天宮聖羅Ⅵ 白い部屋
天宮聖羅Ⅵ-1
けたたましいサイレンの音が鳴り、天宮は飛び起きた。目覚まし時計を手に取ると、時刻は午前6時過ぎを指していた。だが、室内は暗く、とても早朝とは思えない。カーテンの隙間から外を覗き見る。それでも、初秋のほどよい朝日が差し込んでくることはなかった。黒い煙が空全体に漂い、町を闇に染めていた。街灯の明かりだけが提灯のように、ぼんやりと光っている。
「完全に夜ね」
天宮はカーテンを閉じると、すぐそばで寝息を立てている優花となぎさの頭をそっと撫でた。いろいろなことが立て続けに起こり、よほど疲れていたのだろう。さきほどの大音量でも2人は目を覚ます気配がなかった。まだ寝かしといてあげよう。天宮は静かにベッドから抜け出すと、そっとカーディガンを羽織り、リビングに向かった。
リビングでは神那がソファーに座って、TVを見ていた。
「早いのね」
そう話しかけると、神那はちらりとこちらの方へ顔を向けたが、すぐに目線を画面へと戻した。天宮も無言のまま彼の隣に座る。薄暗い部屋の中で、TVの明かりだけがやけにまぶしく点滅を繰り返していた。
「政府は〇〇市全域に非常事態宣言を行い、△△駅を中心に半径3kmにおいて厳戒態勢をしきました。付近の住民の方は速やかに避難してください。なお町全体を覆う黒い煙ですが、毒素は低いながらも有毒ガスと見られ、吸い込むと頭痛や吐き気、ひどい場合は手足のしびれが起きることが確認されています。口元にはハンカチやタオルなどを当て、なるべく吸い込まないよう注意してください。万が一吸い込んでしまった場合は、すぐに水でゆすぎ、最寄りの医師に診てもらってください。足が悪いなどで避難が難しい方は外出を控え、窓などをしっかりと閉じ、なるべく外気が入らないようにしてください。幸い、電気系統の故障や、電話が不通になっているという報告はありません。落ち着いて警察や救急に連絡し、救助が来るのを待ってください」
いつも仏頂面で淡々とニュースを読み上げているキャスターも、事態が異例のことなのか深刻そうな面持ちをしており、口調の端々に緊張の様子が見て取れた。
「また、煙の中で正体不明の化け物のようなものを見たという証言が相次いでいます」
その言葉とともに、撮影された黒い化け物の姿がTVに映し出される。煙が充満しているためか、その姿形は不明瞭ではあったが、あきらかに人間の姿とは違っていた。おそらく私たちを襲った化け物の仲間に違いないだろう。ただ驚愕すべきはその数は1つではないということだ。暗闇の中、無数の化け物が蟻のようにうごめいている。天宮の鼓動が荒く、うねるように高鳴った。
ふたたび、遠吠えのようにサイレンが鳴り響いた。
その騒がしい物音に同じく目が覚めたのか、寝室から颯太と秀一が姿を現した。
「おはよう。すこしは休めた?」
颯太は問いには答えず、大きくあくびをした。疲れの抜け切れていないその瞼と、無言の返事から、そんなにしっかりと寝付けたわけではないのはあきらかだった。
本当はもっと睡眠をとらせてあげたいのだが、画面から流れる映像が、一刻の猶予もないことを示していた。天宮は乾燥機付きの洗濯機から、あらかじめ洗っておいた制服を取り出すと、颯太たちに手渡した。その後、部屋に戻り、優花となぎさを起こすと、自身も普段着に着替えた。彼女たちが支度をしている間、押し入れからリュックを取りだし、非常用の水や食料、懐中電灯などを詰め込んだ。準備が終わると、一行はマンションの駐車場に向かった。駐車場はがらんとしていて、そこには天宮の物以外、1台の車も停められてはいなかった。それは昨日の夜から明け方にかけて、ほとんどの住民が町から逃げたということを物語っていた。
地震などの災害の場合、道路が破損したり、電柱が倒れたりして移動が困難な場合が多いが、今回はそうではない。毒ガスが迫りくる町に居続ける選択は愚かだ。県外の実家や親戚の家に避難するのは至極当然のことだろう。行くあてのない場合も、各地の学校の体育館や公民館などを避難所として利用できるとのことだったから、そちらに向けて出発したのだろう。だが、黒い煙は拡大し続けている。今日安全だった場所が、明日も問題がないとは限らない。
天宮は車のドアを開け、キーだけを差し込み、エンジンをかけた。ガソリンはまだ十分にあった。
「さて、病院か研究所どちらから先に向かおうかしら」
「二手に分かれた方がいいと思います」
秀一が提案した。
「それは危険だわ。あんな化け物がいつ現れるかわからないのよ」
「たしかにそうですけど、僕たちも一応戦えますし、それにこの煙の進行速度から時間をかけるのはまずいと思うんです。朝のニュースからすでに3km四方は浸食されていますし、昨日の仮説が正しければ、どんどん化け物の行動範囲が広がっているということになります。いまですら全域をカバーするのは厳しいのに、このままだと取り返しのつかない状況になると思うんです。それならば多少危険かもしれませんが、別々に分かれて、すこしでも早く月島さんの手掛かりを探したほうが最善だと思います」
