘッドロックをかけると、かけられた方も「やめろよー」と言いながらやり返していた。友達だ。あの二人は、ほんとの友達なんだ。


 しかし、いくら捜してもハヘ子さんの姿はどこにも見つからない。それでもきょろきょろと辺りを見回していると、背中の向こうに誰かの気配がした。


「ハヘ子――」

 わたくしは高鳴る心音を一つ隠して振り向いた。


 だが、そこに立っていたのは……アンリだった。思いきり彼女と目が合った。距離はきわめて近く、どうにもこうにも避けられない。アンリを無視するなんて絶対に無理だ。


 わたくしは足を止め、アンリをじっと見やった。そうしたら向こうだって同じようにしてきた。視線をぶつけ合ったまま十秒くらいの時間が流れた。たったの十秒なのに、わたくしにとっては映画を一本見ているような感覚だった。


「アンリ……」

「けっ」

 アンリの頬がひくつく。

「な、なんですの?」

「お前、ハヘ子を捜してるのか?」

「……ええ」

「なんで? もしかしてお前、ハヘ子のことを友達だと思っているの? まさかね」


 ものすごく腹が立った。「もしかして」だなんて失礼にもほどがある。わたくしたちは一緒に買い物にいきましたし、加賀谷かがや家でディナーも楽しみました。なによりわたくしは、あなたみたいな子からハヘ子さんを護ってあげたではありませんか。


「そうですわ。ハヘ子さんはなんでも話してくれますし、楽しませてくれます。ですのでわたくしとハヘ子さんはもう友達になったと言ってもいいのではありませんか?」

「あっはっはっは!」

 アンリは突然、大笑いを始めた。

「え?」

「あっはっは! ひゃはは! あー、おかしいっ! あはは」

「な、なにがおかしいのですか!?」

「お前、ハヘ子のこと、なんにも知らないんだな」

 アンリはひーひーと笑い、湿った瞼をこすりながら言った。

 ハヘ子のことって……。

「あいつ、大嘘つきなんだよ」

「大嘘つき? あなた、また他人を愚弄し……」

「それだけじゃないさ。大げさだし、八方美人。あたしへの態度でもわかるだろ? あの子は、自分がかまってもらえたら、みんなの中心にいられたら、なんだっていいんだよ」

「そんな。しょ、証拠はありますの?」

「あるさ」

 わたくしの子供じみた問いかけは、一瞬で返答された。

「ハヘ子の父親が自殺した後だ。解雇されて自殺したわけだから、いいウワサは立たなかった。これまで優しかった近所のおばさんとか親戚とかがこぞってあの子の家族を悪く言うようになった。それに遺産相続のトラブルだってあったみたい。あの子は幼い頃に、大人の醜さみたいなものを全部見てしまったのよ」


 わたくしは息を呑み、想像を巡らせた。昨日まで笑って挨拶してくれた人が、かわいがってくれた人が、今日には自分の悪口を言う人に変身してしまうという状況を。そんなのあまりにも理不尽で、たまらなくて、恐ろしいに違いない。


「でさ、ハヘ子ったらかなり怖がってたみたいなんだよね」

 それはそうだろう。でも、それが今のハヘ子さんになんの関係があるというのか。

「そしたらあの子、井戸端会議をしてる近所のおばさん連中の前で『ハヘ――ッ!』とか『オレンジマン軍曹であるぞ!』とか、変なことを言い出したわけ。そこら中で転げたり大笑いしたりして、すっごく騒がしかったらしいわよ」

「え?」

「そしたらなんか、みんなもつられて笑っちゃったみたいでさ。『親が悪かっただけで、歩実あゆみちゃんに罪はないよね』みたいなノリになったんだって。つまり、ハヘ子は変な行動をとることで自分の身を護ったのよ。そういうふうに振る舞えばなんでもうまくいくって思っちゃったわけ」

