第一章②(彼女はまさに爆弾だ。かわいさ爆発。)

「終わりましたわ」


 視線の槍で貫かれること三十分。なんとかスケジュールをまとめることができた。

 先生のアドレスにメールをさくっと送り、これで完了。


「さあお嬢様、一緒に帰りましょう!」

 千乃ちのがサックス用のケースを肩にかけ、わたくしもパソコンを閉じる。


 千乃はほんとにサックスが好きね、とあらためて思った。それに腕だって熟練した奏者の域に達している。あんなに上手なのだったら、もっと皆にアピールすればいいのに。まったく、千乃の引っこみ思案にも困ったものですわ。


 だけど千乃は実のところ、吹奏楽部のある高校に通いたかったのかもしれない。

 事実、そういう話をウワサで聞いたことがある。屋敷で働いている方がこっそりと教えてくれたのだけど、千乃はわたくしとは別の高校を受験したがっていたらしい。


 それは、わたくしにはとても信じられない話だった。わたくしと千乃は同じ小学校、そして同じ中学校に通ってきたし、学校の中でも外でもずっと一緒だった。なので千乃のいない高校生活なんて考えられなくて、わたくしはダメ元でこう言った。

「わたくしと同じ高校を受験しなさい!」って。

 ダメ元のくせに、なぜか命令口調で。


「わかりました!」

 意外や意外、千乃はわたくしに即答をしてくれた。


 そういうわけで、彼女は三編みあみ高校に入学した後も一人でサックスを吹き続けているし、朝と放課後の練習を欠かしたことはない。入学した当初はちょっとした注目を集めたのだけど、千乃はわたくし以外に愛想を使わないため、そのうち見学者は途絶えてしまった。


 千乃のサックスの音があまりに物悲しく聞こえるので、わたくしは一度だけ彼女に謝ったことがある。

「あなたが他の高校に行きたいというウワサはやっぱり本当だったのかしら。もしそうだとしたら、ごめんなさい」


 だけど千乃は、朗々とした声で返してくれた。

「なーに言ってるんですか! 私は空の果てまでも海の底までもお嬢様とご一緒します! お嬢様は私を必要としたから、同じ高校を受けろとおっしゃったのでしょう?」


「そう、ですね……」


 千乃の、下唇に刺さるように伸びる犬歯を見て、わたくしは素直には喜べなかった。


 が、それはそれ。過ぎてしまった話だし、今更どうこうと蒸し返すつもりはない。


 大切なことは、今二人で一緒に家に帰っているという事実そのもの。わたくしは校庭に出て、千乃がそれに続く。もう十七時半。早く帰らないと夕食前のバスタイムをゆっくり楽しめなくなってしまう。そう思って少し早足になるわたくしの耳に、謎の声が届いた。


「伝説! 伝説!」


 見れば、アラカシの樹の下に集まった三人の女子たちが樹に向かい「伝説! 伝説!」と騒ぎ立てている。なにが伝説なの? もしかして、あの樹の下でカップルになれたら一生幸せになれるとかそういうこと?


 わたくしは足を止めた。もちろん千乃もストップする。


 女子たちは全員、上を向いている。つまり、樹の上ある『なにか』に呼びかけているのね。わたくしはアラカシの太い幹を、下から舐めるように眺めた。

 ごつっとした幹は高さ3メートルくらいの部分でいくつもの枝に分かれていて、それぞれの枝は見るからに硬そうだ。そしてその枝の一つに、人間の影を捉えることができた。


 あの子は。


 ……ああ、そういうことなの。なるほど、「伝説」ね。


 枝に登っているのは、ハヘ子さんだった。


 当たり前だけど『ハヘ子』というのは本名ではなく、あだ名である。

 だったらどうしてハヘ子っていうかって? それは、彼女は驚いた時や誰かをびっくりさせる際に「ハヘ――っ!!」という奇声を発するからだ。そしてその顔は下品そのもの。瞳は斜め上や真下など好き勝手な方向に動き、鼻の穴を広げて舌を限界まで突き出している。「ハヘ――っ!!」は彼女の代表的な一発ギャグなのだけど、それを初めて見た者は例外なく腰を抜かしかけてしまう。ハヘ子さんの変な顔は、笑えるというより気味悪さが先に立つのだ。


 ただしハヘ子さん――戸田とだ歩実あゆみ――の容姿が他人と比べて劣っているかというと、そうではない。むしろ、もしもタイム・ストップをかけて彼女の静止像を見られるのならば、ハヘ子さんが誰よりもかわいいということに気づくだろう。……あ、もちろんわたくし以外の『誰よりも』ですけれど。


 ころころ変わる表情には、大きくて丸い目が常にセットになっている。悔しい時は思いっきり悔しさを表しているし、嬉しい時にはものすごく輝いている。目を見れば今のハヘ子さんの気分を知ることができるのだ。そういう自在性のある瞳を、均質に生えそろった下側のまつ毛がしっかりとコントロールしている。口はやや大きく、逆ツリガネ型に開いているのもとてもかわいらしい。むすっとしているより全然いい。彼女はまさに爆弾だ。かわいさ爆発。


