グッドモーニング、ハヘ子さん

いっさん小牧

プロローグ

プロローグ:至福の朝

 わたくし――加賀谷璃子かがやりこは立っていた。


 入道雲の直下、夏の光の中に立っていた。


 わたくしの通う三編みあみ高校の制服は白地に青の襟、といういたってシンプルなデザインなのだけど、二年生であることを示す銀色のワッペンが胸元に輝いているおかげで見栄えは悪くない。


 高い天に気をとられていたら、小学生のランドセルが並んでわたしくの目の前を走り抜けていった。きゃあきゃあと声を上げてとても楽しそう。朝の空気には蒸発を忘れた幾分かの湿気が含まれていて、ひと筋の汗がわたくしのこめかみ付近を伝う。だけどこの汗が流れたのは、暑いから、という単純な理由だけではない。


 鞄からハンカチを取り出して、額から横一線にぬぐった。お婆様から習って自分で薔薇の刺繍ししゅうをしたハンカチは、わたくしの(まだかしら)という少々急く気持ちをも押さえてくれる。


 わずかに吹いたあいの風で涼をとる。飛ばされないようにとハンカチを仕舞いながら、ふと、遠い昔のことを思い出した。




 わたくしがまだ小学校の低学年だった頃なので、もう十年前にはなるだろうか。


 夏休み明けの放課後の教室で、わたしくを含む五人の女子が、綾乃あやのちゃんの机をとり囲んでいた。綾乃ちゃんはわたくしたちの中心で脚を組みながら椅子に座り、夏休みの思い出を話してくれている。


「わたし、ハワイに行ったのよ」


 綾乃ちゃんが明るい声で言うと、皆めいめいに騒ぎ立てた。

「すっごーい!」

「ね、ね、ハワイってどんなとこだった?」

 綾乃ちゃんは手を顎に添えて、おもむろに斜め上を向く。

「うーん、ま、大したことないわね。ビーチで日焼けしたりお父さんと一緒に泳いだりしたけど、日本の海とあんまり変わんないって感じ? とりあえず、外人さんと話せたのはよかったかも」

「えっ!? 綾乃ちゃん、外人さんとお話したの?」

「どんな人? どんな人?」

「ライフセイバーっていう人よ。海を護る仕事をしてるんだって。わたしが手を振ったらハローって言ってくれたわ」

「英語で話したんだ、かっこいいー! いいなあ、あたしもハワイに行ってみたいな」

 わたくしの友達は胸に手を当てて、うっとりとする。


 そんな綾乃ちゃんの話を、わたくしはニコニコと笑って聞いていた。だって楽しかった思い出の話ってとてもいいもので、聞いているこっちだって嬉しくなってきちゃう。

 だからわたくしはなんの気なしに、言った。


「うちのライフセイバーさんは、毎晩寝る前に楽しいお話をして下さるんですよ」って。


 すると綾乃ちゃんは少し眉根を寄せて、わたくしの方を向いた。


「……うちの? 璃子、ライフセイバーってあなた一人だけじゃなくて、ビーチにいるみんなを護っているのよ」

「でも……プライベートビーチでしょ? でしたら、わたくし一人だけを護って下さっているのではありませんか?」


 ここで一瞬、教室の中が静まった。


 あれ、どうかした? 見回してみれば、みんなして怪訝な目つきをわたくしの方に向けている。おかしいな、わたくしは今、なにかまずいことを言っちゃったかしら。

 重々しい空気の中、目をつぶったままで沈黙を破ったのは、綾乃ちゃんだった。


「あんたねえ……ハワイにプライベートビーチなんかあるわけないじゃない」

「そんなことはありません。お父様がハワイの方にお話して、準備して下さいましたよ」


「ばーか」

 厳しく言い放つなり、綾乃ちゃんは腰に手を当てて立ち上がった。わたくしの隣に立っている一つ年下の小幡千乃おばたちのの顔が少し歪んでいるので、わたくしもシンクロし、口角を片方だけ上げて固まった。


 なに? なにが始まるの?


 千乃、黙って見てないで、わたくしを助けてよ。


「前から思ってたんだけど、もしかして璃子ってお嬢様なの?」


 ……え? お嬢様?