「そ、そんなっ! おかしいですわ。あなたがなぜそんなことを知っているのですか?」

「あたしの母さんが見てたのよ。あたしの家、ハヘ子ん家の近所なんだもん」


 血の引く音が聞こえてきそうなくらいに青ざめていくわたくしの顔を見てか見ずか、アンリは「そうそう、こんなのもあったわ」と話を続ける。もちろんわたくしはそんな話、聞きたくなかった。やめてほしかった。なぜならアンリはわたくしよりもハヘ子さんのことを長く深く知っているからだ。


 いやだいやだいやだ――。


 自分が知らないハヘ子さんのことを、知りたくない。聞きたくない。あなたはハヘ子さんをいじめた人間で、わたくしは助けた人間でしょう! 今は今じゃないですか! どうしてハヘ子さんの過去を語ることで自分を正当化しようとするのですか!


 それでも、アンリの述懐じゅっかいはわたくしを打ちのめすように、なおも続く。


「小学校の時、遠足にいったらお弁当を食べるじゃない。ハヘ子はあたしと同じ班にいたんだけど、あの子、いきなりお弁当を犬食いし始めたの。はぐはぐってさ。でもおかしいよね、そんなの。みんな絶対引くに決まってるじゃない」

 わたくしは咄嗟に両耳を押さえようとしたが、アンリの話を遮断してしまえばわたくしの知らないところで淡々とハヘ子さんの過去が語られる。その事実そのものがなにより怖くて、わたしくの腕はぴくりとも動かなかった。

「ハヘ子の顔、真っ青だったわ。ウケないってわかった瞬間に玉子焼きを空に投げて落ちてきたところを食べたり、水筒を口から離して滝みたいに流して飲んだりしたのよ」


 アンリの分析によれば、ハヘ子さんは別に個性的であろうとしているのではない。個性的『っぽい』ところを見せて皆を笑わせることだけに意識を集中させている。ハヘ子さんは他人にかまってもらえると嬉しい。そのためには自虐ネタだってなんだってやる。

 そしてそれが、もはや、自然になってしまっているのだ。彼女の、当たり前なのだ。


「だからあたしはかまってあげてるんだよ。それって、ほんとの友達だと思わない?」

「ほんとの友達?」

「そう。ほんとの友達としての正しい姿。賢い『お嬢様』だったら、わかるでしょ?」


 わたくしはハヘ子さんについてのありとあらゆる思い出を、頭の中に描いた。


 ビー玉みたいにころころと動く丸い目。逆ツリガネ形の整った口元。弾ける笑顔。

 チョコバー。ブレイクダンス。メロンボール。秘密基地。梅雨の晴れ間。

 鳥のからあげ。ハヘ子さんの涙。今も揺れている、カンガルーのストラップ……。


 ハヘ子さんは、お日様のような笑顔で「リコピン!」とわたくしの名を呼んでくれる。


 でも。


 ……でもっ!


 わたくしも嘘をつかれていたの? 大げさに振る舞われていたの?

 ハヘ子さんにとって加賀谷かがや璃子りこは、大勢のうちの一人だったの……?


 しかしその仮説には妙に納得がいった。ハヘ子さんはあれだけいじめられていても、いつも笑っていた。あれはまごうことなく、本物の笑顔だった。わたくしとアンリが対立した時も、二人を同じように心配していた。そこには『いじめた人間』と『助けた人間』という決定的な差があったにも関わらず。


「うっ……」

 わたくしは、声にならない声を絞り出す。

「ん、どうしたの、加賀谷?」

「うっ、嘘ですっっっ!! あなたも! ハヘ子さんも! みんなみんな嘘なんだ!!」

「ちょ、ちょっとあんた……」


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ! 嘘だった! なによなによなによ! みんなしてわたくしに嘘をついて騙して馬鹿にして!」


 わたくしは駆け出した。その場から一歩でも遠ざかろうと地面を蹴った。そうすれば、アンリもハヘ子さんもクラスメイトも……誰もかれもを置き去りにできると思ったから。


「あ、あんたっ!」

「知らないっっ!!」


 わたくしが校門を駆け抜けようとした時、一つの影が通せんぼをするようにわたくしを遮った。眼前に輝くのは、とびきりの笑顔だ。

「リコピンっ! あーっ、リコピンだ!」

 ハヘ子さんはなにも知らない子供のように無邪気に言った。わたくしは奥歯をぎりぎりと噛んだ。いつしかアンリが追いついてきていて、背後からは荒い息の音が聞こえる。


「アンリちゃんも。あれ、二人は友達になったの?」

 のん気なことを言う……!

