第二章④(自分自身も、消えたような気がした)

 青空がすっかりと姿を隠し、重々しくどんよりとした雨雲が空を埋めつくした日。すっかり恒例となってしまった放課後の時間も、いつ雨が降ってくるかわからないので今日は中止だ。祖父江そぶえも早々に帰宅してしまった。


 なのでわたくしは生徒会室で、久しぶりに千乃ちのと一緒に仕事をした。千乃の仕事っぷりはさらに早くなったようで、彼女は副部長と相談しながら次々に校内新聞の記事を書き上げていく。


「できたぞ」「うん、この記事もOKだ」「なんだ副部長? 遅いじゃないか。よし、私が書いてやろう。USBにデータを入れてくれ」


 脱稿脱稿、また脱稿。結局副部長は4コマ漫画くらいしか描かなかった。それでももやし系男子は満足したらしく、『つづく!』と仰々しく締めくくっていた。4コマなのに。つづく。


「後の校正は頼む。私は用があるのでこれで――」

 千乃は慌ただしく席を立つのですが、いくらなんでも早すぎです。書き始めてからたったの一時間しか経っていないではありませんか。わたくしの仕事である『夏休みボランティアの募集要項の作成』はまだ三分の一が終わったくらいだというのに。


「千乃」

「はっ、お嬢様。なにかご用でしょうか」

「用……ではありませんが、もう帰りますの?」

「ええ、少し用事がありますもので」

「そう。最近千乃とお話していないから寂しいですわ」

「ええ、まあ、私も……」

「なにか熱中していることがあるのですか? 屋敷以外ではなかなか会えませんね」

「それはお嬢様の方こそ……」

「……え? なにかおっしゃいました?」

「いえ、なんでもありません。とりあえず私はお先に失礼します。また夜に。屋敷で」

「わかりました。それでは千乃、いったんごきげんよう」


 どかん! 千乃は扉を親の敵かなにかのように開けた。小走りの足音がだんだんと薄れていく。雨だからなのか、わたくしはちょっとブルーな気持ちになった。


 けれどブルーな気持ちは時として集中というものを与えてくれる。なにかの作業に没頭してしまえばそういう重さを振り払えることを、人は本能的に知っているからだ。ボランティアの募集要項は思っていたよりも一時間早くに完成した。


 外を見るとまだ雨が降っていた。まだ、というか今日一日はずっと振り続けるらしい。だとしたらどう頑張っても雨の中を帰らないといけない。恵みの雨、とかいうけれど恵みと思ったことは一度もない。雨の日はいつも、屋敷の一階に入って雨粒から逃げきった瞬間になんともいえない喜びを感じる。うん、早く屋敷に帰ろう。


 あれ? 傘は、どこ? ない。ない。……教室に置き忘れてしまったようですわ。


 わたくしは仕方なく教室に戻った。皆もわたくしと同じことを考えているようで、いつもは賑わっている放課後の教室も今日だけは電気を消されて声をひそめていた。廊下は薄暗く、夜の学校を歩いているような気分にもなる。


 しかしわたくしの教室だけには電気がついていた。誰かいるんだ――。


 扉を開けた途端、わたくしは顔をしかめた。


 机が。


 机が垂直方向に山積みになっている。しかも三段で、なにかを囲むように重なる複数の机。周りにはアンリたち三人が立っていたので、だいたい、どういうことかわかった。


「あなた方」

 低い声で呼びかけると、アンリの取り巻き二人の肩がびくっとした。けれどアンリの肩はちっとも動かない。この声がわたくし――加賀谷璃子のものだということは百も承知のはずなのに。

 なるほど、動じていないんだ。アンリはわたくしを舐めきっているのですね。


「その机はなんですか?」

「り、リコピン?」

 山の中から聞こえる声の主はやっぱり、ハヘ子さん。


「あのさ」

 アンリが背中で言った。

「これ、ハヘ子がやるって言い出したんだから邪魔しないでくれる? あんたに止める権利なんてないでしょ?」

 ハヘ子さんが……そんなバカな。

「ハヘ子さん、あなた今からなにをするつもりなんですか?」

「えへへ……この机を内側に倒すんだよ。どかーんって」

 わたくしの呼吸が一瞬止まった。机は三段もある。それらがハヘ子さんを目がけて倒れてくるのだ。机はどの部分も硬い。合板のところも。スチールの棒の部分だって。


 当たったらどうなるの?