 そんなこと、いきなり訊かれてもわからない……。


「璃子の家に使用人はいるの?」

「使用人かどうかはわかりませんが、屋敷のお世話をして下さる方はいますよ」

「ふーん。何人くらい?」

 ええっと。ひー、ふー、みー……。そんなの、数えきれないよ。


「百人はいらっしゃるはずですが」

 わたくしがだいたいの人数を告げると、綾乃ちゃんの目元が軽く引き上がった。


「え――っ、すごい!」

 誰かが手を口に当てて、叫んだ。


「すごいよ璃子ちゃんのお家!」

「それ、本物のお嬢様だよっ!」

 声は重なり、どんどん大きくなっていく。さっきまで盛り上がっていたハワイの話なんか、いつの間にかどこかに飛んでいってしまった。


 そうなんだ……わたくしって、『お嬢様』だったんだ。


「璃子ちゃんの話し方って、前からお嬢様っぽいと思ってたんだぁ」


 いえ、この話し方はお母様のマネをしているだけなので、自覚して使っていたわけじゃないのです。自分がお嬢様だなんて、ほんとに……これまでまったく知らなかった。

 焦点も定まらないほど呆けるわたくしに、弾けたポップコーンのように質問が飛んだ。


「ねえねえ、シベリアンハスキーとか飼ってるの?」

「ベッドは大きい? ふかふか?」


 ちょ、ちょっと待って。わたくしは次々と波濤のごとく押し寄せる質問に戸惑う。


 けれど、これだけ注目されるのは正直、悪くない。わたくしが照れくさそうに顔をほころばせると、


「それってさ、嘘じゃないの?」

 綾乃ちゃんが、吐き捨てるように言った。フン、と笑う鼻息の音すらも聞こえてくる。


「使用人が百人いるとかおかしいよ。どんな家なのよ。璃子の空想じゃないのかな」

「そんなことはありません。本当ですよ」

「じゃあ、証拠を見せてみなさいよ」

 綾乃ちゃんのぎらりんと光る瞳。なんだか、怖い……。


 だけど証拠を見せてと言われてすぐに見せられるわけないじゃない。そもそも証拠ってなに? ポケットから札束でも出せってこと? どうしようどうしよう。

 わたくしがまごついていると、さっきまで騒いでいた友達の様子ががらりと変わった。


「そういえば、璃子ちゃんのお家って普通の一軒家じゃない」

「お嬢様だったら送り迎えとかあるはずよねー」

「あらら、やっぱり嘘なの?」


 嘘じゃないもん。プライベートビーチも、屋敷の世話をして下さっている人たちも本当のことだもん。だけど周りの声は大きくなる一方なのでどうしようもない。綾乃ちゃんはしてやったりという顔で鼻頭を上げる。ついに、わたくしの瞼に涙が滲んだ。




「嘘じゃないもん。嘘じゃないもん!」


 わたくしは泣きながら帰り道を進んだ。アスファルトからは照り返しの陽光がわたくしの頬を打つも、乾く間なく涙が流れてくる。千乃はなにも言わずにわたくしの隣をついてきている。二人でとぼとぼと歩き、同じ家へと帰った。


 夜になって、お父様が帰ってきた。


 わたくしがお父様の背広に飛びつくと、お父様は困った振りをしながらも、実のところとても嬉しそうな声で言った。

「なんだ、どうした璃子」

 しかもだらしなさそうに鼻の下を伸ばしている。

 わたくしはお父様の服がしわくちゃになるまで顔を擦りつけた。鼻水ずーぴー。


「お父様、わたくしってお嬢様なの?」

 お父様は一瞬黙ったが、少しして「そうだよ」と答えた。


 やっぱり! お父様が言うのだったら間違いないじゃない!


「クラスのみんなが、わたくしのことを嘘つきって言ったの!」

「……そうか。まあ、勝手に言わせておけばいいさ。お前がもう少し大人になるまでは、皆にはお嬢様だということを知られない方がいい。お前の教育のためだ。家の中では気高く振る舞ってもいいが、外では我慢しなさい」


 わかんないよ、わかんない。


 教育だって? お父様は変なことを言うけど、そんなのはどうでもいいの。

 とにかくわたくしは悔しい! だってわたくしは、嘘つきなんかじゃないもん!!