「ハヘ子さんっ!」

「り、リコピンどうしたの? なんか、顔が怖いよ」

 もう、止まらなかった。

「あなた! わたくしに嘘をついていたのですか!? 騙して、わたくしに友達の振りをして、それを裏で笑って楽しんでいたのですか? 生徒会長を馬鹿にできたのですから、あなた、さぞかし愉快だったことでしょう?」

「な、なにを言ってるの? よくわかんないよ……」

「あなたは知っていたのよ。わたくしにほんとの友達がいないってこと。だから友達みたいに振る舞えばわたくしが喜ぶことも知っていた。それがわたくしに対する一番正しい接し方だと知っていたのです! 秘密基地づくりだって駄菓子屋に行ったのだって公園で遊んだことだって全部そうじゃない! からあげを食べながら泣いたのもおかしい。カンガルーだって……」


 一瞬、言葉が詰まった。


「カンガルーだって、嘘じゃないの」

「…………」

 ハヘ子さんはひとことも返さなかった。怯えた表情をしているかと思ったがそうではなく、ほとんど無表情ままでこっちを見ていた。

「リコピン」

「ハヘ子さん」


 ……言って。言ってほしい。


 なにかを言って下さい。

「嘘じゃない」って言ってくれてもいい。それがだめなら「やーい、ひっかかった」と嘲ってくれてもかまいません。どちらの答えが返ってきても大丈夫なように、わたくしは自分の心を落ち着かせた。


 だけど。


「ハヘハヘ踊り、見たい?」

「……はい?」

「ハヘハヘ踊り、面白いよ。見たいでしょ? すごいんだよ」

 ハヘ子さんはわけのわからないことを言った。この場も笑いをとってごまかすつもり? いや、いくらハヘ子さんでも気づいていないはずはない。今、この場で笑いをとることが不可能だなんて火を見るよりも明らかだってこと。

 それでも、この子にはきっとそれしかやりようがなかったのだ。


「いくよっ――」



「いりません、そんなもの!!」



 その時、ハヘ子さんは悲しそうに、そしてやるせないように、笑った。

 しかしそんなものはわたくしにとって、なんの足しにもならなかった。

 とにかく胃の裏がむかむかときて、爆発しそうになって、頭の中がランプをつけたように光った。このままここに留まっていると、もしかするとハヘ子さんをひっぱたいてしまうかもしれない。だけど、わたくしの最後の理性がそれにストップをかけた。


 行けばいい。このまま後ろを振り返らず、なにも考えずに走っていけばいい。今日の放課後は誰とも会わなかった。なにも知らなかった。そういうことにしておけばいい。

 わたくしは、前のめりになって駆けた。

 左右の景色が漫画の集中線みたいに流れていく。学校から200メートルは離れただろうところで、わずかに柿色に染まった空がわたくしの心のスイッチを半分ばかり元に戻した。


 わたくしはのろのろと歩きながら、考えた。

 考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた考えた。

 そして叫んだ。


「もう嫌っ! ハヘ子さんなんて……ハヘ子さんなんて、友達なんかじゃないわ!」


 また考えた。ずっとずっと考えて。


 過ぎていく車からヒップホップの音楽が漏れていて、重低音がずんずんと響いている。車の前にちょっと飛び出してやれば、わたくしの人生は終わってしまうだろう。買い物に向かうおばさんたちが自転車で歩道に乗り上げ、わたくしに向かってベルを鳴らした。


 ずっとずっと考えて。


 生まれて初めて夢野ゆめのさんに「ただいま」を言わなかった。言えなかった。夢野さんはそれでも微笑んでくれていた。部屋に着くなりベッドに潜った。ついにわたくしは泣いた。

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