天宮聖羅Ⅵ-2

 パンデミックが起き、人類が滅亡に瀕しているという設定の映画を観たことがある。そこでは人間だけが町から消え、文明が置き忘れたようにそのままの姿で取り残されていた。街並みに変化はなく、閑散としているだけなのに、雰囲気はどこか寂しげで物憂げだった。人が暮らしていた華やかな喧騒を知っているからこそ、余計そう感じたのかもしれない。


 その映画と同じく、ゴーストタウンと化した建物の間を、1台の車が走り抜けていく。あたりは静かで、人影はどこにも見えなかった。

 

「さすがに誰もいないですね」


「私たち以外で外を出歩くのは、自殺しに行くようなものだしね」


「ここが東京とかの大都市じゃなくてよかった」


「そうね。昨晩のうちに一通り避難したのか、渋滞も起こってないみたい」


 信号が赤に変わり、つい車を停車させる。だが、どこを見渡しても車が通り過ぎる予感はない。天宮は一応辺りを注意しつつ、赤信号のままアクセルを踏みこんだ。


「教師が信号無視なんて、バレたら懲戒免職ものね」


 そう自嘲的にあざけながら、ハンドルを切った。


 病院はまるで町中の人間が押し掛けたかのように人であふれ、大混乱に陥っていた。あちこちで体調が悪いと訴える人でごった返している。順番がいつまで経ってもこないと、声を荒げている人もいる。走り回っている看護師もほとんど休んでいないのだろう、ひどく顔色が悪い。


「なんだかすごいことになってますね」


「ええ、まだ町に残っている人はいると思っていたけど、予想以上ね……」


 とてもじゃないが、なぎさや桐山のことを聞けるような雰囲気ではない。それでもなにかすこしでも情報を得ようと、天宮はたまたま目の前を通り過ぎようとしている看護師に声をかけた。


「あの……」


「受付はあちらです! ただこんな状況なので、本日中に診察が受けれる保証はありません!」


 天宮が患者だと勘違いしたのか、ぴしゃりと一方的に看護師がまくしたてた。


「いえ、そうじゃないんです」


 平然としている私たちに気づいたのか、看護師は怪訝そうな顔をしながら、「だいじょうぶなんですか?」と尋ねた。


「あの……すごいことになってますけど、市外に避難はしないんでしょうか?」


「避難? ここには動けない患者さんもいるのよ。救急車の数だって限られてるし、その人たちを見捨てていくことはできません」


 そうだった。自分たちが健康なのでついつい軽視してしまうが、世の中には動けない人や、体が不自由でなかなか移動できない人もいる。


 こんな緊急事態なら、誰もが我先にと逃げようとするのが普通なのに、そういう人を見捨てないで、自らの危険を顧みず他人を助けようとする人間もいる。


 天宮の胸に、ほんのり灯が宿ったような温かさが広がった。


「とくに用がないなら行きますので」


「あの! 月島なぎささんという子について何か知りませんか?」


 足早に立ち去ろうとする看護師を、天宮は慌てて呼び止めた。


「月島なぎさ?」


 看護師はすこし考えこむようなそぶりをしたが、

「残念ですけど、ちょっと心当たりはありません」と答えた。


「そうですか……」


「その子がどうかしたんですか?」


「行方が分からなくて……」


「こんな状況ですものね……」


 先ほどまで厳しい目をしていた看護師から同情の念が見て取れた。人を助けるという職業柄、どうしても襟を正さなければならないときが多いのだろうけれど、根はやはり優しい人なのだろう。


