第二章⑦(あ、あうっ、ありがとうごぜえます)

 屋敷に着き、チャイムを鳴らした。いつもは自分の家なのだから当然チャイムなんて慣らさないのだけど、今日はハヘ子さんと一緒だから特別だ。


「ここがリコピンのお家なんだ。きれいな色してるね。雪の色みたい」


 しばらくして夢野ゆめのさんが出てきた。

「おかえりなさい、お嬢様。あら、こちらがお友達の方ですね」

「は、はいっ! 戸田とだ歩実あゆみといいます! 以後、お見知りおきを……」

 ほにゃほにゃほにゃ……と、消え入りそうな声。ハヘ子さんだって緊張するのですね。


「私は受付の夢野と申します。こちらこそよろしくお願いしますね。でも私、ちょっとびっくりしちゃいました」

 夢野さんの笑顔が弾ける。

「戸田さんってすごくかわいらしい方ですね」

「そんなことないですよ。それは目の錯覚です」

「錯覚? あはは! ほんとにかわいいお友達ではありませんか」

「あの、それより、受付ってなんですか?」

「夢野さんは当家にいらっしゃる方の応対をして下さっているのです。さ、ハヘ子さん、リビングに参りましょう」

 やおら靴を脱いだ後、わたくしが代わりに答える。


 そのままハヘ子さんを一階の奥へと案内すると、ハヘ子さんの目が点になった。


「え? え? なにこれっ……?」

「どうかしましたか?」

「エレベーターばっかりあるよ。これも、あれも! なんでなんで?」

「リビングもわたくしのお部屋も、地下にあるのです。これに乗らないと行けません」

「え? え? ええ――――っっ!?」

 ハヘ子さんは口をぱっくりと開けた。夢野さんの方を見ると、夢野さんはわたくしに向かってウインクをしている。もしかすると『あれ』をやれということだろうか。うーん、とても恥ずかしいのですが……まあハヘ子さんになら、いいでしょう。


「連れてけ、連れてけ♪」

 いつものように歌いながら、わたくしはハヘ子さんをエレベーターに押しこんだ。

「なにそれなにそれ! わあっ、楽しいよう!」


 ハヘ子さんとエレベーターで地下八階まで下りた。ハヘ子さんはエレベーターのボタンの数を見て、すごいすごい! とはしゃぎまくる。ぐぐっと重くなる身体で地下八階に着いたと気づくわたくし。エレベーターが開くと、リストの『愛の夢』が聞こえてきた。

 あら、室内楽団の方々がいらっしゃっているのね。久しぶりに聴くけれど、やはり魂のこもったピアノの音だと思う。さては、ハヘ子さんが来るというのでお父様が張りきって準備をしたに違いない。お父様の趣味だと、この後はラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲より第十八変奏』、エルガーの『愛の挨拶』と続くはずだ。


「あ、う……」

 そこで、ハヘ子さんの足がぴたりと止まった。

「ハヘ子さん? どうしました?」

「あ、あの、すごくきれいな音楽だね。それに、広いし……」

「そうかしら?」

「うん……」

 ハヘ子さんをテーブルの近くに案内する。長方形のテーブルはキャデラックの底面くらいの大きさで、四脚の椅子が置ける。うち二つにはすでにお父様とお兄様が座っていた。


「やあ、戸田さん。ようこそ加賀谷かがや家へ」

 お父様の口髭がもさもさと膨らむ。

「あ、はい……戸田といいます。今日は、お、お招きいただき、ありが……がじっ!」

 あいたっ! ハヘ子さんが小さく叫んだ。舌を噛んでしまったらしい。

 もう。そんなに緊張しなくてもいいのに。無理して丁寧に話そうとするから、舌なんかを噛んでしまうのですよ。


「ははは! 大丈夫ですか。さ、上座にお座り下さい」

 お父様が左手を伸ばして席を勧めると、ハヘ子さんは足早に席に近づいた。椅子を引こうとしたが食事係の方が先に椅子を引いたので、タイミングがずれてこけそうになった。

「あ、あうっ、ありがとうごぜえます」

「ふふ、そんなに固くならなくていいよ」

 お兄様は優しげに言う。ハヘ子さんの左右斜め前の席にわたくしとお父様が座っているので、お兄様はちょうどハヘ子さんと向かい合わせという形になる。

「はい……」


 ハヘ子さんが席に座ったところで、ガラス製の器が運ばれてきた。中には水が入っていて、輪切りのレモンが浮かんでいる。ハヘ子さんはよっぽど疲れていたのだろうか、器を手に取るなり、なんと中に入っている水を飲み始めた。


 ぐびぐびぐび……はあーっ。おいしいね、この水!


 わたくしは肩を狭めた。あろうことかハヘ子さんはフィンガーボウルの水を飲み干してしまったわけだから、場はピーンと凍りつく。わたくしは迷わずにフィンガーボウルを手に取り、水を飲んだ。こくこくこく。

 お兄様も器を持ち上げ、ごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。ただ、黙って飲んだ。


 最後にお父様が真打ちになり、フィンガーボウルの水を喉に流しこむ。「うーん、うまい水だ!」と、わざわざ声に出したのだが、余計なことは言わないでほしかった。

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