第二章⑤(わたくしの世界が終わる)

 次の日、わたくしは気が重かった。学校に行きたくなかったが、実際のところ行かないわけにはいかない。お父様も、お兄様も、夢野ゆめのさんも千乃ちのだって「どうして学校を休んだのか」と訊いてくるだろう。もしかすると屋敷で働いている方全員が心配するかもしれない。だいいち、休む前に部屋に押しかけられて事情を尋ねられる可能性が高い。なのでわたくしは、しぶしぶながら登校しようと決めた。


 教室の扉の前。この部屋に入れば、昨日となにかが変わっているかもしれない。まさか机を積みっ放しにしたままではないだろうが、もし積んであればクラス中を巻きこんでの大事件になる。先生だって犯人捜しを始めるに違いない。

 そんなのは嫌だ。わたくしの世界が終わる。

 どうか、机が元の位置に戻っていますように――。


 わたくしは、からからからと扉を開けた。わっと広がってくるのは、いつもと同じクラスの騒ぎ声。まるでコンサートの会場に入った時のように、音の風が耳たぶを震わせる。


 よかった、同じだ。もしかすると、昨日の出来事は夢だったのではないでしょうか。


 席に向かう途中、見たくはないがアンリの席を確認する。座っているアンリとわずかに目が合ったが、アンリはすぐにわたくしから目を背けた。


 ……違う。やっぱり昨日の出来事は夢じゃない。(夢だったらいいな)なんて一瞬思ったりもしたけど、夢だったらこんなに鮮明に覚えているわけがないもの。


 アンリは外傷を負っていない。包帯も巻いていないし、絆創膏も貼っていない。それでも彼女の心を傷つけてしまったのは事実である。ほっとしたような、この先を考えて気が重くなるような、とにかくおかしな気持ちになった。


「加賀谷さん昨日、キレたらしいわよ」


 どこかから聞こえた。アンリの席の方からではなく、違う方向からだ。楽曲の中からベースの音を捉えるように声の出所を探ったけれど、すぐにはわからなかった。

 でもたしかに聞こえる。


「加賀谷さん」「加賀谷さんが……」「それマジ?」


 みんながみんなではないが、ところどころでわたくしを話題にしている。これは間違いなく、昨日アンリを傷つけてしまったという話だ。皆の言葉の一つ一つが肋骨の裏側に響いてくる。胃の近くの血管がどくんどくんと振動し、目の前はぼやけた。


「リコピン……」

 頼りない声が一つ。ハヘ子さんだ……。


「ハヘ子さん」

「あの、リコピン、昨日のこと……ごめんね」

「……なくたって」

「えっ?」

「あなたが謝らなくたって大丈夫ですよ。あなたはまったく悪くありませんもの」

 にこっ。精いっぱいのつくり笑顔をしてみせた。たしかにハヘ子さんは……ハヘ子さんは、悪くないのだから。

「でも……」

 ハヘ子さんはそれでも納得しないようで、曇った顔をのぞかせた。わたくしを見て、それからアンリを見るという彼女の目の動きは、まるで昨日のリプレイのようだ。


 だからわたくしも同じように思った。

 ハヘ子さんの中で、わたくしとアンリは同列の存在なんだ、と。

 そんなことを思うよりもまずはアンリに謝るべきなのかもしれない。理屈ではそうなのだけど、どうしてもハヘ子さんの態度が許せなかった。


 どうして同列なの。どうしてわたくしが謝らないといけないの。どうして……。

 その『どうして』の先に、自分でも消してしまいたい一つの気持ちがあった。

 どうしてわたくしはアンリを傷つけてしまったのだろう、という気持ち。

 だけどわたくしはアンリに謝ることもハヘ子さんを責めることもできず、やり場のない気持ちを自分の中で螺旋らせん状に巻き上げながら自席につくことしかできなかった。


 放課後になり、わたくしは裏山に行った。

 頭上の曇天はいつ雨を産み落としてもおかしくはない。雨が降ってきたら帰ろう。

 ……それなら最初から裏山になんて行かなければいいのに、なぜか来てしまった。


「かっ、カガリコ!? ちょっと待てえぇぇぇぇい!」

 祖父江そぶえは大急ぎで何冊かの本を茂みの中にばら撒くが、たぶんいかがわしい本だ。


 ぷふっ。わたくしは今日、初めて笑えた。こんな馬鹿なことで。意味がわからない。

 で、笑った後、目が潤んできた。ちょっとでも力を抜いたら雫をこぼしてしまいそう。思いきり歯を食いしばって、唇を内側に巻きこんで、耐える。


「ええっ!? なんでなんで!? 泣くとこじゃねーだろ、ここは?」

 祖父江はあたふたとする。そっか、祖父江の方はちっとも変わっていないんだ。変わったのはわたくしだけなんだ。その事実を言葉にすれば、余計に涙があふれそうになる。

「ええ? ええええ――――っ? なんだお前!?」


 あまりに驚かせても祖父江に悪い。それに誰かに聞いてほしいというのもある。引かれるかもしれないけど、蔑まれるかもしれないけど、それならそれで仕方ない。そうなった時に考えればいいことだ。わたくしは祖父江に、一連の事情を余さず話した。