「あの、もう1つお尋ねしたいことがありまして……」


「はい、なんでしょう?」


「桐山という人についてなんですけど……」


「桐山って、桐山芽実ちゃんのこと?」


「そうです」


 実際は下の名前は知らない。だが、それすら知らないと怪しまれてしまうような気がしたので、天宮は咄嗟にウソをついた。一か八かの賭けだった。


「様子を見に来たんです。だから、あの、病室を教えてくれませんか?」


「芽実ちゃんもあんな状態ですからね……」


 看護師は悲しげに目を伏せ、表情を曇らせた。やがて彼女は、その芽実という子が入院している病室の番号を教えてくれた。


「なんとか切り抜けたわね」


 老婆にせかされた看護師が走り去るのを見届けてから、天宮が言った。


「先生、なんで名前を知ってるんですか?」


「嘘も方便というやつよ。とりあえず、その子のいる病室に行ってみましょう」


「勝手に入って怒られないですかね」


「月島さんは病気で目を覚まさないって言っていたわ。なら急に入っても、不審がられることはないんじゃないかしら」


「でも、なぎさをさらった桐山っていう人がいたら……」


「そのときはそのときよ」


 もし病室で桐山と鉢合わせになり、襲い掛かってこられたとしても、天宮にはこの不思議な力がある。人間相手に使うのは気が引けたし、リスクも高いと思われたが、最悪のときはそれも辞さないと、そう天宮は考えていた。


 エレベーターに乗り、目的の階に降りる。自動扉が開いた先にあるナースステーションはもぬけの殻だった。おそらく各看護士が対応に追われそれどころではないのだろう。普通はここで面接の受付をしないといけないのだが、天宮は無視して桐山の娘の病室を探すことにした。途中、点滴につながれた老人を抱きかかえるように進んでいる看護師とすれ違ったが、天宮たちに目を配る余裕などないのか、何も言われなかった。


「ここね」


 天宮たちは廊下の端にある病室の前で立ち止まった。表札にはとてもきれいな書体で桐山芽実という文字が記していた。


 天宮は息をひそめ、そっと扉に手をかけた。優花も緊張からか顔が強張っている。天宮は音を立てないように、ゆっくりと扉を引いた。


 個室だった。


 大きなベッドが1つ置いてあり、白いシーツが蛍光灯に照らされ、すこし緑がかっていた。そのなかにすっぽりと包み込まれるように、不釣り合いな小さな少女がそこに横たわっていた。鎖骨のあたりには何本かの管がつけられ、それらがいくつかの点滴につながっている。


 目は開いており、起きているようだった。だが、天宮たちの様子に気づくこともなく、じっと天井を見上げている。


 心電図が緩やかな鼓動を表示し続け、一定の音を刻んでいた。


 天宮も優花も最初は足を踏み入れることができなかった。そこは教会のように神秘的で神聖な場所で、近づくことすら許されない、そんな感じがしたからだった。


 絶え間なく落ち続ける点滴だけが、時計の針のように動くことを許される、そんな空間だった。


 天宮は足音を立てないよう忍び足で少女に近づくと、その顔を覗き見た。頬は褐色が良く、十分なみずみずしさと柔らかさに満ちていた。だが、角膜は暗く、焦点はうつろで虚空を漂っている。


 天宮は疑問に思い、目の前で手のひらを振って見せた。少女は何の反応もしない。


「これって……」


「おそらく植物状態ね」


「なぎさは病気って言ってたから、てっきりそうかと思っていたのに……」


 小さなその少女の手を天宮はそっと握った。そこには体温があり、暖かい血流が指先を通じて脈打つのがわかった。胸に手をのせる。心筋は衰えることなく、ポンプとしての役割を十分に発揮している。


 ——この子は生きている。


 瞳は目としての役割を放棄し、体は植物のようにベッドに固定され、何1つ自身で動かせない物体となったにもかかわらず、彼女の内部では心臓が拍動し、血液を送り続けていた。少女は殻の中で静かにうずくまる雛のように、たしかに存在していた。


 この子はいつからこうしているのだろうか。そしてこの子が動かなくなったとき、桐山はどう思ったのだろうか。さまざまな思案が湧き水のように溢れては、排水溝の中に飲み込まれて沈んでいった。あらゆる意識や感覚が少女から飛び立ち、はるかかなたの、暖かく柔らかい世界へと旅立っていた。ベッドに横たわる少女は氷で固められた生花のように儚げで、触れるだけで風化する砂のような脆さを持ち合わせていた。天宮はそっと手から指を離し、それを元のベッドの中へとしまい込んだ。


「行きましょう」


 優花が困惑の表情を見せた。


「ここで得られる情報はもうなさそうだわ。神那くんたちも心配だし、とりあえず合流しましょう」


「はい」


 優花は促されるまま、病室を後にした。


 扉を閉めるとき、天宮はもう一度室内を振り返った。機械音の片隅で、小さな呼吸がわずかに響いたのが、鼓膜の奥底に届き、耳鳴りのように残った。

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