第二章⑧(なんだい璃子! 行儀悪いなぁ)

 一品目、オードブルが運ばれてきた。平たく薄切りにしたズッキーニに若鮎のマリネと小さなスナップエンドウが乗っている。プレートにはぺっとりと梅味のクリーム。なかなかおいしそうなオードブルだ。


 食べながらハヘ子さんを見ると、ハヘ子さんはまだナイフとフォークを手にしていなかった。プレートを挟むようにして三本のナイフとフォークが並んでいる……もしかして、ハヘ子さんはどのナイフを取ってよいのかがわからないのでは。


 やはり、というかわたくしの不安は的中した。ハヘ子さんは『内側の』ナイフとフォークを手に取ったのだ。メインディッシュ用のごついナイフでたどたどしくズッキーニを切り出す。ズッキーニはかなり薄くスライスされているので、ハヘ子さんはかなり切りづらそうにしている。そしてついに、


 キコキコッッ!! ハヘ子さんのナイフがプレートに激しく触れた。お父様はハヘ子さんを見て眉を寄せる。


「ごっ、ごめんなさい!」

 ハヘ子さんの大きな声は、ピアノの生演奏の音をいとも容易くかき消した。


 さらにハヘ子さんはフォークの使い方もおぼつかないようで、スナップエンドウを何度もプレートの上に落とした。若鮎に至っては切ること自体を諦めたらしい。フォークでぐさっと刺して、そのまま口へと運ぶつもりだろう。


「あらっ?」

 わたくしはビビッドな声で、ハヘ子さんを止めた。

「ちょっとよろしいかしら?」

 手を挙げ、食事係の一人を呼ぶ。

「お箸を持ってきて下さらない? わたくし、お箸を使いたい気分ですの。あっ、ちょうどいい機会ですからハヘ子さん、あなたもお箸の使い方を練習しなさい! この前本を読んで知ったのですが、お箸を美しく使えない女性は一人前ではないらしいですわ」

「リコピン」

「かしこまりました」

 にっこりと笑い、厨房へ向かおうとする食事係。

「ふむ、じゃあ俺も箸を使わせてもらおうかな。男女平等社会だもんな。おうい、箸は三つだ。父さんはどうする?」

 お兄様が食事係に追加の注文をつける。

「わしは結構」

 お父様は感情を込めずに言った。


 二品目は冷製のにんじんスープだった。冷たくなるとにんじんの風味がいっそう強くなる。わたくしは昔、にんじんが大の苦手だったのだが、無理やり食べさせられているうちに苦手ではなくなった。今でも『ものすごく好き』なわけではないが、それでもまあまあおいしくは食べられる。好き嫌いをそのまま放置されなくてよかったのかもしれない。……とはいえ、椎茸は今でも苦手なままなのだけれど。

 見ればハヘ子さんの食はほとんど進んでおらず、彼女はちびりちびりと少しずつ飲んでいる。たしか今日のメインはロブスターのアメリケーヌがけと聞いているが、ロブスターもちょっとくせのある料理だ。


「ハヘ子さんはなにがお好きなのですか?」

「え? なにが……って、どういうこと?」

「お好きな食べ物ですよ」

「あ、えっとね、鳥のからあげかなぁ。家の近くのお肉屋さんのからあげ、おいしいよ」

「あらそう! 鳥のからあげ! いいですわね。わたくしも食べたくなりましたわ」

 わたくしは目で食事係を呼ぶ。

「メインを変更して、鳥のからあげにして下さらない?」


璃子りこ、わがままを言うものではないぞ」

 お父様がたしなめると、ハヘ子さんもなにかを察したのか、ばつの悪そうな顔をした。

「リコピン、別にいいよ」

「いいではありませんか。わたくしが食べたいといったら食べたいのです。ハヘ子さんも勘違いしないで下さる? わたくしがからあげを食べたくなったのですから」

「……仕方のない子だ」

「かしこまりました」

 食事係は慌てて厨房へと戻った。


 それからの二十分をグレープフルーツのシャーベットで過ごし、運ばれてきた鳥のからあげをわたくしは直ちに箸でつまんだ。さくさくとして、同時にジューシーだ。

「あら、おいしいわね」

 続いてハヘ子さんも鳥のからあげを口に運んだ。

 無言のまま、もぐもぐもぐと頬を動かしている。

「ハヘ子さん、あなたのお話をうかがって正解でしたわ。おいしいからあげですね」

「ひっく、うっ……」

「…………?」

「ひっく、ひっく、うう、うええええええええええん、うええん……」

 なんと、ハヘ子さんが泣き出した。

「うええん、ひうう……」

 目を手でぬぐう。それでもだめで、ナプキンに次々と染みができた。テーブルの上にはいっさいの会話がない。ただ、ハヘ子さんの泣き声だけが隙間なく続く。


「ハヘ子さんっ!」

 わたくしはにわかに叫んだ。


「泣かないの! 泣くなら……」

 わたくしはからあげを頬張りながら、言う。

「おいひいものを食べて、おいひいおいひいって泣きなはい! もぐもぐもぐ……」

「あはははは! なんだい璃子! 行儀悪いなぁ」

 お兄様は大爆笑。お父様はやれやれと首を振るが、どこか笑っているようでもある。

「わはった!? はへほさん!」

 ハヘ子さんはゆっくりと顔を上げ、からあげをもう一つ口に入れる。


 もぐもぐもぐ……。


「……うん。……うんっ! おいしい!」

「よはったではないでふか。ほら、どんどん召ひはがって下さいね」

「ありがほう、りこひん……」


 ハヘ子さんと目が合った。なにかが通じ合った。ハヘ子さんは満月のようにきれいな笑顔をしたまま、スン、と鼻をすすっている。曲が変わり、ドビュッシーの『月の光』が流れ出した。たおやかな旋律が、わたくしたちの食卓を包みこむ。

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