 祖父江はあぐらをかいたままこっちをいっさい見ようとせず、「ああ」とか「うん」とか言いながら話を聞いてくれた。でもずっと目を逸らすものだから、祖父江がきちんと聞いてくれているのか、それともほとんど聞いていないのかは定かではなかった。


 だんだんといつもの気持ちに戻ってきた。話が終わった時、「はああああ……」と深いため息をつくこともできた。ため息をつくと、どうしてこんなに楽になれるのでしょう。


「ふーん。どっちでもいいだろ、そんなの」

 祖父江は簡単に言う。

「ハヘ子の奴を助けたのは事実なんだしさ。クラスメイトにどう思われようが気にするこたねえよ。正しいことをやったんだ。……ま、ちとやりすぎたかもしんねーけど、いいんじゃない? お前は胸を張っていいと思うよ」


 そっか。そういうふうに言ってくれたらほんとに助かる。祖父江に話してよかった。

 でも蛇足が多いのが祖父江のウィークポイントである。


「あ、胸を張るって、別にやらしー意味じゃねーからな!」

 はい、マイナス一点。どうして最後にいらないことを言うかなぁ。


「ね、秘密基地の打ち合わせをしませんか?」

 わたくしの声はすっかり普段どおりだった。

「なんだよ。もうじゅうぶん改良したじゃん。まだなんかやんの?」

「当然ですわ。書籍の種類が不真面目なものに偏っていますし、生徒会長としてこのままにしておくことはできません!」

「やだぞ俺、小難しい本を置くのは……」

「それでも困ります。このままでは秘密基地に千乃を参加させてあげられませんもの」

「ん? カガリコは小幡おばたをここに連れてきたいのか?」

「無論ですわ。ですから、書籍の種類を変更していただきたいのです」

「いや、そんな大げさな。別に、連れてきたらいいじゃんか」

「だめです!」

 言ってはみたものの、そもそも千乃はここに来てくれるだろうか? 最近、彼女との間には少し距離ができたような気がする。仲が良いことに違いはないのだけど、なんとなく以前とは変わってしまったような……。そんなことはないと信じたいのですが。


「というわけで、ハヘ子さんと祖父江をわたくしの屋敷のディナーにご招待します」

「なにが『というわけで』だよ! 話の流れが全然わかんねーよ!?」

「ディナーをご一緒しながら、秘密基地の改良の打ち合わせを行うという手筈です。それにハヘ子さんと祖父江には一度、屋敷に遊びにきていただきたいのですよ」

 じとーっ。祖父江はテレビの超能力番組を見るような目で、わたくしを見る。黒目の部分には『疑い』と書かれているようだ。


「百聞は一見にしかずとはうまくいったものです。ぜひ、当家をご覧になって下さい」

 両手を広げて、いつもよりちょっぴり大股で、制服のスカートを膨らませた。

「いや、いいわ」

 なのに祖父江はあっさりと断ってきた。

「俺は、女の家になんて行かねーよ」

 なに? この男の頭の中は小学生男子(それも中学年くらい)のままなのですか?


「ふふ。照れなくても結構ですよ」

「照れてねーよ! 俺なんか行っても仕方ないだろ。それより、ハヘ子を誘ってやれよ」

「ふん。もとよりそのつもりですが?」

「だからぁ。ハヘ子とぎくしゃくするのが嫌なんだったら、二人で晩飯食ったほうがいいと思わねーのか? 絶対そっちの方がいいって!」

「……それも、そうですわね」

 祖父江の奴め。祖父江の奴のくせして気が利くではないか。


 祖父江に勧められるままハヘ子さんに電話をかけると、ツーコールくらいで繋がった。


『ええっ、夕ご飯のお誘い? うん、行きたい! リコピンとご飯食べるの楽しみ! あのね、わたし、リコピンにいいものあげるからね。すごくいいものだよ! 絶対リコピンも気にいると思うし……☆◎В$★♪……!!』


 すごく明るい。すっごく即決。電話から鋭くてでかい音が聞こえてきた。ハヘ子さんは明らかに高揚していた。難聴になるのではないかと思うくらいのやかましい声に、思わず携帯電話から耳を離してしまったほどだ。


 ……でも、ほんとに、ほんとに、よかった。


 風が木々を揺らしていた。湿度の高い風なのに、肌に当たればけっこう気持ちのよいものに感じる。振り向けば、祖父江はとっくに週刊少年サンデーなんかを読み始めていた。

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