 ハヘ子さんの顔に一生ものの傷がつくかもしれない。鞄をかけるフックが目に刺されば失明だ。衝撃を避けようとして構えた手にぶつかったら爪が剥がれる。なにより頭に当たれば、場合によっては大怪我……もしかするとそれ以上の事態になるかもしれないのだ。


 それを本当にやろうというのか。

 湿気が多く、床の木目にはわずかな水分が滲んでいる。窓の向こうでは横殴りの雨。どう考えても理に合わない。


「ハヘ子さん! あなたがやりたいと言い出したのですか!?」

「えっと、あの、アンリちゃんがね……」

 ちっ、と舌打ちの音がして、アンリは憮然ぶぜんと鼻を上げた。

「あれ、ハヘ子? わたしが言ったからやるんだ? わたしのせいにしちゃうんだ?」

「はへへ……でも、アンリちゃんさっき……」

「そうなの! じゃあ伝説じゃないわね。ハヘ子が自分で言い出しっぺになって、自分でお願いして、それで奇跡の生還を遂げるから伝説になるのにねぇ。わたしに言われてやるんだったらそれって伝説じゃないわよ。いじめだから。やめましょ」


 いじめ。その言葉をアンリが使う? そうですわよ、ハヘ子さん。これはいじめなのです。れっきとした犯罪なのです。あなた、こんなのさっさと、降りてしまいなさい。

 なのにハヘ子さんは、アンリなんかにすがりつくように言った。

「だ、大丈夫だよ! 伝説だもんね! やるよ。やるっ!」


「なにを考えているのですか、ハヘ子さん! 伝説ってなんですか! そんなの伝説でもなんでもありませんよ。いいえ、仮に伝説だとしても、こんな伝説を誰も羨ましがったりしません。ただの馬鹿ですっっ!!」

 アンリがようやくこっちを振り向いた。彼女の目はまるで翡翠ひすいのようで、ぎらぎらと輝いている。でもそれは同時に、ぞっとする光だった。なにかに操られているような、そんな目。


 誰に操られているのよ。あなた、誰のためにこんなことをしているの。


 アンリはつかつかとこっちに歩いてきた。近づいてきた。いや、近づいてきたどころではない。鼻の頭同士がぶつかりそうなくらいに、アンリはわたくしに顔を寄せた。


「なにを考えてるのかって? それはお前だよ。ただの馬鹿だって? それもお前だよ。お前はハヘ子のこと、どれだけ知ってるっていうのよ」

「――――っ」

 近い。アンリの圧力が温度になって伝わってくる。湿気のせいかもしれないが、わたくしの額からは汗がとくとくと流れ始めた。その汗は眉間を流れ、上唇にまで達する。


「この子の家はね、貧乏なの。お父さんだっていないわけ。だからあたしたちが遊んであげてるんだ。わかる? この子は嬉しいの。だからお前は馬鹿だって言ってるんだよ!」

「な、なにを……」

「あたし、知ってるんだよ。ハヘ子のお父さん、どこかの会社の研究所で働いてたんだ。でもハヘ子が小さい時に自殺したの。身体の細い管を切って。あちこち切って。真っ赤になって死んでいったのよ。それって怖くない!?」


 アンリの目元が歪んだ。これって。……笑っている。アンリは笑っている。


 わたくしは信じられなかった。ハヘ子さんの生い立ちや境遇に対してではなく、そういった悲しいことを朗々と語っている、目の前のアンリの態度が信じられなかった。


「企業秘密の発明ってのがあったんだけど、それを同じ会社の人に売られて、お父さんは解雇されたのよねぇ。よくわかんないけど冤罪っていうんだっけ、こういうの」

「あなた、よくもまあ他人の家のことまで……。だいいちおかしいですわ! どうしてそんなことまで知ってらっしゃるの? それもいじめの一環なのですか!?」

 わたくしはにらんだ。噛みつきそうなくらいに獰猛どうもうな視線をアンリに送った。

 だが彼女はなおも涼しい顔をしている。憎たらしいくらいきれいな耳に、髪を添えて。

「仕方ないじゃない。だって、ハヘ子が教えてくれたんだもん」

 一番下の机の奥、パイプの隙間からのぞくハヘ子さんの白い脚を、わたくしは見た。

「い、今の話は本当なのですか……は、ハヘ子さん……!?」

 ありえない。それはさすがにありえない。自分の父親のことを、悲劇を、別れを、そんなにぺらぺらと他人に話せるものなのか?