「お父様、みんなが証拠を見せてと言うんです。証拠ってなんですか? わたくしはみんなに、なにをお見せすればよいのでしょうか?」

 わたくしがすがるように問いかけると、途端にお父様の顔が険しくなった。節分の時によく見る鬼のお面。あれに、そっくりだった。


「そんなもの見せなくてもいい」

「だってだって! 証拠がないとわたくしは……」

「くどい! いいと言ったらいいんだ! いいか璃子、この家の物を勝手に外に持ち出してはならんぞ。絶対にだ。ほら、今、お父様と約束をしなさい」

「は……」

「どうした?」

「はい……」

 また涙が出てきて、わたくしは鼻を真っ赤にしながらなけなしの声で返事をした。


 ……嫌。もう嫌よ。今日はなにもかもがおかしい。みんながわたくしをいじめる。


 いい日だったのに。

 夏休みが終わって友達に会えて、今日はとっても嬉しい一日だったのに。


 悲しみに暮れるわたくしの隣に、いつの間にか千乃が微笑みをたずさえて立っていた。


 そして千乃はわたくしだけに聞こえるように、そっと耳打ちをしてくれる。

「私だけは知っていますから。璃子様がお嬢様だってこと――」


 そう……。千乃だけが。千乃だけがわたくしの味方なんだ。

 それならわたくしはこの身が全うである限り、いつまでも千乃のことを大切にしよう。


 わたくしが千乃を抱き締めると、千乃も軽く抱き返してくれた。わたくしの方が一つお姉さんだっていうのに情けない。でもその時は、千乃の温もりがほんとに嬉しかった。




 次の日、わたくしは早速お父様の言いつけを破ってしまった。


 屋敷の中から証拠になりそうなものを持ち出したのだ。

 ただしそれは、高価なものや大きなものじゃなかった。わたくしが学校に持っていったのは、なんてことのない一枚のブローチだった。ヤシの実を切ってつくったもので、裏面には『hiwahiwaヒヴァヒヴァ Rikoリコ』と書かれている。ハート型だしかわいい。これだったら、証拠になるかな。


 ところが綾乃ちゃんの反応は、きわめて冷ややかなものだった。


「なにこれ? ひわひわ璃子?」

 綾乃ちゃんは、ブローチを窓からの光にかざしながら、訝しげに言う。


「あ、それはハワイ語で『大切な璃子へ』っていう意味なのですよ」

「いやいや、こんなのどこでも売ってるじゃない!! お土産もの屋さんで買ったの?」

「いいえ、そのブローチは州知事夫人からいただいたものですわ」

「……はああああああああっ!? あんた、絶対馬鹿でしょ!?」

 言うなり綾乃ちゃんは、ブローチをぽいっと床に投げ捨てた。

 なんでそんなことするの? 慌てて拾うわたくしの背を、みんなの心ない声が叩いた。


「やっぱり璃子は嘘つきよね~~」

「てゆーか璃子ちゃん、それ、自分でつくったんじゃないの?」


「違うっ! 違いますわ!!」


「これから璃子の言うことは信じないでおこうね」

「璃子はその性格を直した方がいいよ」

 なんで? どうして? どうやったら信じてくれるの?


「嘘つき」


 それは、耳の奥に響く声だった。


「嘘つき」「嘘つき」


 …………。


「嘘つき」「嘘つき」「璃子の嘘つき」

「嘘つき――」


 ………………!!



「おっほほほほほほほっ、ほほほほほほほほほほほ――――ッッ!!」



 わたくしの頭の中の線が、プチンと音を立てて一本弾けた。

 それはまるで、さなぎが皮を脱ぐように。


「な、なによ、璃子」

 綾乃ちゃんは今更のように一歩引いた声で言う。だけどもう、許すものか。


 許されるとでも、思っているのか!


