杉野颯太Ⅵー5

「やったわ……」


 肩で大きく呼吸をしながら、天宮がそうつぶやいた。


「……桐山」


 颯太が呼びかける。桐山はしばらくの間、ぴくりともしなかったが、やがてゆっくりと起き上がった。目立った外傷はなかったが、足元はふらふらで、何とか立っているといった感じだった。


 天宮が近づこうとすると、桐山は懐から銃を取り出し、こちらを威嚇した。


「まだやるのかよ」


 そう颯太が呆れると、桐山は断念したのか力なく笑みを浮かべ、腕を下ろし銃を投げ捨てた。


「ただのモデルガンだ。本物じゃない。あと、もう1つの門というのも嘘だ。俺にその資格はなかった」


 桐山はこちらに視線を向けたまま、ふらつく足取りで数歩後ずさった。


「君たちの言うとおりだ。俺は娘の存在を消したかった。助からないとわかっている娘のために何かをすることも、奇跡を待ち続けることも、辛くて苦しかった。あらゆることから目を背け、何もかも捨てて逃げ出したかった。でも、1人でそんなことをする勇気はなくて……だから月島なぎさを利用して、この世界を滅ぼし、すべての現実を放棄しようとした。ただ、それだけだった。でも、それももう終わりだ。バカだよな、最初からこうしていれば、月島なぎさも、誰も傷つくことはなかったのに……」


 しゃべっている間も、桐山は後退し続けていた。いつの間にか彼は屋上の端まで来ていた。


「やっと終わる。これで……」


 両手を左右に広げ、目をつぶり、体を傾かせる。屋上に柵はない。


「桐山!」


 桐山の体が屋上から離れ、地面へ落ちる寸前のところで、その腕を天宮が掴んだ。女性の細い腕で大の大人の体重を支えるのは容易ではないはずなのに、彼女はけして手を放そうとはしなかった。


「死なせてくれ。娘のいないこの世界など、もう……」


「ふざけないで!」


 天宮の怒声が響いた。


「娘さんはまだ生きてるんでしょう! 必死に生きようとしているんでしょう! 目を覚ましたとき、お父さんがいなかったら……大好きな人がいなかったら……娘さんはどう思うの。あなたはそんな辛い……過酷なことを娘さんにさせるの?」


 天宮の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。


「当たり前だったものが当たり前じゃなくなることが、どんなに悲しいか……知ってるでしょ。あなたは同じ思いを、自分の子供にさせるの?」


 天宮の目からは涙がとめどなくあふれ、それが腕を通じて、桐山の頬を濡らした。


 その声に感化されたのか、秀一もまた天宮の元に駆け寄り、桐山の腕を掴んだ。疲弊してるはずなのに、無言で桐山を力いっぱい引き上げようとする。


 颯太は立ち尽くしたままだったが、急に走り出し、いまにも落ちかけている桐山に向かって腕を伸ばした。


「桐山、俺の手を掴め!」


 体を乗り出し、精一杯手を手を差し出す。


「娘さんはまだ生きてるんだろ。なら、あきらめんなよ! 最後の最後まで、娘さんを信じろよ!」


 桐山はしばらく呆然としていたが、急に体をくねらせ、這い上がろうともがいた。

 

 その振り上げた腕を颯太はしっかりと掴んだ。右肩に激痛が走る。だが、颯太は手放そうとはしなかった。腕が千切れ、血がにじみ出るとしても、彼は見捨てまいと心に誓った。


「せーの!」


 秀一の掛け声で一斉に引っ張る。桐山の上半身が屋上に滑り込むように引き上げられた。気を抜いて落下しないように、ベルトに手をかけ、体全体を手前へとたぐり寄せる。


 安全になったことを確認すると、颯太は桐山から手を離した。すぐそばで秀一が微笑んでいる。天宮もまた安堵からか、穏やかな表情を浮かべていた。桐山ももう自殺する気が失せたのか、じっとしている。


 疲労がどっと押し寄せ、颯太は倒れるようにあおむけに寝ころんだ。腕の痛みは断続的に続いていたが、達成したことへの高揚感からか、気にならなくなっていた。


 自分のやれることはすべてやりきった。あとは神那と優花が、なぎさを連れて帰るのを待つだけだ。


 空にはいまだ暗鬱な煙が漂い、夜なのか朝なのかわからない。なぎさが戻ってきたときにどんな声をかければいいか、何も思いついていない。でも、きっとどんな言葉でもうまくいく、そんな予感がした。


 ふいに微笑んだ颯太を象徴するように、現れた光が輪となって、暗い世界を切り裂いていった。

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