 わたくしはお父様の顔を思い出した。仕事をしている時は厳しい顔をしているが、わたくしが「お父様」と呼べばたちまちにその顔はふにゃーっと溶ける。「璃子りこ」「璃子」とわたくしの名前を呼んでくれる。もしそんなお父様と明日から会えなくなるなんてことになったら。それも、永遠に会えなくなったら――。絶対言えない。誰にも言うもんか。


 ハヘ子さん、違うと言ってね。後生ですわ。あなたはそんな子ではないでしょう?


 でも聞こえてきたのは、屈託のない声だった。

「うん! そだよ!」

 いつもわたくしや祖父江に話しかけてくれる、あの声に間違いなかった。


「ほらな。だからあたしたちが遊んであげてるのよ。家に帰っても寂しいじゃん。それより伝説をつくった方が、ハヘ子にとっても幸せなのよね」

 アンリはフンと鼻息を吐き、勝ち誇った顔をする。


「お嬢様、返事は?」

 わたくしはうつむき、じっと、言葉の準備を整える。


「ふん、無視かよ。さ、だったらやろっか、ハヘ子。準備はいい?」

「う、うん……」

「なんだお前、怖いの?」

「ちょっとだけ……」

「へえ。伝説をつくる奴が怖がってるんだ。へええ……」

「あ、うそうそ! 全然怖くないよ! チョーへっちゃらなんだもんね!!」

「よし」


 ……ぐい。わたくしは、アンリの肩を掴んだ。


「なに?」

 アンリはどこか恍惚とした表情で、わたくしの方を振り向く。


「説明してあげたじゃん。まだ、なにか文句あるの?」

「よし、じゃないよ」

「あれ? お嬢様らしくない言葉づかいね。やっぱり……」

「よし、じゃないって」

「嘘つきのお嬢様なんだね、おま……」



 ぱあんっ。



 アンリの頬に平手打ちを入れる。彼女は、翡翠の瞳をどろりと濁らせてよろけた。

 瞬く間にわたくしの手がじんじんと熱くなる。わたくしだって、痛い。

「お、お前っ!」



 ぱあんっ。



 アンリがわたくしを張り返した。わたくしの頬は朱色に染まる。

 わたくしは息を深く肺に落とし、肩が壊れるくらいに腕を振りかぶった。



 パアンッッ――――!!



 一発目よりも、もっともっと強く。それもひと呼吸も置かずにアンリを張った。

 胸がどきどきいう。足元もおぼつかない。


「リコピン! アンリちゃん! や、やめてよ」

 ハヘ子さんが机の下からするりと外に出てきた。だがハヘ子さんはわたくしの味方をするわけでもなくアンリを気づかうわけでもない。ただはらはらとして両者の顔を交互に見ているだけだ。


「てんめえええぇぇぇぇぇぇ――っっ!!」


 アンリが叫んで掴みかかってきた。わたくしの制服の襟元をねじれば、取り巻きどもは「アンリちゃん、やっちゃえ!」とはやし立てる。


 いらいらした。わたくしはほんとにいらいらした。


 アンリの言葉、仕草、その顔つき。

 取り巻きの軽さ、みっともなさ。


 そしてなによりも決定打になったのは、ハヘ子さんのどっちつかずの態度だった。


 普通だったらわたくしをかばうはずだ。なにしろいじめられているところを助けたのだから。なのにハヘ子さんは、わたくしにもアンリにも気を遣っているように見える。


 わたくしとこの女が同列? ハヘ子さんの中では同列なの?


「あなたなんて、消えちゃえっ――――」



 どん。



 わたくしはアンリの身体を突いた。両手でしっかりと力を込めて、もうどこでもいいから遠くに行ってほしいという一心でアンリを突き飛ばした。

 ところがアンリは、わたくしがまったく予期せぬ方向へと飛んでいった。それは――、


 ――机の山だった。


 アンリの身体が山に当たる。机はしっかりと積まれているわけではない。元々崩す予定で組まれたものなので衝撃には弱い。中段の机がバランスを失い、支えをなくした上段の机はアンリを目がけて崩壊した。


 たぶんアンリは小さくない悲鳴を上げていたと思う。いや、それすらも想像であって、ほんとは叫ぶ暇もなかったのかもしれない。とにかくアンリの身体は机という机に呑みこまれた。あっという間にアンリの身体が合板とシルヴァーグレイの棒の隙間に消え、取り巻きはわれ先にと教室から逃げていった。


 音が止んだ。窓の外には豪雨。なのにどうしてその音を届けてくれないのだろう? 今はどんなちょっとした音でもいいから、耳を落ち着かせる音がほしかった。


「アンリちゃん! 大丈夫? 大丈夫!?」

 ハヘ子さんは狂ったように机をどかし、アンリを掘り起こそうとしている。


 ……え? どうして?


 わたくし今、なにをしたの? ハヘ子さんは、なにをしているの?


「アンリちゃん!」

「う……」

「大丈夫? 血は出てないよ。骨は? 折れてない? どう?」

「…………」


 怒ると思った。アンリはきっと怒ってわたくしに飛びかかってくるだろう。でもそれでいい。それがいい。アンリに無茶苦茶にされて怪我の一つでも負ってしまえばいい。そうすればおあいこだ。とんとんだ。今日は『いつもの一日』のまま過ぎ去ってしまう。


 さあ来なさいよ、アンリ。


「うっ、うっ……」

「アンリちゃん? どこか痛いの? どこ?」

「うっ、ひぐっ、うええええーん、痛いよう、痛いよう……」


 そんな。


 そんなのって。そんなの……。


「うえええーん、うっ、うっ、ふうううう、ひぐっひぐっ……」

 なんとアンリは泣き出した。さっきハヘ子さんを恐ろしい目に遭わせようとし、わたくしに食ってかかってきたあのアンリが、誰の目も気にせずひたすらに泣き続けている。

 アンリは何度も目元をぬぐっているが、腕や脚の様子を見ると、折れているようではない。つまりアンリはただ単純に怖くて、痛くて、悔しくて泣いているのだ。

 床には髪飾りが転がっていた。アンリのストレートの髪を護っていた銀色の髪飾りは真っ二つに折れ、接続部からはバネが飛び出し完全に壊れている。ちょうど壊れたところにプラスチック製の花がついていたが、その花弁の一枚は砕け散っている。


 わたくしは怖くなった。アンリの髪飾りを見て、気づけば口だけで息をしていたのだ。

 アンリはたぶん、毎朝学校に行く支度をする時にこの髪飾りをつけている。アンリの母は朝食をつくってくれているだろうし、父は朝刊を読んでいるかもしれない。アンリが家族に「いってきます」と挨拶をすれば、彼女は「いってらっしゃい」という優しい声を背中に受けることだろう。


 もちろんアンリがハヘ子さんをいじめていたのは事実だ。わたくしの胸倉も掴んだ。


 でもアンリにだって家族はいるし、その家族はアンリを大切にしている。友達もいる。もしかしたらアンリに想い焦がれている男子もいるかもしれない。アンリだって笑う。こんなかわいい髪飾りを買うのだから、アンリは特別な悪者ではなく普通の女の子なのだ。


 ただ、アンリは操られていた。いじめをしなければいけない、という一種の幻覚にまどろんでいた。アンリは初め、ハヘ子さんをからかうことでハヘ子さんを励ましていただけかもしれない。その真偽のほどは推測に頼るほかはないが、結局はハヘ子さんをいじめることに意味を見出してしまった。


 そして、わたくしは事実としてアンリの髪飾りを壊した。彼女はこの髪飾りを買う時、きっと「かわいいな」「似合うかな」と思いながら買ったはずなんだ。


 なのに。


 なのになのになのに。


 わたくしは、それを壊してしまった。


 だからわたくしは怖くなった。みじめに感じた。自分が世界で一番悪いヤツだとすら考えた。ハヘ子さんを護るためという口上はあれど、わたくしにアンリを物理的に傷つける資格など、どこにもなかった。


 走って、教室から出て、ハヘ子さんの「リコピン!」という叫び声も無視して、雨の中を突っ走った。傘も差さずに走った。雨が少しでもきれいにしてくれるなら、ずぶ濡れになってもいいと思った。雨と前髪で視界が消える。自分自身も、消えたような気がした。

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