 ハヘ子さんの髪だって見事なものである。たとえハヘ子さんがどんなにやんちゃをしても、ストレートの長い髪はすぐにさらりと元どおりになる。どういう手入れをすればあんな従順な髪の毛ができ上がるというのだろう。「あー、前髪がもしゃもしゃ!」とかよく言っているけど、そんなの一時的なことじゃないの! という嫉妬半分のツッコミを入れたくもなる。


 こんなふうに、ハヘ子さんはかわいいのに。


 かわいいのに、もてるだろうに。


 ……なぜか彼女は変なことばかりをする。半分は自分から進んで、半分は周りの声に応えるかのように。


 まさに今だってそうじゃないか。

 アラカシの樹の下では女子たちが囃し立て、ハヘ子さんは枝の上でぶんぶんと手を振っている。スカートからは白くて細い脚がつけ根までのぞいているのだけど、あれ、下からのぞかれたら下着が見えてしまうのではないかしら。ほんとう、どうしてあんな野蛮なことをしているのだろう。そしてそれがどうして「伝説」とやらになるのだろう。ハヘ子さんのやることはいつも意味不明で理解不能だ。


「伝説!」「伝説!」


 まだ声は止まない。わたくしが趨勢をうかがっていると、千乃が袖を引いてきた。


「お嬢様、もう行きましょう。バスタイムに間に合わなくなりますよ?」

 千乃の言うことは正論だ。それはそうなのだけど、正直、続きが気になってしまっているわたくしがいる。


「伝説!」「伝説!」「伝説!」


 ボルテージがピークに達した瞬間、ハヘ子さんは身をかがめ、枝の上から、


 ――跳んだ。


「っっ!!」


 わたくしはハヘ子さんが校庭の硬い土に衝突する映像を思い浮かべ、かすかに声を出した。しかしハヘ子さんは空中でさらに身を縮めると、膝を両手で抱えこむ。体育座りの格好のまま前方に一回宙返り。手を離す半瞬で長い脚が地面に向かって再びすらりと伸び、ハヘ子さんは見事な着地を決めた。

 それでも土からは少しの衝撃を受けたようで、ハヘ子さんは反作用の力を逃がすために地面の上をごろごろと転げる。彼女の制服はたちまりに砂色に染まり、肘や肩口などの部分にはこげ茶色の土も付着していた。


「よおおおおおおっっし!!」

 ハヘ子さんは立ち上がるなり、大きなガッツポーズをつくって叫ぶ。

 とはいえ汚れの方も気になるようで、ハヘ子さんはパッパッと制服をはたいた。

「うわわ、服が土だらけだぁ」

 すると囃し立てていた女子の一人がすぐにどこかに走っていき、緑色のホースを持って戻ってきた。ホースの口からは水道水がとくとくと流れている。女子がホースの先を指で絞ると水が勢いよく舞い上がり、虹が現れ、飛沫はハヘ子さんの身体へと降り注いだ。

「ほら、きれいになるよ!」

「わっ、わっ、つめた! つめたいっ! ハヘ――っ!!」

 ハヘ子さんは目を閉じて飛び跳ねる。だけど本気で嫌がっているようでもない。やめてほしいのだとしたら、その場から走って逃げるはずですもの。


 ……というか。


 なにこれ?


 わたくしがこのように思うのは今回が初めてではない。ハヘ子さんは日々、クラスメイトにからかわれているというか、いじられているというか、身体を張った芸人みたいなことを繰り返し求められている。だけどあらためて見るとそれはひどいものだった。さっきのだって下手したら足を骨折していたかもしれない。こんなの、全然笑えない。


「お嬢様?」

 千乃が心配そうにわたくしの顔をのぞきこんでくる。

 まずい。千乃はなにかのアクションを起こそうとしているのかもしれない。


 千乃は小学校の頃、わたくしを「嘘つき女」とからかった男子を柳生なんたら流抜刀術で仕留めたことがある。ホウキで男子の腹部を急襲し、男子は「ぼげぇら!」と凄い声を上げて地面に倒れた。まさか今からあれと同じようなことをやるんじゃないでしょうね。

 実行に移されるよりも先に、千乃を制さなくては。


「千乃、行きましょう。お、お嬢様というものは、ああいう野蛮なところに立ち入るべきではありません」

「お嬢様がそうおっしゃるのであれば」


 というわけで、その場では事なきを得た。だけど学校から離れてもハヘ子さんのはしゃぐ声はいつまでも聞こえてきた。彼女はわたくしと同級生なので、つまり高校二年生である。三編高校に入学してから早くも一年が経つけど、ずっとあんな調子だ。


 本音を言えばあまり関わりたくはないのだけれど、わたくしは生徒会長なのでいつかは彼女の愚行や蛮行を止めなければならないだろう。まあ……いつか、なのですけど。

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