悔しいけど、その通りだった。この黒い煙が拡散するスピードは尋常ではない。すでに駅周辺まで煙が届いている。1週間もすれば、市内全域まで覆いつくす可能性がある。
「残念だけど、楠原くんの言うとおりね」
天宮は観念した。
「私の家から研究所までは歩いてそう遠くはないわ。逆に病院は駅の向こう側だから距離がある。車で行ったほうが安全ね。この中で運転できるのは私しかいないから、必然的に私は病院担当ということになる」
天宮は赤い軽自動車をじっと見つめている神那の方へ顔を向けた。
「神那くん、研究所方面はお願いしていいかしら」
たぶん全員の中で一番力を使いこなしているのは神那だ。それは皆が知るところだった。大人である自分よりも頼りになるのは間違いない。
その期待に応えるように、神那は頷いた。
「みんなも神那くんと一緒に研究所へ向かって」
「先生1人だけで病院へ行くんですか?」
「こっちは車だから、何かあっても振り切れる。徒歩で危険が付きまとう、そちらに人数が多いに越したことはないわ」
「でも、さすがに先生1人だけというのは……」
「だいじょうぶよ、こう見えて免許の実技試験は1発合格だったんだから」
なんのあてにもならない理屈だったが、それでも不安を取り除こうと、天宮は自信満々にそう言い切った。
「ホントに平気なのかよ、天宮だけで」
「杉野くんも、心配してくれるのね、ありがとう。でも、安心して。もし危なくなったらすぐ逃げるから」
天宮は颯太の気遣いが嬉しかったのか、素直に感謝を口にした。颯太は自分が他人を心配するということに気恥ずかしさを感じたのか、うつむき、足元の小石を蹴った。すこし頬が紅潮しているようだった。
「とりあえずこれを渡しておくわ」
停電になったとき、どんな場所にいても問題ないようにと、各部屋どころか洗面所やトイレにまで懐中電灯を設置していった心配性な母のおかげで、天宮の家には有り余るほど懐中電灯があった。そのうちの2本を神那と颯太に渡す。
「いい、絶対に無茶はしないこと。勝手な行動は控えて、何かわかったらすぐに連絡すること。幸い携帯はつながるみたいだから——」
そこまでしゃべって、天宮はいま自分が言っていることが昨日の橘の言葉とまったく一緒だったことに気づいた。昨日の橘もこんな気持ちだったのだろう。橘には子供の頃から心配ばかりかけている。この事件がひと段落着いたらちゃんと謝り、感謝の気持ちを伝えよう。そう天宮は心のすみにメモを残した。
「そうそう、私の携帯番号も教えておくわね」
「携帯が繋がるのはありがたいな」
「ええ、ライフラインに影響がないのは、不幸中の幸いだわ」
天宮の番号を登録している颯太の横で、秀一が何か腑に落ちない顔をしている。
「どうしたの、楠原くん?」
「いえ、べつに……だいじょうぶです」
「そう、とにかくみんな気を付けてね。何かあったらすぐに連絡して。事が済み次第、急いで戻ってくるから」
天宮は車を発進させようと、扉に手をかけた。そのとき、ドアミラーから物憂げにこちらを見つめるなぎさと目が合った。彼女は何か迷っているようだった。そのことが事実であったように、彼女は大声で叫んだ。
「待って! 優花も先生と一緒に行ってあげて」
「えっ」
突然のなぎさの懇願に優花はうろたえた。
「私ならだいじょうぶよ、月島さん」
「ううん、やっぱり1人は危険だよ。本当は私が同行すればいいんだけど、たぶん私は研究所に向かった方がいいから……」
「まあ、たしかにあの中に入ったことあるのはなぎさだけだろうしな」
「だから、優花が代わりに行ってあげてほしい」
「でも……」
優花はなぎさと離れるのが不安なのか、迷っている。
「私は賛同できないわ。柊さんはこの中で唯一、傷を治すことができるのよ。その彼女を連れていくということは、万が一みんなが危険な状態に陥ったとき、それを回復する手段を失うということになるのよ」
「でも、それは天宮も同じだろ?」
「私は教師よ。まず生徒を第一に考えるのは、当然のことよ」
できるだけこの子たちが危険に晒されるようなことは回避したい。天宮は断固として意見を曲げる気はなかった。そんな彼女に対して、颯太があきれたようにため息を吐いた。
「じゃあ、病院は天宮と優花の2人に任すから。俺たちは研究所に向かうよ」
「杉野くん!?」
「心配するなって、こっちは男3人で、神那もいる。それにケガしなければいいんだろ? 簡単なことだよ」
「颯太……」
なぎさは颯太が自分の気持ちを後押してくれたことに、感激しているようだった。
「わかったよ、なぎさ。私は先生と一緒に行く」
「柊さんも……」
判断を決めかねていた優花も意志を固めたのか、そう強く申し出た。そして助手席に乗り込むと、シートベルトをしっかりと締めた。
「本当にあなたたちは聞き分けのない生徒たちだわ」
天宮は投げやりにそう言い放つと、自身も運転席に着き、ギアを入れた。
ゆっくりと車が動き出し、神那たちの姿が遠のいていく。
みんな必ず無事でいてね。
天宮は心の中でそう祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます