第一章④(リコピンってなんですの!?)

 四月も終わりに近づいたある日の放課後。わたくしはいつものように生徒会室で業務をこなしていた。今日の仕事は、ゴールデンウィークの過ごし方を説明するプリントづくりだ。本来は先生が作成するものなのだけど、叩き台は生徒会の方で考える。


 ただ、これはそれほど難しい仕事ではない。『繁華街に繰り出さないこと』とか『規則正しい生活を送ること』みたいな紋切り型の文章を書いて楽に仕上げることができたので、わたくしは少々のドヤ顔で千乃ちのに尋ねた。

「千乃、あなたの仕事はもう終わりそう?」

「え? いえ、私はとうの昔に終わっていますが」

 あっそう……。


 それなら生徒会室に長居をする必要もない。パソコンを棚に戻し、鍵をかけた。長方形に並んだ机の向きと隙間を微調整する。その流れで椅子もきちんと机の内側に入れた。カーテンを閉める。今日はごみを出していないので、ごみ箱はこのままでいいわね。千乃もサックスケースを背負ったようですし、さあ、帰りましょうか。


 日に日にぼろぼろになっていっている扉をガチャリと開ける。するとその瞬間、わたくしは足下に何者かの気配を感じた。

 なに? 動物? わたくしの強張った顔を目がけて……、


「ハヘェェェェェェェ――――――っっ!!」

「きゃ……きゃあぁぁあああああぁぁぁああ――――――ッッ!?」


 わたくしは堪えきれずに大声を出してしまった。

 なんとハヘ子さんが廊下でよつんばいになっているのだ。しかも部屋を出てすぐのところにいたので余計にびっくりした。

 なんですの、この子? わたくしたちが出てくるまでずっとここにいたというわけ!?


「あ、あ、あなた、は、ハヘ子さん……」

「うん! レッツライドオン!」

「はい?」

「お嬢様、ぜひともこの駄馬に乗ってくだせえぇぇぇ!」

 どうもハヘ子さんは自分の背中に乗れと言っているようだ。意味がわからない。なんのために乗るのか。乗ってどうなるのか。いっさいがっさいが、ちんぷんかんぷんだ。


「まず、訊かせて下さい。あなたはどうしてそんなことをしているのですか?」

 わたくしはしゃがみこみ、ハヘ子さんと目を合わせた。


「えっと、ごにょごにょ……さんが喜ぶと思って」

「聞きとれませんわ。今、なんとおっしゃったの?」

「えっ? あの、その、ごにょごにょ……さん……」

「お嬢様、もしかすると戸田とださんはお嬢様の名前を知らないのではないでしょうか?」

 う、嘘でしょ!? ハヘ子さんとは去年も同じクラスだったはずなのに?


璃子りこです。わたくしの名前は加賀谷かがや璃子りこと申します。覚えて下さいね」

「え、あっ、ごめんなさい! ほんとに、ごめんなさい!」

「いや、別に構いませんから。それより早くお立ちになって」

「うん!」

 ハヘ子さんが立ち上がると、彼女のスカートは廊下の微風にピラピラとなびく。

「ありがとう、リコピン!」

「り、リコピン!? リコピンってなんですの!?」

「有機化合物だよ! 八個のイソプレン単位が集まってできてるんだよ! ダイエットに効果があるから、適度に摂取してね☆」

「そんなこと訊いていませ――ん!!」

「あはっ」

 ハヘ子さんは破顔一笑はがんいっしょう

「璃子ちゃんのことだよ。今日からリコピン! 璃子ちゃんをリコピンと呼ぶのだぁ!」

 彼女はわたくしの顔をじっと見つめて、言った。その目がくりくりとしていたのでいつしかわたくしは赤面してしまっていた。


「す、好きにすればいいですけど! それよりどうしてよつんばいになってらしたの?」

「だからぁ、リコピンが喜ぶと思ってさ!」

 喜ぶわけないでしょ!


 ……でも、さすがのハヘ子さんといえども、こんなわけのわからないことを単独で思いついて実行するだなんてなんだかおかしい。

 わたくしはもしや、と思って訊いた。

「あなた、誰かにこれをやれって言われたのですか?」


「そうだよ。おかしいなあ、お嬢様はお馬さんを求めてるって教えてもらったのに。ひひーん、ぱからんぱからん!」

「それ、本物の馬じゃなくて、戸田さん自身が馬になれってことか?」

 千乃が小首を傾げて話に加わってくる。

「たぶん、そうだと思うなあ……うん、そうに違いない! えへん!」

 あっけらかんと言うハヘ子さんの顔をじっくりと見て、わたくしは彼女の手をとった。


「……行きますわよ」

「ほへ、どこに?」


 ハヘ子さんは相変わらず純朴に微笑んでいる。わたくしにぐいぐいと引っ張られたまま貨物列車状態だっていうのに。わたくしは千乃に、強い目線で合図をした。

「あなたにそれを教えて下さった方のところに、ですわ」


「お嬢様」

 千乃は心配そうな顔をしながらもわたくしたちの後についてくる。ハヘ子さんはなにも考えていないのか、握られていない方の手をぶんぶんと振りながら歩く。


 たどり着いた先は、わたくしとハヘ子さんの教室だった。中には女子が三人。アラカシの樹の下でハヘ子さんをからかっていた三人組だ。そのうちの一人はクラスの中でも『大人っぽい』と名高いアンリで、彼女だけが椅子に座って残りの二人は立って話をしているという陣容だった。アンリたちはなにかの話で盛り上がっていたようだけれど、わたくしと千乃の姿を視認するなり、きつい目に変わった。


「アンリちゃん、だめだったよ」

 ハヘ子さんがアンリに申し訳なさげに言うと、アンリはハヘ子さんから目線を切った。

「ちっ……いや、もういいから」

 アンリたち三人の力関係が対等でないことは、軽く眺めただけでもわかる。アンリが中心になっていて、後の二人は彼女の取り巻きといった感じだ。

「でもナイスアイディアだったんだけどね!」

 ハヘ子さんは、音楽に酔うバンドマンのような表情で言う。

「だから、もういいってば」

 しかしアンリが拒否をするものだから、教室の中は途端にしてしじまに覆われた。


 この教室の中にはわたくしたち六人しかいない。窓の向こう側からは、校庭ではしゃぐ男子たちの声が聞こえてくる。

 するとハヘ子さんが横から周りこんで、アンリに目線を合わせようとした。アンリは無理な体勢になってでもハヘ子さんからさっと目を逸らす。ハヘ子さんの頬が引きつって、いきなり、


「ハヘええええええええぇぇぇぇぇぇ――――――――――ッッ!!」


 ぐるり、と爆発した。ハヘ子さんのかわいらしい顔は、いつもに増して崩れている。


 ……なんて顔するのよ。わたくしは思わず引いてしまう。それでもアンリは、なにごともなかったかのようにハヘ子さんを無視し続けた。


「え、えへへへへへ」

 ハヘ子さんは笑うしかない、というような笑い方をする。

 わたくしはもうこの場の雰囲気に耐えられなくなり、ついに沈黙を破った。

「あなたですね、ハヘ子さんにおかしなことを吹きこんだのは?」

「……ああ。だから?」

「人を馬にして、なにが面白いのですか?」

 チッ、と舌打ちの音が返ってきた。

 わたくしに舌打ち? あなた、調子に乗るのもいい加減にしなさい。

「生徒会長として見過ごすことはできません。こういうことは即刻やめて下さい」

 アンリはすぐにはなにも言い返さなかった。ハヘ子さんは複雑そうな顔をしている。

 これ以上この場に滞在する意味もない。わたくしは、きびすを返した。

「行くわよ、千乃」

「はい、お嬢様」

 千乃の表情も厳しいものだった。


 教室の扉へと歩き出したわたくしたちに、アンリは呟くように言った。

「……ニセモノのくせに」


 その声に振り返ると、伏し目がちにわたくしを一直線に睨むアンリがいた。


 ニセモノ……?


「あんた、いつもお嬢様ぶってるけど、結局はニセモノのお嬢様じゃんか」

「あなたのおっしゃっていることの意味がよくわかりません。あなたはいったい、わたくしのなにを知っているというのですか?」

「さーな。でも一つだけわかることがあるよ。クラスのみんなはお前の正体を知ってるってことさ。一コ下の子分を従えて、小さい時からお嬢さまごっこをやってるってな」

「こ、子分ですって!? それってまさか千乃のことをおっしゃっているの? もしそうだとしたら、今すぐ謝りなさい。千乃に! 謝るのです!」

「お嬢様、私はかまいませんから」

 千乃はほとんど無表情のまま、力なく言う。

「だめです! それにクラスの皆様がわたくしたちをけなしているなどありえません!」


「はっ」

 アンリは、あざけるように笑った。

「知らねーのはお前だけだよ。みんな知ってんだ。知っててニセモノのお嬢様に付き合ってやってんだ。それ、忘れるんじゃないよ、お・嬢・様」


 ふんっ! もう振り向かない。振り向くものか。一人や二人の敵ができたってどうってことはありません。誇りを汚す者となど、話す必要はないのです。


 教室の扉を閉めた後、千乃の顔を見たら、彼女の目はうるんでいた。


 辛かったのね。悔しかったのね。明日からあなたにもしものことがあったら、わたくしがどんな目に遭ってでも助けて差し上げます。だから、もう泣くのはやめて。


 そう。あなたがずっと、わたくしを護ってくれたように。

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