「あなた方、わたくしに対してよくも無礼の数々を働いてくれましたね。下賎の者がッ! よくも、このわたくしに!」


「璃子、ちょっと」

「世が世ならこうして話せる身分ではないのですわよ。さあ、詫びなさい。今すぐに!」

「璃子がおかしくなった……」


 ああ、そうですわ。おかしいと思いたいなら思いなさい。おかしくて結構。

 わたくしはあなた方とは違うのです。真のお嬢様なのです。こんなことを言ったらお父様に叱られるって? かまうものですか。さあ、地面にひれ伏すのです。そしてわたくしに謝罪の言葉を吐きなさい!!


 加賀谷璃子はこの時をもって生まれ変わったといっても、過言ではない。


 単なる璃子ではない。嘘つき扱いされる璃子ではない。本物の、加賀谷璃子に――。




 わたくしの覚醒を見ていた千乃はガタガタと震え出し、自分の席に戻って机の中をがさごそと。そして千乃が持ってきたのは、一冊のぶ厚い本だった。


「お嬢様、ちょっと来て下さい!」

 千乃はその本を片手に、もう一方の手でわたくしを引く。みんなはしばしポカンとしていたけれど、すぐに大きな笑い声が立った。

「あの二人、まだお嬢様ごっこやってるんだ!」って。


 千乃はみんなの嘲笑にかまわず、わたくしを廊下の端っこにまで連れ出した。

 千乃がハアハアと肩で息をしているものだから、つられてこっちも呼吸が荒くなってくる。千乃はしっかりと握った本をわたくしに見せて、言った。

「この本を、読んでいただけませんか?」

 千乃がわたくしの胸元に突きつけてきたのは、少女漫画の雑誌だった。


 初めて見る書物にわたくしは幾分の興味を覚え、千乃が薦めるページに目を遣った。そのページでは、お嬢様の女の子が手を口に当てて「おほほほ!」と高笑いをしている。

 こんなものを見せて、千乃はいったいなにを言いたいのだろう?


「これが、どうしたの?」

「いいから、最後まで読んで下さい!」


 なんなのよ、もう。

 よくわからないけど、千乃のあまりの剣幕に押され、結局わたくしは最後まで読んだ。

 漫画に出てきたお嬢様は話の最後に、とんでもないことになってしまった。ヒロインの美少女に好きな男の子を奪われただけでなく、貧乏のどん底に落ちたのである。


 あれ? わたくしはそこで、ふと疑問に思った。

 お嬢様って、最強キャラのはずだけど? どうして不幸になってしまっているの?


「……読みましたわ」

 かなり平静を装ったが、わたくしの手は千乃に気づかれるほどに震えていた。


「これで、わかりましたよね!?」

「な、なにがですか?」

「お嬢様キャラはメインヒロインになれません! それに貧乏になることもあるのです!」


 ガーン! 大ショック。今まで当然だと思っていたことがひっくり返され、わたくしの脳の血管がキュウと縮まる。ごくんと唾を呑めば、嫌な汗すらも流れてきた。


「だからお嬢様は、お嬢様であることを皆に内緒になさった方がいいのですよ」

「で、できるだけ気をつけますわ……」

 千乃に完全完璧な証拠を突きつけられた後では、そう返すしかやりようがなかった。


 ……でも。


 でも! でも!


 わたくしは言いたかった。廊下の壁の全面に響かせてやりたかった。


『わたくしは、特別な存在なのですよッッ!!』って……。




 …………はっ。


 そこでわたくしは、思い出の中から現在の世界へと戻ってきた。目の前には青田がのびのびと広がっていて、気温もちょっとばかり上がってきたようだ。


 んもう、どうなってるのかしら?

 気持ちが急く。手首を反らし、腕時計で時間を確かめる。


 七時、か。千乃はすでに学校に着いて、サックスを吹いている頃だろう。

 世界中がスカイブルーに染まる中、わたくしの身体中の肌が温度の変化を感じている。こんなに暑いのに鳥肌が立っているなんて……やだ、『やっぱり』緊張しているのかしら。わたくしは鞄のチャックを横に滑らせ、手鏡が入っていることを確認した。


 どうも、まだまだ時間はゆっくりと流れてくれるらしい。


 ケヤキの枝葉のどこかに、蝉を隠したままで。

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